第5部 夜明けが世界を染めるころ、悪意の見える伯爵令嬢は王子の執着から逃れられない

偽物が消え、迷宮の気配が霧のように薄れていく。
静寂。

その場に立ち尽くしたまま、動けなかった。

……いや。
動くことが、できなかった。

さっきまで——あの声で、あの顔で、
“欲しかった言葉”を差し出されていた。

世界で一番、愚かで、残酷な罠。

喉の奥で、息が詰まる。

幼いころから仕えてきた。

『ユウリ!』

無邪気な笑顔で呼ばれる、その名前。
昔から変わらない声。

いつも前を向き、努力し続ける彼女。
頑張りすぎて、無理をしてしまう彼女。
「嫌だな」と不貞腐れて唇を尖らせる彼女。
私の前だけで見せてくれる、ありのままの彼女。

……全部。
全部が、大切で。
どうしようもなく、愛おしい。

「……危なかったな」

ぽつりと、誰もいない空間に零れる。

本当に危なかったのは、
命でも、理性でもない。

――自分の、願いだ。

手袋を外す。
掌には、爪が食い込んだ赤い跡。

血は出ていない。
それが、余計にたちが悪い。

「あれが……本物だったなら」

静かに、笑う。

自嘲でも、冗談でもない。
ただの事実として、そう理解している。

「……お嬢様は」

声が、ほんの少しだけ低くなる。

「そんな地獄を、
 私に許す方ではない」

だから。
今日もまた、守れた。

――彼女の執事である自分を。

その直後、聞こえてくる足音。
レイの気配。

私は即座に背筋を正し、
感情を完全に消した。


「ユウリさん、大丈夫でしたか?」

レイが静かに声をかけてくる。

「はい、大丈夫です。……レイさんは?」

「こちらも、何とか」

レイは視線を落としたまま、しばらく黙り込んだ。
互いに、何を見せられたのかは聞かない。
聞けない。

迷宮の空気だけが、まだ肌にまとわりついている。

「……進みましょうか」

私が口を開くと、レイも小さく頷いた。

「そうですね。……急ぎましょう」