夢と現実の狭間を彷徨っていることを自覚する微睡みは、体感でいうと案外長いものである。
肌寒さと名残惜しい眠気が溶けて気怠い身体の重さへと変容する感覚に、ヒストリアの瞼はぴくりと動いた。
そして目を開いたとき、見覚えのある天井と人の気配に、自分が死に損なったことを理解し酷く落胆した。
「……どうして邪魔したの?」
首を軽く捻り、ヒストリアは結界の外で出会った男に向かって顔をしかめた。
「目覚めて言うことがそれか?失礼なお嬢様だな。助けてやったというのに礼儀がなってない」
男は相変わらず黒いローブを深く被っていた。よく見ればそれは刺繍の施された上質な生地だと分かる。
意識して見ればローブ越しでも体格の良さは垣間見れる。
この得体の知れぬ存在はヒストリアに背を向けると、用意していたのか湯気の立つ木製のカップを差し出した。
「助けて欲しくなんてなかったの。私にだって矜持ぐらいあるのよ!自死を阻まれるなんて……それぐらい分かるでしょ!」
衝動的にカップを叩き落とせば、透明な飛沫が散り男の足元を濡らした。
「だったら尚更、君は俺に礼を言うべきだ。死んで恨まれる存在にならないように助けてやったんだ」
男は静かに床に転がったカップを拾い上げる。
ヒストリアは僅かに頬を引きつらせ男を見上げるが、目元が隠れた陰から表情は読み取れなかった。ややあって、ヒストリアは問う。
「どういうこと……?」
死んで恨まれるなどあり得ない。
敵意を示した者達からすればヒストリアの死は喜ばしいことのはずだ。男の指摘に訝しむと同時に、緊張感が張り詰めた空気にあてられ無意識に生唾を飲み下した。
「知られていない、というより信じられていない現象だが……聖力を持つ人間が瘴気溜まりで死ぬと魔物化する。それも力に比例して強大な魔物になる。つまり大聖女の資質を持つ君があそこで死ねば、想像できるだろう?厄介だと」
「……聞いたことないわ、そんな話」
「そうだろうな。たとえ知っていても誰も認めないだろう」
男はカップを持て余すように食指で撫で、それから部屋の隅へと移動する。そこには簡易的な水場と竈があり、暫くすると水音が立つ。どうやら床に落ちたカップを水桶で軽く濯いでいるようだった。
その背に視線を留めていれば念を押すように男はおもむろに紡いだ。
「そんなに死にたければ止めないが、言ったとおり結界内で頼む」
目を覚ました時、ヒストリアは一瞬だけこの男は自分を助けるために現れたのだと錯覚していた。そんな妄想が束の間よぎったのだ。
しかし男の目的はあくまで聖力を持つヒストリアを瘴気溜まりで死なせないこと、だったらしい。
自害する場所にまで文句を言われるなど想像もつかなかったが、男の話がもし事実だとして、その理由でこの家までヒストリアを運んだというのなら、どれだけ厄介者扱いされるだけの人生だったのだろう。
考えれば目頭が熱くなってゆく。王宮では聖力のコントロールが十八にもなって上達しないことを出来損ないのように言われ、貴族が通う学院では常に姉と比較され続けてきた。
味方になってくれるものはおらず、虚勢を張り、ヒストリアには身分と大聖女の印しか縋るものはなかった。
頼りの父でさえ、もう何年も前から享楽に耽って女を侍らせヒストリを蔑ろにしている。それを指摘して見放されるのは恐ろしい。
こうなったのも、なにもかも姉のエリザベートが悪いのだ。絶対に裏で糸を引いているのは姉であると確信するも、王城ではまともに反論できなかった自分自身が情けなかった。
印を抉った焼きあとは当然まだ痛む。皮膚の奥の奥、深部にずっと熱が燻って絶えず屈辱の瞬間を思い起こさせてくるのだ。
口許を歪め胸の詰まる思いでヒストリアは俯いた。
その姿をローブを被った男はどう捉えたのか、再び近づく足音と共に大きな影を落とした。
「――あぁ、でも。生を持て余しているなら、俺の実験に付き合ってくれないか?」
