森には、嘘をつく木がある。
ユナはそれを知っていた。
枝が右に傾いていても、根は北に向いている。
葉の裏が白くても、雨は来ない。
――だから森を信じるな、と師匠は言った。
その森で、ユナは足を止めた。
何かある。
十年以上、この森に通ってきたユナの体がそう言っていた。
今では目を閉じたまま、解熱薬になるフィーバールートの根を引き抜ける。
踏み込んだだけで、地面の水分を足の裏で読める。
だから今日も、何も起きないはずだった。
薬草籠を背負い、いつもの道を歩いていた。朝露がまだ乾いていない時間。空気が緑の匂いをしていた。鳥が一羽、頭上を横切った。
それだけのはずだった。
茂みの奥。
ユナはそっと近づいた。
倒れていた。
青年が一人。仰向けで、腕を広げて、まるで夜空を見るような格好で地面に横たわっていた。ただし夜空など見ていない。目は閉じられている。服は深紅と黒。
ユナの村では誰も着ないような、仕立てのいい上着だった。
泥と血で台無しになっていたけれど。
顔に傷がある。腕にも。右の手首の包帯は古く、もうひどいことになっていた。
「……死んでないよね」
ユナはしゃがんで、首のそばに二本指を当てた。
脈がある。ゆっくり、確かにある。
息もしている。
「生きてる」
ユナは立ち上がり、腰に手を当てた。
困った。これはどう考えても困った。
見知らぬ青年が森で倒れている。服の質から見て、村の人間ではない。
ふと、くだらない考えが浮かんだ。
――まさか、飼い魔王……だったりして。
王都の貴族がよく連れているという、あの『飼い魔王』。
契約魔法で従わせた魔王を、護衛や権威の象徴として飼うという話は、田舎の村にまで伝わっている。
もちろん目の前の青年は、どう見てもそんなものではない。
ただの怪我人だ。
「……仕方ない」
ユナは籠を脇に置き、腕まくりをした。
村まで引きずった。
大人の男性を一人、森から村まで。
途中で三回休憩した。日が傾いた。
腕が痛くなった。
でも死なせるよりはいい。ユナの中の現実的な部分が計算をした。死体を放置した場合の問題と、生き返って面倒事になる可能性と、今目の前の人間を助けた場合に得られる可能性を。
計算の結果は、助ける、だった。
理由は簡単だ。ユナは薬草師なので。
☆
青年はゆっくりと目を開けた。
ユナはその顔を見た。人間の青年と変わらない顔立ちだ。
ただ一つだけ違った。
黒い髪の間から、角が二本伸びていた。
「起きた」
青年はその声の方を見た。
窓際に女がいた。
年は二十代の半ばくらいだろうか。
肩のあたりで切り揃えられていた黒髪に、薬草の葉が一本引っかかっていた。
派手さはないが、目は落ち着いていた。
手にはうっすらと土がついていた。
森で働く人間の手だった。
作業着の上にエプロンを着け、薬草を干している。手際がいい。
青年が身じろぎしただけで、部屋の空気がわずかに重くなった。
「ここはどこだ」
声が出た。想像より低い声だった。
女はこちらを見ずに答えた。
「わたしの家」
「……お前の家」
「うん。村の端の、薬草師の家。分かる?」
「分かるか分からないかで言えば、分かる」
青年はゆっくりと上体を起こした。
包帯が巻き直されていた。傷に薬が塗られている。清潔な場所に寝かされている。
「お前が運んだのか」
「そう」
「一人で?」
「一人で」
女はようやくこちらを見た。褐色の目。真っ直ぐな視線だ。
嘘をつく目には見えなかった。
「ありがとう」
と言いかけて、青年は止まった。
なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。
「……私は」
「名前は後でいい。まず水を飲んで。熱があるから」
「熱はない」
「ある」
「ない」
女はため息をついた。
