呆然とその光景を眺めていると、
「はい、そこまで」
低く落ち着いた声が、庭の奥から響いた。
「げっ」
「先生だ!!」
さっきまで騒いでいたみんなが、一斉に固まる。
ゆっくりと庭の奥から歩いてきたのは、細身の男だった。
濃い色の直衣をきっちりと着こなし、袖の中に両手を入れている。
「何があったんだ」
低い声でそう言うと、男は庭の惨状をもう一度ゆっくり見回した。
転がる桶。
ひっくり返ったタライ。
地面に広がる水。
ずぶ濡れで立ち尽くしているみんな。
そして男は私の前まで歩いてくる。
「賀茂だ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします!」
「.......威勢が良いな」
そう言って、男――先生はじっと私を見下ろした。
鋭い目つきだが、どこか冷静で、感情を簡単には表に出さない人のように見える。
「普段はこんなことをしない賢い奴らなんだが、今日は転入生が来ると浮き足気味でな。申し訳ない」
「嘘つけー、転入生の前だからって優秀な教師を演じるなー」
「いつも俺らこんな感じだろーが!」
みんなからの野次が飛ぶ。
「......」
それに反論しない男。どうやら図星みたいだ。
「……まぁ、いい」
賀茂先生はそう言うと、視線をゆっくりと私に戻した。
「芦屋道満だな。君のことは芦屋から聞いている」
その声音は、驚きというより――何かを思い出したような響きだった。
「先に言っておく。私は君の父親とは仲が悪い。数日前だって『あ、勘定の金忘れた。賀茂ー、代わりに払っといてー』などとほざきやがって......」
そこで先生は一度言葉を切った。
さすがに父親の醜態を子供に話すのは気が引けたようだ。
その後、先生は食堂や蔵書庫、厠などの細々した場所を説明してくれ、最後に寝床の大部屋へ案内した。
ついでに、私にもみんなと同じ白い狩衣を渡してくれる。
どうやら、私の事情を唯一知っているらしい先生は、軽く私を見てから素早く部屋を出ていった。
「お前も大変だな.....」と、同情の目で見られたのは言うまでもない。
(ひゃぁ!木綿だ〜!)
与えられた木綿の狩衣に感動する。
これまで生地と言えば麻布だったので、暑い時はいいが寒いと風を遮らなくて凍えてしまっていた。
重ね着しても風の通り具合はあまり変わらないので、寒さが厳しい時には毛皮を羽織って暖をとる。
それが木綿の服を着ただけで、京に来たという気分になった。
少しダボッとしているので、見た目だけじゃ女だと分からないだろう。
荷物を入れるのであろう竹で編まれた丸い箱に『芦屋道満』と書かれたが紙が貼ってあった。
狩衣に着替え、荷物を整理していると、心配で見に来たらしい晴明くんがやって来た。
「どう?慣れそう?」
「はい!」
「それは良かったよ」
翌朝、私は自分の布団の上ですっきり目覚める。
枕や寝床が変わると寝れなくなるといった体質でないことに、感謝したい。
寝床を片付けて身支度をした私は、食堂に行って食事する。
「なぁ、その焼き魚くれ」
「駄目に決まってんだろうが!」
そんな声を聞きながら、精々食べておかなければと、モリモリ食べていると。
「梅干しいるかい?」
目の前に座る晴明くんが声を掛けてきた。
「.......」
何か答えなくてはと思うものの、口いっぱいに頬張っているため、なかなか飲み込めない。
「待つからゆっくりで良いよ」
晴明くんは面白い物を見ているような顔でそう言った。
私が食いしん坊なのではない、ここのご飯が美味しいのが悪いのだ。
もぐもぐごっくんをして水を飲んだ後、私は有り難く梅干しを貰った。
「道満は細いからよく食べないとね。一魚あげよう」
そう言って、梅干しを渡してきたかと思えば川魚を一魚、私の小皿に置いた。
「おー、晴明による甘やかし攻撃が始まったぞ」
「何人も骨抜きされてるからな、気をつけろよー」
「タチ悪りー」
「ふふ」
私は小皿の川魚を噛みながら、ちらりと晴明くんを見上げる。期待に満ちたその瞳は、まるで私の反応を楽しみにしているかのようだ。
食事を終え、私達が向かったのは、学問処のような建物だった。
木の扉を開けると、奥には巻物や算盤、星図が並べられ、天井近くの連子窓から柔らかな光が差し込んでいる。
ここでは太陽や星の位置を観測して暦を作ったり、禊や祓え、五行などを学んだりする。