見上げれば、男はいつの間にかローブを取っており黒曜石のごとく艶やかな黒髪が視界に入る。次いで夕日に輝く稲穂の色を宿す瞳と視線が重なった。
「俺は魔法使いだ。瘴気の研究をしているが聖女に試してみたいことがいろいろある。だが、如何せん聖女は国に守られているか、奴隷のような捕らわれの身だ。フリーの大聖女に出会えるなんて運命的と言うべきだ」
真っ直ぐにヒストリアを射抜く理知的な視線は僅かに弧を描いた。
笑みと呼べるものか不確かだが、嫌味のない笑みを向けられたのは久しぶりだった。
糾弾されたあの日、黒髪は最も忌諱される色だとヒストリアは初めて知ったが、この男の持つ色はヒストリアの煤けた銀髪よりもむしろ高貴に輝いて見えた。
茶色は平民の色とだけ認識しているヒストリアにとって、これまで見たことのない黒髪は先入観が及ばない率直な感覚を引き出していた。だからこそ、得体の知れない、それも魔法使いなどと名乗る男に訊きたいと思った。
「……あんたは、私が大聖女だって思うの?印もないのに」
「印?あぁ……それは、ただの記号だ。焼き消して誤魔化したところで、大聖女の資質そのものが消えるわけじゃない」
「資質……それがあんたには分かるのかしら?」
「分かる」
男はきっぱりと言い切った。妙な自信は一体どこから湧くのか、魔法使いは感知できる能力でも持っているのか不明だが、男の言葉は何故か胸に落ちた。
「でも、私がなんでここに居るかも知らないくせに、生かそうとするの?どういうつもり?」
「君がここにいる理由は正直に言ってあまり興味がない。俺の興味は君に内包されている聖力だ」
男はヒストリアに向かって指を刺した。
興味が一貫して大聖女の力であることを理解するに十分な言葉だったが、その力がまだ残っていると分かれば沸々と込み上げてくるのは怒りだ。
自分は貴族で大聖女になる令嬢だったのはずだ。可哀想な女で、自分は庇護されるべきである。もっと自分の境遇に対して興味を持つべきだという考えは溢れ出す。
「大聖女がこんな国の端っこに捨て置かれて、気にならないの?私は嵌められてここに捨て置かれたの!」
「そうか、災難だったな」
「それだけ…?」
「俺に慰めて欲しいのか?回復魔法をかけたかせいか、活力は戻ったようだな……」
魔法使いは形の良い唇を歪めふっと笑った。
「っ……!ちがうわよ!」
明らかな動揺を隠そうとすれば身体は熱を帯び思い浮かんだ言葉を一度脳裏で検閲するよりも先に声に出ていた。
「あんたが本当に魔法使いなら私の無実を証明して!私をこんなところにやった奴らに土下座させてよ!!」
「それは取引のつもりか?」
「えぇ、そうよ。私に協力して欲しいなら私を陥れた奴らの罪を暴いて、私の前で土下座させてちょうだい。それから手足も切り落とさなきゃね。ねぇ、運命的なんでしょう?」
「稚拙で粗暴だな。君は魔法使いを万能だと思ってるのか知らないが、まず物を知らなさすぎる。それに取引きのつもりなら、こちらも利益がなければ成立しない」
明らかに馬鹿にされた発言だったが、魔法使いが発する言葉には嫌悪も苛立ちも孕んでいなかった。正しくは感情が乗っていなかったのだ。
「なっ……私が必要なんでしょう?ちがうの?」
ヒストリアの深い水底の瞳が揺れた。
「被検体として確かに貴重だが、どうしても必要とまでは言ってない。この国を敵に回す可能性を持つ君の事情を嗅ぎまわるのは時間の無駄だともいえる」
云えば魔法使いは粗雑にヒストリアをベッドへ縫い留めた。体格差のある男にのしかかられ瞳を刮目したが突然のことに叫び声は上がらなかった。
「むしろ君は、今のままではとても使い物にならない」
「なによそれ……」声が震える。
「その物言いだ。目覚めてから君は自分のことばかりだ。とても聖女らしくない」
「だが……協力させるためにも、ひとまず君が死なないように世話は焼くと約束する。さて、どうする?死ぬか?それとも……――」
