青井が「灯台」に入ると、珍しく白洲は渋い顔をしていた。普段は穏やかで、どこか淡い微笑をたたえている人なのに、眉間にすこし皺が寄っている。扉を閉め、靴を脱いで足音を立てないように進みながら、青井は声をかけた。
「白洲さん。いつものコーヒーと、サンドイッチ」
白洲は顔を上げたが、返事はぎこちなかった。
「え、ああ」
普段なら、軽く笑みを浮かべてすぐに作業に取りかかるのに、今日はどこか手が止まっている。
「何か、あったんですか」
白洲は一瞬黙り、机の上に広げた紙に目を落とした。ちらりと青井に見せる。そこには、くっきりと「シニアの婚活パーティー」と印刷された文字が並んでいた。
「今度の水曜日、これに参加しなくてはいけない」
白洲の声には、どこか苦みが含まれていた。
青井は思わず眉を上げる。
「婚活、ですか」
「大学時代の同期から、どうしても参加してほしいと頼まれてね」
白洲は紙を机に置き、指で軽く押さえた。
「断って波風を立てるのが嫌だったもので、つい」
「行きたくないんですか」
白洲は小さく肩をすくめた。
「行っても意味がないんだ」
紙を見つめたまま、声は柔らかいが確かな諦念を帯びていた。
「長い結婚生活で得た習慣は、体に馴染んだ服のように、今さら脱ぐことができない。妻が死んだ後もそれは変わらないんだ。今更、新しい生活を手に入れたいとは思わないよ」
青井は、言葉の意味を飲み込む前に、ゆっくり理解した。白洲は、妻を亡くしていたのだ。一瞬、言葉を失ったが、ここで大げさな反応をすることは、白洲の静かな時間を乱すだけだと思い、胸の奥に押し込んだ。
「それに、こういう社交場は苦手だ」
スーツでびしっと決めた白洲が、婚活パーティーの会場に立っているところを思い描く。どこかぎこちなく、しかし、凛としている姿が浮かぶ。
「せっかくなんで、普通のパーティーだと思って楽しめばいいんですよ」
白洲は微かに目を細め、苦笑した。
「そうかね」
眉間の皺が、少しだけ緩む。
「楽しめるといいのだが」
青井は、白洲が苦手な社交の場に行くことを思うと、どこか不安になった。しかし、こういうときは、言葉よりも見守ることが大切だと感じた。
「それで、ここに色々書かなければいけない」と白洲は紙を広げ、鉛筆を持つ手を少し震わせた。
青井は紙の内容を覗き込む。年齢、趣味、好きな音楽、好きな絵画、好きな本、好きな映画。プロフィールを細かく埋めるための項目がびっしりと並んでいる。どれも共通の話題を探すためなのだろう。青井はすぐに、白洲が参加したくないという気持ちがよく分かった。
「年齢は六十七歳。趣味は……」白洲は紙に目を落としてつぶやいた
「パン作りじゃないですか?趣味というか仕事だけど」青井は微笑む。
「そうだね。まあそれ以外ないのだからそうしておこう。趣味、パン作り、と」
白洲は少し笑い、紙に書き込む。
青井は続けて「じゃあ好きな音楽はどうします?」と聞いた。
白洲は少し考えたあと、「ジャズかな。ビリー・ホリデイとか、エラ・フィッツジェラルドとか。あとデューク・エリントンも好きだ」と言った。
「え、私もそれ好きです。特にホリデイの声の震え方とか、言葉の切れ方がたまらないんです」
白洲は驚いたように目を見開き、少し笑った。
「君もジャズを聴くんだね。最近の曲も?」
「たまに。でもどちらかというと古いのが好きです。ストラヴィンスキーの『火の鳥』や、ラヴェルの『ボレロ』なんかもよく聴きます」青井は静かに答えた。
白洲の眉が少し上がる。
「ラヴェルか……渋いね。ボレロは昔、妻とよく聴いたものだ」
「私もオーケストラの演奏会に行ったことあります」
白洲は思わず息をついた。
「あと、映画音楽も好きだな。バーンスタインの『ウエスト・サイド物語』のサウンドトラックとか」