「あなたの額に今、手を当てたら何度あると思う?」
「……普通の体温だ」
「三十九度ある。フィーバールートを飲ませたけど、まだ下がりきってない」
青年は口を閉じた。
確かに体が重い。確かに頭が少しぼんやりする。認めたくはないが事実は事実だ。
「水をもらおう」
「そうして」
女は立ち上がり、竈の方へ歩いた。
青年は天井を見た。節が三つある。
自分が今どこにいるのかは分かった。問題は、なぜここにいるのかだ。
記憶を遡る。
深紅の大地。戦場の跡。人間の兵士と、魔族の残党と。自分は一人で切り込んで、それで……。
「ほら」
木のカップに水が入っていた。
青年は受け取って、飲んだ。
冷たかった。
井戸水だろう。体の中に染み込んでいくような気がした。
「お前は薬草師か」
「そう言った」
「名前は」
「ユナ。あなたは?」
青年は少し考えてから、答えた。
「私は魔王だ」
ユナは表情を変えなかった。眉一つ動かなかった。カップを受け取り、元の位置に置いた。
「はいはい」
「……はいはい、とは何だ」
「じゃあ何て言えばよかった?」
「信じろとは言わない。しかし」
「うん」
「もう少し驚いてもいいだろう」
ユナは肩をすくめた。
「傷だらけの人が魔王って言い出したとき、どう反応したらいいの。正直に言って」
青年は黙った。
確かに。正直に言えば、難しい問いだ。
「……名前を聞いているんじゃない。私が何者かを」
「分かってる」
「なら」
「でも今は関係ない。熱が下がるまでは、ただの居候。いい?」
青年は、また黙った。
ユナは窓の方に戻り、薬草の仕分けを再開した。
「名前は? 本当の名前」
「レオ」
「レオさんね。じゃあレオさん、今日は安静にしてて。動いたら治るものも治らないから」
レオは返事をしなかった。
天井の節を数えた。三つ。
私は魔王だ、と言った。
はいはい、と返された。
レオは目を閉じた。
人間とは、変な生き物だと思った。
☆
三日で熱は下がった。
ユナの見立て通りだった。
「食べられる?」
朝、木の椀に粥が出てきた。シンプルな味だが、ちゃんと体に合わせた配合だとレオには分かった。薬草が少し混じっている。回復を助けるやつだ。
「……薬草師らしい飯だ」
「褒め言葉として受け取る」
ユナは自分の椀を持って、向かいに座った。
「傷はどう?」
「ほぼ問題ない」
「動けそう?」
「今日にでも出て行ける」
ユナは頷いた。出て行けと言う顔ではなかったが、引き止める顔でもなかった。ただ事実を確認している顔だった。
「行く場所はある?」
レオは少し考えた。
「ない」
「そう」
「なぜそれを聞く?」
「あればどうぞ、ってなるし、なければまあ考えようかな、ってなる」
ユナは粥をすすった。
「簡単な話」
「なぜ考える必要がある。私の行き場は私が考えることだ」
「あなたの行き場をどうするかは、あなたが決めること。そうじゃなくて」
ユナは少し考えてから続けた。
「あなたが帰る場所のない怪我人として今ここにいる、っていう話。それはわたしが考える側の話」
レオは粥を見た。
「面倒な考え方をする」
「師匠にもよく言われてた」
「師匠がいるのか?」
「いた。三年前に亡くなった」
短い答えだった。
悼む色はなかった。しかし消えてもいなかった。きちんと過去に置いてある、そういう声だった。
レオは粥を食べた。
体に染み込んだ。確かに悪くない。
「私が魔王だとは、まだ信じないか」
「信じるとか信じないとか、今は関係ない」
「なぜ」
「あなたが危険かどうかの方が重要」
レオは顔を上げた。
ユナは真っ直ぐな顔をしていた。
「危険かどうか」
「うん。魔王でも、普通の人でも、わたしの村の人を傷つけるなら追い出す。そうじゃないなら今は関係ない」
「……随分と合理的だ」
「現実的、って言って」
「同じことだ」
「ちょっと違う」