肌寒さと名残惜しい眠気が溶けて気怠い身体の重さへと変容する感覚に、ヒストリアの瞼はぴくりと動いた。
そして目を開いたとき、見覚えのある天井と人の気配に、自分が死に損なったことを理解し酷く落胆した。
「……どうして邪魔したの?」
首を軽く捻り、ヒストリアは結界の外で出会った男に向かって顔をしかめた。
「目覚めて言うことがそれか?失礼なお嬢様だな。助けてやったというのに礼儀がなってない」
男は相変わらず黒いローブを深く被っていた。よく見ればそれは刺繍の施された上質な生地だと分かる。
意識して見ればローブ越しでも体格の良さは垣間見れる。
この得体の知れぬ存在はヒストリアに背を向けると、用意していたのか湯気の立つ木製のカップを差し出した。
「助けて欲しくなんてなかったの。私にだって矜持ぐらいあるのよ!自死を阻まれるなんて……それぐらい分かるでしょ!」
衝動的にカップを叩き落とせば、透明な飛沫が散り男の足元を濡らした。
「だったら尚更、君は俺に礼を言うべきだ。死んで恨まれる存在にならないように助けてやったんだ」
男は静かに床に転がったカップを拾い上げる。
ヒストリアは僅かに頬を引きつらせ男を見上げるが、目元が隠れた陰から表情は読み取れなかった。ややあって、ヒストリアは問う。
「どういうこと……?」
死んで恨まれるなどあり得ない。
敵意を示した者達からすればヒストリアの死は喜ばしいことのはずだ。男の指摘に訝しむと同時に、緊張感が張り詰めた空気にあてられ無意識に生唾を飲み下した。
「知られていない、というより信じられていない現象だが……聖力を持つ人間が瘴気溜まりで死ぬと魔物化する。それも力に比例して強大な魔物になる。つまり大聖女の資質を持つ君があそこで死ねば、想像できるだろう?厄介だと」
「……聞いたことないわ、そんな話」
「そうだろうな。たとえ知っていても誰も認めないだろう」
男はカップを持て余すように食指で撫で、それから部屋の隅へと移動する。そこには簡易的な水場と竈があり、暫くすると水音が立つ。どうやら床に落ちたカップを水桶で軽く濯いでいるようだった。
その背に視線を留めていれば念を押すように男はおもむろに紡いだ。
「そんなに死にたければ止めないが、言ったとおり結界内で頼む」
目を覚ました時、ヒストリアは一瞬だけこの男は自分を助けるために現れたのだと錯覚していた。そんな妄想が束の間よぎったのだ。
しかし男の目的はあくまで聖力を持つヒストリアを瘴気溜まりで死なせないこと、だったらしい。
自害する場所にまで文句を言われるなど想像もつかなかったが、男の話がもし事実だとして、その理由でこの家までヒストリアを運んだというのなら、どれだけ厄介者扱いされるだけの人生だったのだろう。
考えれば目頭が熱くなってゆく。王宮では聖力のコントロールが十八にもなって上達しないことを出来損ないのように言われ、貴族が通う学院では常に姉と比較され続けてきた。
味方になってくれるものはおらず、虚勢を張り、ヒストリアには身分と大聖女の印しか縋るものはなかった。
頼りの父でさえ、もう何年も前から享楽に耽って女を侍らせヒストリを蔑ろにしている。それを指摘して見放されるのは恐ろしい。
こうなったのも、なにもかも姉のエリザベートが悪いのだ。絶対に裏で糸を引いているのは姉であると確信するも、王城ではまともに反論できなかった自分自身が情けなかった。
印を抉った焼きあとは当然まだ痛む。皮膚の奥の奥、深部にずっと熱が燻って絶えず屈辱の瞬間を思い起こさせてくるのだ。
口許を歪め胸の詰まる思いでヒストリアは俯いた。
その姿をローブを被った男はどう捉えたのか、再び近づく足音と共に大きな影を落とした。
「――あぁ、でも。生を持て余しているなら、俺の実験に付き合ってくれないか?」
