パリ、あるいは、市場への一歩

「貝は、死んでも形が残るから好きよ」
 二年前に死んだ妻の言葉を思い出した。レシピ本に載っていた、貝殻の形をした焼き菓子の写真を目にしたせいかもしれない。
 外はまだ、夜の名残をうっすらと抱いている。紺色と灰色のあいだをたゆたうような波が、静かに岸へ寄せては返す。御前崎の朝は、光がゆっくりと満ちていく。速さというものを忘れてしまったような時間だった。カフェ「灯台」は、海沿いの細い道を一本入った場所にある。白い壁は少しだけ潮風に磨かれ、ところどころ色が柔らかく剥げていた。扉の上には、手書きの小さな看板が吊られている。その字は、少し丸くて、どこか人の気配を残していた。
 白洲は、その朝もいつものように店の鍵を開けていた。
 手の動きはゆっくりとしていて、ため息とまではいかない、浅い呼吸のような静けさがあった。店内には、昨夜のうちに拭かれた木のカウンターが、かすかに光を返している。
 窓辺には、青い瓶に挿した野の花が一本。種類はよくわからない。白洲は、それを特に意識して飾っているわけではないが、毎朝なにかしら一輪を置く癖があった。
 コーヒーの粉を量り、静かに湯を落とすと、ふんわりとした香りが店内を満たしていく。それは、潮の匂いと混じり合い、海の朝に小さな温度を与えていた。湯気はやわらかく立ち上り、白洲の指先の動きをなぞるように揺れた。
 店の奥の棚には、少し色あせた絵葉書が立てかけてある。
 モネの《印象・日の出》。
 海の上に浮かんだ赤い太陽と、輪郭の曖昧な船影。白洲はその絵を美術館で見たことはない。ただ、誰かが店に置いていった葉書を、いつのまにかそのまま飾っているだけだ。
 白洲は、コーヒーを落とし終えると、ふっと窓の外へ視線を向けた。朝日が海に溶けるように光りはじめている。波は揺れているのではなく、光が揺れているのだ、と白洲は思った。
 やもめ生活は、あまりいい意味ではなく安定している。悲しみは、ある日突然襲いかかるものではなく、季節の移ろいに似ていた。最初は気づかないうちに近づき、やがてゆっくりと、逃れられない影として寄り添う。それを追い払おうとはせず、ただ静かに、傍らに置いた。
 誰かと分かち合った時間は、思い出の中で薄まり、輪郭をぼやかしていく。少しずつ失っていくのだ。人も、活力も、希望も、夢も。ただ、過ぎていく時間の重みを、体にそのまま受け入れていくしかない。
 白洲は今年、六十七歳になる。
 かつては印刷会社に勤めていた。大きな機械が毎日音を立てる場所で、紙とインクの匂いに囲まれて過ごした。その匂いは奇妙に温かく、仕事が忙しいときでさえ、白洲はそれを嫌いになれなかった。機械のうなりが身体にまで染み込んでくると、ふと「生きている」という感覚が生まれた。それは若い頃から変わらなかった。
 休日には、妻とよくパン作りをした。最初はただ、家に新しいオーブンが届いたのがきっかけだった。試しに焼いた安っぽい食パンは、店で買うものとはまったく違う香りがした。焼きあがったばかりのパンの、あたたかい空気と、表面のやわらかさと、口に含んだときの素朴な甘み。あの驚きが、二人の生活に新しい習慣をつくった。
 タルト、クッキー、セイボリー、焼きっぱなしのパウンドケーキ。週末ごとに違う菓子が食卓に並んだ。ときどき失敗もした。焦げた底をナイフで慎重に切り取って、笑いながら食べる日もあった。それで充分だった。大切なのは味ではなく、同じ時間をゆっくりと過ごすことだったのだ。