レオは少し、黙った。
今まで多くの人間と話してきた。ほとんどは恐れるか、媚びるか、命令しようとするかだった。
目の前の女は、どれでもなかった。
「現実的に考えて、あなたが本当に危ない存在なら、わたしが今ここで何言っても無駄だから。でもそうじゃないなら、傷が治るまでいてもいい」
「そういうことか」
「そういうこと」
粥の椀が空になった。
ユナは立ち上がり、洗い物をするためにまた竈の方へ歩いた。
レオはしばらく、その背中を見ていた。
その日の昼のことだった。
「魔物だ! 魔物が来た!」
外で声がした。
ユナが窓を開ける。レオも立ち上がる。
村の入り口の方から、叫び声が上がっていた。人が走って逃げてくる。子どもが泣いている。
「何が出た?」
レオが問いかける。
「分からない。でも——」
声は消えた。
ユナが振り返ったとき、レオはもう扉を開けていた。
「待って、まだ怪我が」
「治った」
「三日しか経ってない」
「問題ない」
そう言い切って、レオは外に出た。
ユナは追いかけた。
村の入り口に、それはいた。
大きな影。四つ足。岩のような皮膚に、赤い目が二つ。村人が束になっても歯が立たない類の、上位魔物だった。
「ロックゴーレム……」
ユナは息をのんだ。
こんなものがなぜ。森の奥にいるはずのものが、なぜ村の入り口に。
魔王の魔力に引き寄せられたのかもしれない。
魔物が吠えた。
地面が揺れた。
民家の壁にひびが入った。
「逃げろっ!」
村の男が叫んでいる。
「逃げろ、子どもを——」
「やかましい」
低い声だった。
それだけで、周囲が静かになった。
レオが一歩前に出た。ロックゴーレムの動きが、わずかに鈍った。
村人でもない、逃げ惑う誰かでもない。ただ前に出た。真っ直ぐに、岩の魔物に向かって。
「レオさん!」
ユナが叫んだ。
レオは振り返らなかった。
右手を上げた。
それだけだった。
何かが、動いた。
空気ではない。光でもない。もっと根本的な何かが、動いた。レオの右手から、魔物に向かって。
魔物が止まった。
動けなくなったのではない。
存在そのものを拒まれたみたいに。ひびが入った。岩の皮膚に。
崩れた。
上位魔物が、ただの石くれになって、地面に散らばった。
静寂が落ちた。
村人が口を開けていた。
レオは手を下ろした。
「……」
ユナは、その背中を見ていた。
深紅の上着。一つになって折り目のついた背中。体はまだ怪我の後が残っているはずなのに、全く揺らぐことのない立ち方。
「あの」
ユナが声をかけると、レオが振り返った。
「魔王さん」
一瞬、レオの目が止まった。
「……今更信じるのか」
「さっきので信じた」
「遅い」
「でも信じた」
ユナはため息をついて、少し困った顔をした。
「ということは、うちに本物の魔王さんが居候してるってこと?」
「そうなる」
「うーん」
「出て行けというなら出て行く」
「いや、そうじゃなくて」
ユナは頬に手を当てた。
「飼うなら最後まで責任を持たないといけないなあ、と思って」
レオはしばらく黙った。
「……私は魔王だ」
「知ってる」
「飼う対象ではない」
「でも今、わたしの家に住んでるよね」
「それは」
「薬草師としては、まあ」
ユナは村人たちを見た。みんなまだ呆けたように立っている。
「あなたを拾ったのはわたしだから」
拾った。
レオはその言葉を、しばらく頭の中で繰り返した。
魔王を。拾った。
「……随分と大きなものを拾ったと思わないか」
「思う。だからこそちゃんとしないといけない」
そう言って、ユナは歩き出した。
村人たちに声をかけに行くのだろう。怪我はないか、家は大丈夫か、そういうことを確認しに。
レオはその背中を、また見ていた。
今日で二度目だ。
この女は、変わっている。
と、思った。
それだけだった。
それだけの、はずだった。