見上げれば、男はいつの間にかローブを取っており黒曜石のごとく艶やかな黒髪が視界に入る。次いで夕日に輝く稲穂の色を宿す瞳と視線が重なった。
「俺は魔法使いだ。瘴気の研究をしているが聖女に試してみたいことがいろいろある。だが、如何せん聖女は国に守られているか、奴隷のような捕らわれの身だ。フリーの大聖女に出会えるなんて運命的と言うべきだ」
真っ直ぐにヒストリアを射抜く理知的な視線は僅かに弧を描いた。
笑みと呼べるものか不確かだが、嫌味のない笑みを向けられたのは久しぶりだった。
糾弾されたあの日、黒髪は最も忌諱される色だとヒストリアは初めて知ったが、この男の持つ色はヒストリアの煤けた銀髪よりもむしろ高貴に輝いて見えた。
茶色は平民の色とだけ認識しているヒストリアにとって、これまで見たことのない黒髪は先入観が及ばない率直な感覚を引き出していた。だからこそ、得体の知れない、それも魔法使いなどと名乗る男に訊きたいと思った。
「……あんたは、私が大聖女だって思うの?印もないのに」
「印?あぁ……それは、ただの記号だ。焼き消して誤魔化したところで、大聖女の資質そのものが消えるわけじゃない」
「資質……それがあんたには分かるのかしら?」
「分かる」
男はきっぱりと言い切った。妙な自信は一体どこから湧くのか、魔法使いは感知できる能力でも持っているのか不明だが、男の言葉は何故か胸に落ちた。
「でも、私がなんでここに居るかも知らないくせに、生かそうとするの?どういうつもり?」
「君がここにいる理由は正直に言ってあまり興味がない。俺の興味は君に内包されている聖力だ」
男はヒストリアに向かって指を刺した。
興味が一貫して大聖女の力であることを理解するに十分な言葉だったが、その力がまだ残っていると分かれば沸々と込み上げてくるのは怒りだ。
自分は貴族で大聖女になる令嬢だったのはずだ。可哀想な女で、自分は庇護されるべきである。もっと自分の境遇に対して興味を持つべきだという考えは溢れ出す。
「大聖女がこんな国の端っこに捨て置かれて、気にならないの?私は嵌められてここに捨て置かれたの!」
「そうか、災難だったな」
「それだけ…?」
「俺に慰めて欲しいのか?回復魔法をかけたかせいか、活力は戻ったようだな……」
魔法使いは形の良い唇を歪めふっと笑った。
「っ……!ちがうわよ!」
明らかな動揺を隠そうとすれば身体は熱を帯び思い浮かんだ言葉を一度脳裏で検閲するよりも先に声に出ていた。
「あんたが本当に魔法使いなら私の無実を証明して!私をこんなところにやった奴らに土下座させてよ!!」
「それは取引のつもりか?」
「えぇ、そうよ。私に協力して欲しいなら私を陥れた奴らの罪を暴いて、私の前で土下座させてちょうだい。それから手足も切り落とさなきゃね。ねぇ、運命的なんでしょう?」
「稚拙で粗暴だな。君は魔法使いを万能だと思ってるのか知らないが、まず物を知らなさすぎる。それに取引きのつもりなら、こちらも利益がなければ成立しない」
明らかに馬鹿にされた発言だったが、魔法使いが発する言葉には嫌悪も苛立ちも孕んでいなかった。正しくは感情が乗っていなかったのだ。
「なっ……私が必要なんでしょう?ちがうの?」
ヒストリアの深い水底の瞳が揺れた。
「被検体として確かに貴重だが、どうしても必要とまでは言ってない。この国を敵に回す可能性を持つ君の事情を嗅ぎまわるのは時間の無駄だともいえる」
云えば魔法使いは粗雑にヒストリアをベッドへ縫い留めた。体格差のある男にのしかかられ瞳を刮目したが突然のことに叫び声は上がらなかった。
「むしろ君は、今のままではとても使い物にならない」
「なによそれ……」声が震える。
「その物言いだ。目覚めてから君は自分のことばかりだ。とても聖女らしくない」
「だが……協力させるためにも、ひとまず君が死なないように世話は焼くと約束する。さて、どうする?死ぬか?それとも……――」