 焼き菓子の香りが家の中に満ちると、白洲はよく本棚から一冊を抜き取った。彼は海外の推理小説が好きだった。レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』、パトリシア・ハイスミスの『太陽がいっぱい』、ジョルジュ・シムノンの『メグレ警視』。淡々と進む語り口の中に、言葉にされない感情がゆっくりと沈んでいくところが好きだった。その余白に、なにか大切なことが宿っている気がした。
 妻は生前、よく言った。
「仕事なんて適当にやればいいのよ」
 キッチンの隅に置いた古いスツールに腰掛け、雑誌を片手に、湯気の上がるスープを飲みながら。
「どういう生き方をしたいか、まず決めて。その生活に必要な分だけ稼げばいいのよ」
 白洲は包丁を握りながら、いつもその言葉に返したものだった。
「でも万が一の時にお金があった方がいいだろう」
 妻は笑う。肩をすくめ、少しだけ眉を寄せる。
「万が一のために、生活を犠牲にするなんてばかみたい」
 そして続けた。
「作物だって、食べる人がいないのに作りすぎて余ったらゴミになるのよ」
 その言い方が好きだった。少しの皮肉。でもやさしい。世界のどこかの片隅を、静かに撫でていくような声音。
 二人には子どもはいなかった。作ろうとしなかったわけではない。ただ流れのままに、そうなった。
 特別高価なものを欲しがることもなかった。日々は単調で、けれど穏やかだった。
 その日々は変化したわけではない。ただ、そこにいる人数が一人になっただけだ。オーブンはまだ台所にあり、本棚もそのままだ。毎朝コーヒーを淹れ、食パンを焼き、机に本を開く。同じルーティンが続いている。
 それが寂しいのかどうか、白洲自身にもわからなかった。
 人は、急激な喪失には耐えられない。だから、少しずつ受け入れていく。世間の人々が老後の心配をやたらと口にするのは、そのためではないかと白洲は思う。悲しみがゆっくりと押し寄せることを、心のどこかで理解しているのだ。年を重ねるというのは、未来を夢見ることではなく、消えていくものをひとつずつ見送ることに他ならない。
 定年退職したとき、白洲は退職金のほとんどを使って、自宅を店舗併用の建物に改築した。設計を考えるとき、白洲は特別な夢を抱かなかった。ただ、海が見える窓を残したかった。それだけが、唯一の希望だった。
 海沿いの道に、人通りはほとんどない。車すらあまり通らない。散歩に出ている老人が、ときどき影のように歩いていくのを見かける程度だ。
 そのため店には、ほとんど客が来ない。朝にコーヒーを淹れ、カウンターを拭き、椅子を整える。それだけの日が続くことも珍しくなかった。
 店の前の電線には、イソヒヨドリの親子がよく止まった。青みがかった灰色の羽と、濃い錆色の腹。声は澄んでいて、どこか悲しみをふくんでいるようでもあった。彼らは店の屋根の下の、ほんの小さな隙間に巣をつくっているらしかった。
 白洲は朝の支度をしながら、何度もその様子を目にした。親鳥は、慎重に巣へと出入りする。巣の中には、まだ声が定まらない雛が潜んでいる。店内には誰もいないが、外には確かに小さな命があった。
 イソヒヨドリのさえずりは特徴的だ。寂しさと透明さと、どこか遠いものを思わせる響き。海風のなかに溶けていくその声を聞いていると、白洲は、自分の生の輪郭がいくぶんやわらかくなる気がした。
 何も生産していなくても、誰の役に立っていなくても。いや、そう思うのはただの思い込みであって、実際は何かしらに対して影響しているのかもしれない。イソヒヨドリが巣をつくる場所を、この家は提供している。彼らの声が響く空間を、この店は持っている。そう考えれば、自分の存在もまるっきり無意味ではないのかもしれない。
 窓の外では、潮風が斜めに吹いていた。

 十三時を少し過ぎたころ、店の扉がやわらかく開いた。真鍮のベルが、そっと揺れる。絹糸のような白髪は、日に透けると銀色に光った。白洲はいつものように軽くうなずく。