ユナはそれを知っていた。
枝が右に傾いていても、根は北に向いている。
葉の裏が白くても、雨は来ない。
――だから森を信じるな、と師匠は言った。
その森で、ユナは足を止めた。
何かある。
十年以上、この森に通ってきたユナの体がそう言っていた。
今では目を閉じたまま、解熱薬になるフィーバールートの根を引き抜ける。
踏み込んだだけで、地面の水分を足の裏で読める。
だから今日も、何も起きないはずだった。
薬草籠を背負い、いつもの道を歩いていた。朝露がまだ乾いていない時間。空気が緑の匂いをしていた。鳥が一羽、頭上を横切った。
それだけのはずだった。
茂みの奥。
ユナはそっと近づいた。
倒れていた。
青年が一人。仰向けで、腕を広げて、まるで夜空を見るような格好で地面に横たわっていた。ただし夜空など見ていない。目は閉じられている。服は深紅と黒。
ユナの村では誰も着ないような、仕立てのいい上着だった。
泥と血で台無しになっていたけれど。
顔に傷がある。腕にも。右の手首の包帯は古く、もうひどいことになっていた。
「……死んでないよね」
ユナはしゃがんで、首のそばに二本指を当てた。
脈がある。ゆっくり、確かにある。
息もしている。
「生きてる」
ユナは立ち上がり、腰に手を当てた。
困った。これはどう考えても困った。
見知らぬ青年が森で倒れている。服の質から見て、村の人間ではない。
ふと、くだらない考えが浮かんだ。
――まさか、飼い魔王……だったりして。
王都の貴族がよく連れているという、あの『飼い魔王』。
契約魔法で従わせた魔王を、護衛や権威の象徴として飼うという話は、田舎の村にまで伝わっている。
もちろん目の前の青年は、どう見てもそんなものではない。
ただの怪我人だ。
「……仕方ない」
ユナは籠を脇に置き、腕まくりをした。
村まで引きずった。
大人の男性を一人、森から村まで。
途中で三回休憩した。日が傾いた。
腕が痛くなった。
でも死なせるよりはいい。ユナの中の現実的な部分が計算をした。死体を放置した場合の問題と、生き返って面倒事になる可能性と、今目の前の人間を助けた場合に得られる可能性を。
計算の結果は、助ける、だった。
理由は簡単だ。ユナは薬草師なので。
☆
青年はゆっくりと目を開けた。
ユナはその顔を見た。人間の青年と変わらない顔立ちだ。
ただ一つだけ違った。
黒い髪の間から、角が二本伸びていた。
「起きた」
青年はその声の方を見た。
窓際に女がいた。
年は二十代の半ばくらいだろうか。
肩のあたりで切り揃えられていた黒髪に、薬草の葉が一本引っかかっていた。
派手さはないが、目は落ち着いていた。
手にはうっすらと土がついていた。
森で働く人間の手だった。
作業着の上にエプロンを着け、薬草を干している。手際がいい。
青年が身じろぎしただけで、部屋の空気がわずかに重くなった。
「ここはどこだ」
声が出た。想像より低い声だった。
女はこちらを見ずに答えた。
「わたしの家」
「……お前の家」
「うん。村の端の、薬草師の家。分かる?」
「分かるか分からないかで言えば、分かる」
青年はゆっくりと上体を起こした。
包帯が巻き直されていた。傷に薬が塗られている。清潔な場所に寝かされている。
「お前が運んだのか」
「そう」
「一人で?」
「一人で」
女はようやくこちらを見た。褐色の目。真っ直ぐな視線だ。
嘘をつく目には見えなかった。
「ありがとう」
と言いかけて、青年は止まった。
なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。
「……私は」
「名前は後でいい。まず水を飲んで。熱があるから」
「熱はない」
「ある」
「ない」
女はため息をついた。
「あなたの額に今、手を当てたら何度あると思う?」