「ええ、それも大好きです。オリジナルキャスト盤のあの緊張感、聞くと胸が痛くなる感じがします」
白洲は目を細めて頷いた。
「君の感覚はなかなか鋭いね。では次は絵画だ。好きな画家は……」
青井はそっと指を伸ばし、店の奥の棚に置かれた小さな絵葉書を指さした。
「『印象・日の出』ですか? そこに飾ってありますよね」
白洲はその指先を追い、絵葉書を見つめた。淡い朝の光に水面が揺れる様子が、小さな紙の上に再現されている。
「モネは好きだね。『睡蓮』シリーズは特に良い。光の具合が毎日違う、水面の揺れまで感じる」
「そう、水面の揺れとか、空気の揺らぎを描く感じが、まさに御前崎の海に似ているなと思うんです」
「それは嬉しいね」白洲はにやりと笑った。
「じゃあモネが一番?」
「いや一番は、セザンヌかな。構造を描くというより、世界の秩序を見せるような。あとはホッパーも興味深い。静かな街角にある孤独や日常を描くところが、今の自分の心境に近い」
青井は頷いた。
「私もホッパーは好きです。『ナイトホークス』の静かな喫茶店の感じ、なんだかここみたいで」
白洲は笑った。
「確かに、そうだ」
青井は少し照れながら続けた。
「じゃあ次、好きな本は?」
「ドストエフスキーやトルストイ、カミュ、プルースト……」
「じゃあ、プルーストの『失われた時を求めて』は?」
白洲は少し驚いた。
「『失われた時を求めて』か。それは素晴らしい選択だね。よしそれにしよう」
白洲はテーブルに肘をつき、少し曲がった手の指で鉛筆を握りながら、紙に文字を書き込んだ。机の木目には長年の使用でできた細かな傷や染みがあり、白洲の手のしわがそれに重なるように見えた。年齢を感じさせる手の関節は微かに膨らみ、かすかな青い血管が透けている。鉛筆を走らせるたびに、ゆっくりとした確かな動きが紙の上に文字を刻む。静かな店内の光の中で、その手は過去と今をつなぐ、静かで力強い証のように見えた。
「好きな映画は?」
「ヒッチコックの映画かな」
「あ、いいですね」
白洲は微かに笑い、青井の目を一瞬見た。
「ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』とか、『裏窓』も面白い。映像の緊張感や構図が、油絵の構図に通じる部分があると思うよ」
二人は少しの間、紙に目を落としたままだった。
青井は驚いた。共通の名前がどんどん並ぶ。世代の壁を越えて、自分と白洲が観ている世界は意外に似ている。静かに笑みがこぼれた。紙の上で二人の世界が交わるような、そんな気持ちになった。
「もし婚活パーティーにいい人がいたらどうするんですか」
白洲は肩を少しすくめ、柔らかく答えた。
「どうもしないさ。紳士な対応をして、それでさよならだ」
青井は小さく息をつきながら、「もったいないな」と返した。
「あ、牧野さんはどうですか。すごい美人だし」
白洲は目を細め、微かに笑った。
「彼女がここに来る日常をそんなことで壊したくはないよ」
そして少し言葉を付け加えた。「二人目の奥さんなんていらないさ」
青井はその微笑を見ながら、ずっと一緒に暮らすということは、どんな気持ちなのだろうと思った。昆虫標本のように、静かに並ぶペアの存在を思い浮かべる。隣に誰かがいて、それがごく自然なことのように思える暮らし。
自分と岩田との関係を思い返す。東京での日々、少しずつ減っていく連絡、少しずつ遠くなる距離。でも、まだ切れない糸のように繋がっていること。白洲の言葉の穏やかさは、青井の胸に静かな波紋を広げた。
アトリエには、潮の匂いがかすかに残っていた。建物自体が海風に少しずつ削られているのだろう。窓枠の金属はところどころ白く曇り、光を柔らかく散らしていた。
青井は、まだ真新なキャンバスの前にいる。色を置く前の白は、どこか落ち着かない。自分の汚い部分がそのまま見えてしまうような気がして、気持ちがそわそわした。