午前は座学で、午後は実践らしい。
「はい、そこまで」
低く落ち着いた声が、庭の奥から響いた。
「げっ」
「先生だ!!」
さっきまで騒いでいたみんなが、一斉に固まる。
ゆっくりと庭の奥から歩いてきたのは、細身の男だった。
濃い色の直衣をきっちりと着こなし、袖の中に両手を入れている。
「何があったんだ」
低い声でそう言うと、男は庭の惨状をもう一度ゆっくり見回した。
転がる桶。
ひっくり返ったタライ。
地面に広がる水。
ずぶ濡れで立ち尽くしているみんな。
そして男は私の前まで歩いてくる。
「賀茂だ。よろしく頼む」
「よろしくお願いします!」
「.......威勢が良いな」
そう言って、男――先生はじっと私を見下ろした。
鋭い目つきだが、どこか冷静で、感情を簡単には表に出さない人のように見える。
「普段はこんなことをしない賢い奴らなんだが、今日は転入生が来ると浮き足気味でな。申し訳ない」
「嘘つけー、転入生の前だからって優秀な教師を演じるなー」
「いつも俺らこんな感じだろーが!」
みんなからの野次が飛ぶ。
「......」
それに反論しない男。どうやら図星みたいだ。
「……まぁ、いい」
賀茂先生はそう言うと、視線をゆっくりと私に戻した。
「芦屋道満だな。君のことは芦屋から聞いている」
その声音は、驚きというより――何かを思い出したような響きだった。
「先に言っておく。私は君の父親とは仲が悪い。数日前だって『あ、勘定の金忘れた。賀茂ー、代わりに払っといてー』などとほざきやがって......」
そこで先生は一度言葉を切った。
さすがに父親の醜態を子供に話すのは気が引けたようだ。
その後、先生は食堂や蔵書庫、厠などの細々した場所を説明してくれ、最後に寝床の大部屋へ案内した。
ついでに、私にもみんなと同じ白い狩衣を渡してくれる。
どうやら、私の事情を唯一知っているらしい先生は、軽く私を見てから素早く部屋を出ていった。
「お前も大変だな.....」と、同情の目で見られたのは言うまでもない。
(ひゃぁ!木綿だ〜!)
与えられた木綿の狩衣に感動する。
これまで生地と言えば麻布だったので、暑い時はいいが寒いと風を遮らなくて凍えてしまっていた。
重ね着しても風の通り具合はあまり変わらないので、寒さが厳しい時には毛皮を羽織って暖をとる。
それが木綿の服を着ただけで、京に来たという気分になった。
少しダボッとしているので、見た目だけじゃ女だと分からないだろう。
荷物を入れるのであろう竹で編まれた丸い箱に『芦屋道満』と書かれたが紙が貼ってあった。
狩衣に着替え、荷物を整理していると、心配で見に来たらしい晴明くんがやって来た。
「どう?慣れそう?」
「はい!」
「それは良かったよ」
翌朝、私は自分の布団の上ですっきり目覚める。
枕や寝床が変わると寝れなくなるといった体質でないことに、感謝したい。
寝床を片付けて身支度をした私は、食堂に行って食事する。
「なぁ、その焼き魚くれ」
「駄目に決まってんだろうが!」
そんな声を聞きながら、精々食べておかなければと、モリモリ食べていると。
「梅干しいるかい?」
目の前に座る晴明くんが声を掛けてきた。
「.......」
何か答えなくてはと思うものの、口いっぱいに頬張っているため、なかなか飲み込めない。
「待つからゆっくりで良いよ」
晴明くんは面白い物を見ているような顔でそう言った。
私が食いしん坊なのではない、ここのご飯が美味しいのが悪いのだ。
もぐもぐごっくんをして水を飲んだ後、私は有り難く梅干しを貰った。
「道満は細いからよく食べないとね。一魚あげよう」
そう言って、梅干しを渡してきたかと思えば川魚を一魚、私の小皿に置いた。
「おー、晴明による甘やかし攻撃が始まったぞ」
「何人も骨抜きされてるからな、気をつけろよー」
「タチ悪りー」
「ふふ」
私は小皿の川魚を噛みながら、ちらりと晴明くんを見上げる。期待に満ちたその瞳は、まるで私の反応を楽しみにしているかのようだ。
食事を終え、私達が向かったのは、学問処のような建物だった。
木の扉を開けると、奥には巻物や算盤、星図が並べられ、天井近くの連子窓から柔らかな光が差し込んでいる。
ここでは太陽や星の位置を観測して暦を作ったり、禊や祓え、五行などを学んだりする。
午前は座学で、午後は実践らしい。