「いらっしゃい」
「こんにちは」
 牧野は微笑した。その笑みには、若い頃の面影がはっきりと宿っていた。化粧は薄く、瞳は少し色素の薄い茶色。落ち着いた麻のシャツを着ている。外では、彼女の連れてきたゴールデンレトリバーが日陰を選んで座り、あくびをしていた。
「いつもの、お願いできるかしら」
「ホットと、サンドイッチで」
「そう。それでいいわ」
 白洲はコーヒー豆の袋を持ち上げ、手慣れた動きで挽き始めた。このときだけは、店内に音が生まれる。ガリ、ガリ、と豆が砕かれる音。それが止まると、また静けさが広がる。
 牧野はいつもの席――窓辺の、海がわずかに見える席に座り、バッグから文庫本を取り出した。栞には細い青いリボンが結んであった。白洲はそれを見て、誰かからの贈り物だったのではと想像した。
「今日、市場に行ってきたのよ」
 ページに目を落としたまま、牧野が言った。
「市場って、港のところの」
「ええ。あそこの魚屋ね。今日は、スズキがすごく立派だったわ。あんな大きな魚がここら辺を泳いでいるなんて、と思うだけで胸がすっとするのよ」
「スズキは五月がいいんでしたね」
「そう。身がきゅっと締まっていて。あの白さが好きなの。曇りガラスのような白。透けるような感じではなくて、深い白というか。ああいう色の絵具があったら、きっとよく使うと思うんだけど」
 白洲はパンにナイフを入れながら、牧野の言葉を反芻した。曇りガラスのような白。たしかに、スズキの身はそんな色だ。透明ではないが、向こうを感じさせる余白のある白。
「絵は、最近も描いているんですか」
 牧野は少しだけ顔を上げた。
「描いてるわよ。下手だけどね」
「下手ではないと思います」
 牧野は、窓の外に目を移した。海はまだ午前の色をほどいている途中のようで、どこか眠たげだった。
 白洲はサンドイッチを皿に載せ、コーヒーをそっと注いだ。湯気が白い糸のようにのぼる。
「ここら辺は、本当に何にもないわね」
「そうですね」
「でも、本を読んで、絵を描いて。そういう時間を過ごす場所としては、これ以上ないほど適していると思うの」
 外で、犬がゆっくりと尻尾を振った。午後の光は、まだ始まりの色をしていた。
「やもめ同士。生きていくのにちょうどいい場所だわ」
 牧野の声は、海の上に落ちる午後の光のようだった。
 会話はそれで途切れた。すっと、糸がほどけるような終わり方だった。牧野はコーヒーを一口だけ含んでから、読みかけの文庫本に視線を戻した。ページの紙は少し日焼けして、端がわずかに丸まっている。
 白洲は、カウンター奥の棚から自分用のカップを取り出した。薄い灰色の陶器。妻と二人で、旅先の小さな工房から買って帰ったものだ。縁に少しだけ欠けがある。それが、白洲にはかえってちょうどよかった。完璧ではないものは、手にしやすい。
 白洲はコーヒーを片手に、新聞を開いた。ページをめくる動作は、もう何十年も身体に沁みついた習慣だった。目は活字を追っていても、すべてを読み取ろうという気持ちではない。ただ、朝から続く思考の長い余韻を、どこかに落としどころを見つけるように、紙面を眺めているにすぎなかった。
 やがて、牧野はページの端に指を置き、そっと本を閉じた。読み終わりではなく、ただ区切りがついたのだとわかる静けさだった。椅子がわずかに床を擦る音が、店内に細い線を引いた。
「ごちそうさま」
 時計を見ると、ほとんど二時間が経っていた。
「牧野さん。また来てください」
 牧野はカウンターの方へ視線を向けた。
「来るわよ。ここは、寂しさの置き場所としてちょうどいいもの」
 牧野は、肩にかけていた薄いカーディガンの袖を整え、ドアへ向かった。外にいるゴールデンレトリバーが、主を見つけて尻尾をゆっくりと揺らした。