「こんにちは」
背後から声がした。
振り向くと松山がいた。肩幅が広く、筋肉質だが、運動は苦手らしい。ただ、生き方そのものが体に積み重なったような、そんな存在感があった。
「こんにちは」
青井は少し微笑んだ。
松山は自分のキャンバスの前に座り、エプロンをかけた。その動作は静かで、無駄がなく、まっすぐだった。
「今は何を描いているんですか」
「防波堤の釣り人です」
「釣り人?」
「ええ。昨日、港で見かけたんです。いつもいる人らしくて」
言いながら、松山は鉛筆で軽くあたりを取る。線は迷いがなかった。迷いがないというより、迷ったまま描いてしまえる強さがあるように見えた。
「前は風車の絵も描いてましたよね」
「はい」
「描くものが、なんというか、御前崎っぽいですよね」
松山は少し笑った。口元だけで、控えめに。
「そうですね。でも、ただ御前崎らしいからというわけではなくて」
「じゃあ、なぜ?」
松山は筆を手に取りながら、少しだけ空を見るような目をした。
「風車って、回っているようにしか見えないでしょう。ずっと同じようにぐるぐる。でも実際は光の当たり方とか、風の強さとか、見る側の気持ちとか。それで、姿が変わる」
「……はい」
「人もそうだと思って」
それは言葉というより、何かをそっと置かれただけのような静けさだった。
「動いているのに、変わっているのに、同じに見える。そういうものを描きたいんです」
松山の声は、穏やかだった。アトリエには、その声がよく馴染んでいた。
繰り返すことは、生きることと切り離せない。あのカフェも同じだ、と青井は思った。
白洲が淹れるコーヒーの香りも、ガラス戸に映る午後の光も、木目の擦り減ったカウンターも、日々少しずつ変わっているのに、いつも同じものとしてそこにある。
それは穏やかで、優しくて、少し怖い。終わりがないものは、時に人を眠らせ、時に生かし続ける。
だから青井は思うのだった。自分は、これから何を繰り返して生きていくのだろう、と。その問いだけは、どこかに置き去りにしてはいけないような気がした。
「では、釣り人はどうして?」
筆がキャンバスに触れる音が、かすかに響いた。
「釣りって、待つ時間がほとんどですよね」
「はい」
「動かない時間がほとんど。けれど心は動き続けている。何かが釣れるかもしれないし、何も釣れないかもしれない。雑念、不快感、倦怠感、高揚感。でも、竿を持って立っている。海風に吹かれながら、何かを信じて。僕は、そういう姿が好きなんです。人の背中がいちばん、その人を語る気がして」
青井は、岩田の背中を思い出した。最後に見送った日の駅のホーム。その背中は、ふたりがまだ同じ場所に立っていると信じていた背中だった。
久しぶりに袖を通した紺のスーツ。布地はわずかに古びていたが、きちんと手入れされていて、肩の落ち方などはまだ馴染んでいる。
婚活パーティーという名の、二時間の苦行。
そう思いながらも、白洲は入り口で渡された名札を胸元につけ、案内されたテーブルの席に腰を下ろした。向かい側で、大学時代からの付き合いの岡部が、相変わらずの間延びした笑い声を立てていた。昔は癖のある濃い髪を自慢のように撫でていたが、いまはすっかり頭頂だけが寂しくなり、横の毛をやや不自然に整えている。だが、その笑い方だけは、四十年前と少しも変わらない。
「白洲、来てくれるとは思わなかったよ」
「家にいてもすることがなくてね。たまには社会見学だ」
白洲が言うと、岡部は嬉しそうに膝を叩いた。もうこの男とは半世紀近くの付き合いなのだと思った。
半世紀。
重さがあるようで、どこか乾燥した言葉だった。年月というものは、しみ込むのではなく、ただ積もるのだと感じた。