「……普通の体温だ」
「三十九度ある。フィーバールートを飲ませたけど、まだ下がりきってない」
青年は口を閉じた。
確かに体が重い。確かに頭が少しぼんやりする。認めたくはないが事実は事実だ。
「水をもらおう」
「そうして」
女は立ち上がり、竈の方へ歩いた。
青年は天井を見た。節が三つある。
自分が今どこにいるのかは分かった。問題は、なぜここにいるのかだ。
記憶を遡る。
深紅の大地。戦場の跡。人間の兵士と、魔族の残党と。自分は一人で切り込んで、それで……。
「ほら」
木のカップに水が入っていた。
青年は受け取って、飲んだ。
冷たかった。
井戸水だろう。体の中に染み込んでいくような気がした。
「お前は薬草師か」
「そう言った」
「名前は」
「ユナ。あなたは?」
青年は少し考えてから、答えた。
「私は魔王だ」
ユナは表情を変えなかった。眉一つ動かなかった。カップを受け取り、元の位置に置いた。
「はいはい」
「……はいはい、とは何だ」
「じゃあ何て言えばよかった?」
「信じろとは言わない。しかし」
「うん」
「もう少し驚いてもいいだろう」
ユナは肩をすくめた。
「傷だらけの人が魔王って言い出したとき、どう反応したらいいの。正直に言って」
青年は黙った。
確かに。正直に言えば、難しい問いだ。
「……名前を聞いているんじゃない。私が何者かを」
「分かってる」
「なら」
「でも今は関係ない。熱が下がるまでは、ただの居候。いい?」
青年は、また黙った。
ユナは窓の方に戻り、薬草の仕分けを再開した。
「名前は? 本当の名前」
「レオ」
「レオさんね。じゃあレオさん、今日は安静にしてて。動いたら治るものも治らないから」
レオは返事をしなかった。
天井の節を数えた。三つ。
私は魔王だ、と言った。
はいはい、と返された。
レオは目を閉じた。
人間とは、変な生き物だと思った。
☆
三日で熱は下がった。
ユナの見立て通りだった。
「食べられる?」
朝、木の椀に粥が出てきた。シンプルな味だが、ちゃんと体に合わせた配合だとレオには分かった。薬草が少し混じっている。回復を助けるやつだ。
「……薬草師らしい飯だ」
「褒め言葉として受け取る」
ユナは自分の椀を持って、向かいに座った。
「傷はどう?」
「ほぼ問題ない」
「動けそう?」
「今日にでも出て行ける」
ユナは頷いた。出て行けと言う顔ではなかったが、引き止める顔でもなかった。ただ事実を確認している顔だった。
「行く場所はある?」
レオは少し考えた。
「ない」
「そう」
「なぜそれを聞く?」
「あればどうぞ、ってなるし、なければまあ考えようかな、ってなる」
ユナは粥をすすった。
「簡単な話」
「なぜ考える必要がある。私の行き場は私が考えることだ」
「あなたの行き場をどうするかは、あなたが決めること。そうじゃなくて」
ユナは少し考えてから続けた。
「あなたが帰る場所のない怪我人として今ここにいる、っていう話。それはわたしが考える側の話」
レオは粥を見た。
「面倒な考え方をする」
「師匠にもよく言われてた」
「師匠がいるのか?」
「いた。三年前に亡くなった」
短い答えだった。
悼む色はなかった。しかし消えてもいなかった。きちんと過去に置いてある、そういう声だった。
レオは粥を食べた。
体に染み込んだ。確かに悪くない。
「私が魔王だとは、まだ信じないか」
「信じるとか信じないとか、今は関係ない」
「なぜ」
「あなたが危険かどうかの方が重要」
レオは顔を上げた。
ユナは真っ直ぐな顔をしていた。
「危険かどうか」
「うん。魔王でも、普通の人でも、わたしの村の人を傷つけるなら追い出す。そうじゃないなら今は関係ない」
「……随分と合理的だ」
「現実的、って言って」
「同じことだ」
「ちょっと違う」
レオは少し、黙った。