同じ卓の隣に腰掛けた婦人は、おそらく七十五歳ほどに見えた。小さな体で、ハンドバッグを抱えたまま背筋だけは伸びている。しかし、笑った瞬間、歯が一本もないことがわかった。声は出るのだが、言葉にはならない。白洲は微笑み、うなずき、合いの手だけでその席を過ごした。
次に話した太った女性は六十五歳で、開口一番、膝が悪くてね、と言った。そこから話題は自然と、病院や医師、保険制度へと傾いていく。隣のテーブルの男女も、自分の持病と手術の経験について語っていた。誰もが、日常の中の痛みを、少しでも共有することで安心したいのだろう。それは哀しみではなく、ごく静かな現実だった。
白洲は、思ったより居心地は悪くないと気づいた。部屋に満ちている空気は、どこか力の抜けたものだった。
誰も、本気ではないのだ。
そのことを白洲はすぐに感じ取った。
恋愛や結婚というものは、あまりに劇的で、あまりに体力がいる。人生の後半に差しかかった者たちは、その劇的さをもはや望んでいない。触れれば崩れるかもしれないものより、触れなくても済む距離を、無意識に選んでいた。
ふと、牧野の顔が浮かんだ。穏やかで、少し涼しげな目元。いつも淡い色の服を着て、髪を無造作に束ねている。若い頃は、きっと男が群がっただろうと思う。今の年齢でも美しいのだから、若い時は、もっと輝いていたに違いない。
牧野となら、と白洲は考えた。
やもめ同士。生活は大きく変わらず、水に水を足すみたいに、静かに馴染むのではないか。食卓に並ぶ皿が二枚になるだけで、何も騒がしくならないのではないか。
そう考えた自分に、白洲はひどい嫌気を覚えた。それは恋ではなく、ただの省エネルギーの算段に思えた。美しいものを、あまりに雑に扱ってしまったような、ひどく後味の悪い感覚だった。
司会者が、長々とした挨拶を続けていた。マイクの音は少し割れていて、内容は記号のようにしか聞こえない。しかし白洲は、その単調な声に耳を預けた。
会場の空調は少し効きすぎていて、首筋がひやりとした。
白洲はグラスの水を口に含んだ。冷たさは喉を通り過ぎ、胸の奥のやわらかいところに、静かにしみていった。
「白洲さん。いつものコーヒーと、サンドイッチ」
白洲は顔を上げたが、返事はぎこちなかった。
「え、ああ」
普段なら、軽く笑みを浮かべてすぐに作業に取りかかるのに、今日はどこか手が止まっている。
「何か、あったんですか」
白洲は一瞬黙り、机の上に広げた紙に目を落とした。ちらりと青井に見せる。そこには、くっきりと「シニアの婚活パーティー」と印刷された文字が並んでいた。
「今度の水曜日、これに参加しなくてはいけない」
白洲の声には、どこか苦みが含まれていた。
青井は思わず眉を上げる。
「婚活、ですか」
「大学時代の同期から、どうしても参加してほしいと頼まれてね」
白洲は紙を机に置き、指で軽く押さえた。
「断って波風を立てるのが嫌だったもので、つい」
「行きたくないんですか」
白洲は小さく肩をすくめた。
「行っても意味がないんだ」
紙を見つめたまま、声は柔らかいが確かな諦念を帯びていた。
「長い結婚生活で得た習慣は、体に馴染んだ服のように、今さら脱ぐことができない。妻が死んだ後もそれは変わらないんだ。今更、新しい生活を手に入れたいとは思わないよ」
青井は、言葉の意味を飲み込む前に、ゆっくり理解した。白洲は、妻を亡くしていたのだ。一瞬、言葉を失ったが、ここで大げさな反応をすることは、白洲の静かな時間を乱すだけだと思い、胸の奥に押し込んだ。
「それに、こういう社交場は苦手だ」
スーツでびしっと決めた白洲が、婚活パーティーの会場に立っているところを思い描く。どこかぎこちなく、しかし、凛としている姿が浮かぶ。
「せっかくなんで、普通のパーティーだと思って楽しめばいいんですよ」
白洲は微かに目を細め、苦笑した。
「そうかね」
眉間の皺が、少しだけ緩む。