今まで多くの人間と話してきた。ほとんどは恐れるか、媚びるか、命令しようとするかだった。
目の前の女は、どれでもなかった。
「現実的に考えて、あなたが本当に危ない存在なら、わたしが今ここで何言っても無駄だから。でもそうじゃないなら、傷が治るまでいてもいい」
「そういうことか」
「そういうこと」
粥の椀が空になった。
ユナは立ち上がり、洗い物をするためにまた竈の方へ歩いた。
レオはしばらく、その背中を見ていた。
その日の昼のことだった。
「魔物だ! 魔物が来た!」
外で声がした。
ユナが窓を開ける。レオも立ち上がる。
村の入り口の方から、叫び声が上がっていた。人が走って逃げてくる。子どもが泣いている。
「何が出た?」
レオが問いかける。
「分からない。でも——」
声は消えた。
ユナが振り返ったとき、レオはもう扉を開けていた。
「待って、まだ怪我が」
「治った」
「三日しか経ってない」
「問題ない」
そう言い切って、レオは外に出た。
ユナは追いかけた。
村の入り口に、それはいた。
大きな影。四つ足。岩のような皮膚に、赤い目が二つ。村人が束になっても歯が立たない類の、上位魔物だった。
「ロックゴーレム……」
ユナは息をのんだ。
こんなものがなぜ。森の奥にいるはずのものが、なぜ村の入り口に。
魔王の魔力に引き寄せられたのかもしれない。
魔物が吠えた。
地面が揺れた。
民家の壁にひびが入った。
「逃げろっ!」
村の男が叫んでいる。
「逃げろ、子どもを——」
「やかましい」
低い声だった。
それだけで、周囲が静かになった。
レオが一歩前に出た。ロックゴーレムの動きが、わずかに鈍った。
村人でもない、逃げ惑う誰かでもない。ただ前に出た。真っ直ぐに、岩の魔物に向かって。
「レオさん!」
ユナが叫んだ。
レオは振り返らなかった。
右手を上げた。
それだけだった。
何かが、動いた。
空気ではない。光でもない。もっと根本的な何かが、動いた。レオの右手から、魔物に向かって。
魔物が止まった。
動けなくなったのではない。
存在そのものを拒まれたみたいに。ひびが入った。岩の皮膚に。
崩れた。
上位魔物が、ただの石くれになって、地面に散らばった。
静寂が落ちた。
村人が口を開けていた。
レオは手を下ろした。
「……」
ユナは、その背中を見ていた。
深紅の上着。一つになって折り目のついた背中。体はまだ怪我の後が残っているはずなのに、全く揺らぐことのない立ち方。
「あの」
ユナが声をかけると、レオが振り返った。
「魔王さん」
一瞬、レオの目が止まった。
「……今更信じるのか」
「さっきので信じた」
「遅い」
「でも信じた」
ユナはため息をついて、少し困った顔をした。
「ということは、うちに本物の魔王さんが居候してるってこと?」
「そうなる」
「うーん」
「出て行けというなら出て行く」
「いや、そうじゃなくて」
ユナは頬に手を当てた。
「飼うなら最後まで責任を持たないといけないなあ、と思って」
レオはしばらく黙った。
「……私は魔王だ」
「知ってる」
「飼う対象ではない」
「でも今、わたしの家に住んでるよね」
「それは」
「薬草師としては、まあ」
ユナは村人たちを見た。みんなまだ呆けたように立っている。
「あなたを拾ったのはわたしだから」
拾った。
レオはその言葉を、しばらく頭の中で繰り返した。
魔王を。拾った。
「……随分と大きなものを拾ったと思わないか」
「思う。だからこそちゃんとしないといけない」
そう言って、ユナは歩き出した。
村人たちに声をかけに行くのだろう。怪我はないか、家は大丈夫か、そういうことを確認しに。
レオはその背中を、また見ていた。
今日で二度目だ。
この女は、変わっている。
と、思った。
それだけだった。
それだけの、はずだった。