「楽しめるといいのだが」
青井は、白洲が苦手な社交の場に行くことを思うと、どこか不安になった。しかし、こういうときは、言葉よりも見守ることが大切だと感じた。
「それで、ここに色々書かなければいけない」と白洲は紙を広げ、鉛筆を持つ手を少し震わせた。
青井は紙の内容を覗き込む。年齢、趣味、好きな音楽、好きな絵画、好きな本、好きな映画。プロフィールを細かく埋めるための項目がびっしりと並んでいる。どれも共通の話題を探すためなのだろう。青井はすぐに、白洲が参加したくないという気持ちがよく分かった。
「年齢は六十七歳。趣味は……」白洲は紙に目を落としてつぶやいた
「パン作りじゃないですか?趣味というか仕事だけど」青井は微笑む。
「そうだね。まあそれ以外ないのだからそうしておこう。趣味、パン作り、と」
白洲は少し笑い、紙に書き込む。
青井は続けて「じゃあ好きな音楽はどうします?」と聞いた。
白洲は少し考えたあと、「ジャズかな。ビリー・ホリデイとか、エラ・フィッツジェラルドとか。あとデューク・エリントンも好きだ」と言った。
「え、私もそれ好きです。特にホリデイの声の震え方とか、言葉の切れ方がたまらないんです」
白洲は驚いたように目を見開き、少し笑った。
「君もジャズを聴くんだね。最近の曲も?」
「たまに。でもどちらかというと古いのが好きです。ストラヴィンスキーの『火の鳥』や、ラヴェルの『ボレロ』なんかもよく聴きます」青井は静かに答えた。
白洲の眉が少し上がる。
「ラヴェルか……渋いね。ボレロは昔、妻とよく聴いたものだ」
「私もオーケストラの演奏会に行ったことあります」
白洲は思わず息をついた。
「あと、映画音楽も好きだな。バーンスタインの『ウエスト・サイド物語』のサウンドトラックとか」
「ええ、それも大好きです。オリジナルキャスト盤のあの緊張感、聞くと胸が痛くなる感じがします」
白洲は目を細めて頷いた。
「君の感覚はなかなか鋭いね。では次は絵画だ。好きな画家は……」
青井はそっと指を伸ばし、店の奥の棚に置かれた小さな絵葉書を指さした。
「『印象・日の出』ですか? そこに飾ってありますよね」
白洲はその指先を追い、絵葉書を見つめた。淡い朝の光に水面が揺れる様子が、小さな紙の上に再現されている。
「モネは好きだね。『睡蓮』シリーズは特に良い。光の具合が毎日違う、水面の揺れまで感じる」
「そう、水面の揺れとか、空気の揺らぎを描く感じが、まさに御前崎の海に似ているなと思うんです」
「それは嬉しいね」白洲はにやりと笑った。
「じゃあモネが一番?」
「いや一番は、セザンヌかな。構造を描くというより、世界の秩序を見せるような。あとはホッパーも興味深い。静かな街角にある孤独や日常を描くところが、今の自分の心境に近い」
青井は頷いた。
「私もホッパーは好きです。『ナイトホークス』の静かな喫茶店の感じ、なんだかここみたいで」
白洲は笑った。
「確かに、そうだ」
青井は少し照れながら続けた。
「じゃあ次、好きな本は?」
「ドストエフスキーやトルストイ、カミュ、プルースト……」
「じゃあ、プルーストの『失われた時を求めて』は?」
白洲は少し驚いた。
「『失われた時を求めて』か。それは素晴らしい選択だね。よしそれにしよう」
白洲はテーブルに肘をつき、少し曲がった手の指で鉛筆を握りながら、紙に文字を書き込んだ。机の木目には長年の使用でできた細かな傷や染みがあり、白洲の手のしわがそれに重なるように見えた。年齢を感じさせる手の関節は微かに膨らみ、かすかな青い血管が透けている。鉛筆を走らせるたびに、ゆっくりとした確かな動きが紙の上に文字を刻む。静かな店内の光の中で、その手は過去と今をつなぐ、静かで力強い証のように見えた。
「好きな映画は?」
「ヒッチコックの映画かな」
「あ、いいですね」
白洲は微かに笑い、青井の目を一瞬見た。
「ヒッチコックの『北北西に進路を取れ』とか、『裏窓』も面白い。映像の緊張感や構図が、油絵の構図に通じる部分があると思うよ」
二人は少しの間、紙に目を落としたままだった。
青井は驚いた。共通の名前がどんどん並ぶ。世代の壁を越えて、自分と白洲が観ている世界は意外に似ている。静かに笑みがこぼれた。紙の上で二人の世界が交わるような、そんな気持ちになった。
「もし婚活パーティーにいい人がいたらどうするんですか」
白洲は肩を少しすくめ、柔らかく答えた。
「どうもしないさ。紳士な対応をして、それでさよならだ」
青井は小さく息をつきながら、「もったいないな」と返した。
「あ、牧野さんはどうですか。すごい美人だし」
白洲は目を細め、微かに笑った。
「彼女がここに来る日常をそんなことで壊したくはないよ」
そして少し言葉を付け加えた。「二人目の奥さんなんていらないさ」
青井はその微笑を見ながら、ずっと一緒に暮らすということは、どんな気持ちなのだろうと思った。昆虫標本のように、静かに並ぶペアの存在を思い浮かべる。隣に誰かがいて、それがごく自然なことのように思える暮らし。
自分と岩田との関係を思い返す。東京での日々、少しずつ減っていく連絡、少しずつ遠くなる距離。でも、まだ切れない糸のように繋がっていること。白洲の言葉の穏やかさは、青井の胸に静かな波紋を広げた。
アトリエには、潮の匂いがかすかに残っていた。建物自体が海風に少しずつ削られているのだろう。窓枠の金属はところどころ白く曇り、光を柔らかく散らしていた。
青井は、まだ真新なキャンバスの前にいる。色を置く前の白は、どこか落ち着かない。自分の汚い部分がそのまま見えてしまうような気がして、気持ちがそわそわした。
「こんにちは」
背後から声がした。
振り向くと松山がいた。肩幅が広く、筋肉質だが、運動は苦手らしい。ただ、生き方そのものが体に積み重なったような、そんな存在感があった。
「こんにちは」
青井は少し微笑んだ。
松山は自分のキャンバスの前に座り、エプロンをかけた。その動作は静かで、無駄がなく、まっすぐだった。
「今は何を描いているんですか」
「防波堤の釣り人です」
「釣り人?」
「ええ。昨日、港で見かけたんです。いつもいる人らしくて」
言いながら、松山は鉛筆で軽くあたりを取る。線は迷いがなかった。迷いがないというより、迷ったまま描いてしまえる強さがあるように見えた。
「前は風車の絵も描いてましたよね」
「はい」
「描くものが、なんというか、御前崎っぽいですよね」
松山は少し笑った。口元だけで、控えめに。
「そうですね。でも、ただ御前崎らしいからというわけではなくて」
「じゃあ、なぜ?」
松山は筆を手に取りながら、少しだけ空を見るような目をした。
「風車って、回っているようにしか見えないでしょう。ずっと同じようにぐるぐる。でも実際は光の当たり方とか、風の強さとか、見る側の気持ちとか。それで、姿が変わる」
「……はい」
「人もそうだと思って」
それは言葉というより、何かをそっと置かれただけのような静けさだった。
「動いているのに、変わっているのに、同じに見える。そういうものを描きたいんです」
松山の声は、穏やかだった。アトリエには、その声がよく馴染んでいた。
繰り返すことは、生きることと切り離せない。あのカフェも同じだ、と青井は思った。
白洲が淹れるコーヒーの香りも、ガラス戸に映る午後の光も、木目の擦り減ったカウンターも、日々少しずつ変わっているのに、いつも同じものとしてそこにある。
それは穏やかで、優しくて、少し怖い。終わりがないものは、時に人を眠らせ、時に生かし続ける。
だから青井は思うのだった。自分は、これから何を繰り返して生きていくのだろう、と。その問いだけは、どこかに置き去りにしてはいけないような気がした。
「では、釣り人はどうして?」
筆がキャンバスに触れる音が、かすかに響いた。
「釣りって、待つ時間がほとんどですよね」
「はい」
「動かない時間がほとんど。けれど心は動き続けている。何かが釣れるかもしれないし、何も釣れないかもしれない。雑念、不快感、倦怠感、高揚感。でも、竿を持って立っている。海風に吹かれながら、何かを信じて。僕は、そういう姿が好きなんです。人の背中がいちばん、その人を語る気がして」
青井は、岩田の背中を思い出した。最後に見送った日の駅のホーム。その背中は、ふたりがまだ同じ場所に立っていると信じていた背中だった。
久しぶりに袖を通した紺のスーツ。布地はわずかに古びていたが、きちんと手入れされていて、肩の落ち方などはまだ馴染んでいる。
婚活パーティーという名の、二時間の苦行。
そう思いながらも、白洲は入り口で渡された名札を胸元につけ、案内されたテーブルの席に腰を下ろした。向かい側で、大学時代からの付き合いの岡部が、相変わらずの間延びした笑い声を立てていた。昔は癖のある濃い髪を自慢のように撫でていたが、いまはすっかり頭頂だけが寂しくなり、横の毛をやや不自然に整えている。だが、その笑い方だけは、四十年前と少しも変わらない。
「白洲、来てくれるとは思わなかったよ」
「家にいてもすることがなくてね。たまには社会見学だ」
白洲が言うと、岡部は嬉しそうに膝を叩いた。もうこの男とは半世紀近くの付き合いなのだと思った。
半世紀。
重さがあるようで、どこか乾燥した言葉だった。年月というものは、しみ込むのではなく、ただ積もるのだと感じた。
同じ卓の隣に腰掛けた婦人は、おそらく七十五歳ほどに見えた。小さな体で、ハンドバッグを抱えたまま背筋だけは伸びている。しかし、笑った瞬間、歯が一本もないことがわかった。声は出るのだが、言葉にはならない。白洲は微笑み、うなずき、合いの手だけでその席を過ごした。
次に話した太った女性は六十五歳で、開口一番、膝が悪くてね、と言った。そこから話題は自然と、病院や医師、保険制度へと傾いていく。隣のテーブルの男女も、自分の持病と手術の経験について語っていた。誰もが、日常の中の痛みを、少しでも共有することで安心したいのだろう。それは哀しみではなく、ごく静かな現実だった。
白洲は、思ったより居心地は悪くないと気づいた。部屋に満ちている空気は、どこか力の抜けたものだった。
誰も、本気ではないのだ。
そのことを白洲はすぐに感じ取った。
恋愛や結婚というものは、あまりに劇的で、あまりに体力がいる。人生の後半に差しかかった者たちは、その劇的さをもはや望んでいない。触れれば崩れるかもしれないものより、触れなくても済む距離を、無意識に選んでいた。
ふと、牧野の顔が浮かんだ。穏やかで、少し涼しげな目元。いつも淡い色の服を着て、髪を無造作に束ねている。若い頃は、きっと男が群がっただろうと思う。今の年齢でも美しいのだから、若い時は、もっと輝いていたに違いない。
牧野となら、と白洲は考えた。
やもめ同士。生活は大きく変わらず、水に水を足すみたいに、静かに馴染むのではないか。食卓に並ぶ皿が二枚になるだけで、何も騒がしくならないのではないか。
そう考えた自分に、白洲はひどい嫌気を覚えた。それは恋ではなく、ただの省エネルギーの算段に思えた。美しいものを、あまりに雑に扱ってしまったような、ひどく後味の悪い感覚だった。
司会者が、長々とした挨拶を続けていた。マイクの音は少し割れていて、内容は記号のようにしか聞こえない。しかし白洲は、その単調な声に耳を預けた。
会場の空調は少し効きすぎていて、首筋がひやりとした。
白洲はグラスの水を口に含んだ。冷たさは喉を通り過ぎ、胸の奥のやわらかいところに、静かにしみていった。

