第5部 夜明けが世界を染めるころ、悪意の見える伯爵令嬢は王子の執着から逃れられない

「ねぇ、ユウリ」

一歩、距離が詰まる。

「ユウリはさ……私のこと、すき?」

「……え?」

心臓が、不必要に跳ねた。

首にそっと腕が回される。

「私ね、ユウリのこと、すきだよ」

くすりと笑う。

「執事としてでも、兄のような存在でもない。
……男として」

耳元で甘く囁かれた瞬間――ああ、これはまずい。

唇が近づく。
理性が警鐘を鳴らすより早く、反射的にその手を掴んでいた。

……その笑い方。

「反吐が出る」

声が、低く落ちた。

腹の底から、どろりとした怒りが湧き上がる。
熱く、重く、醜い感情。

お嬢様は、こんなことを言わない。
私に、こんな希望を与えたりしない。

私はその手を振り払った。

「やめなさい」

冷たく、言い切る。

「お嬢様は私を試さない。
与えられないものを、餌のようにぶら下げたりしない」

偽物は、きょとんと目を瞬かせた。

「どうして? 嬉しくないの?」

……だから、嫌なんだ。

「嬉しいに決まっているでしょう」

そう言った瞬間、自分でもわかるほど——笑顔が歪んだ。

執事としての完璧な微笑みではない。
主に向けるべき穏やかな笑みでもない。

胸の奥に押し込めてきた感情が、ひび割れから漏れ出すように、
苦しさと諦めが混ざった、どうしようもない笑顔だった。


「――だからこそ」

声が震えないように、必死で抑える。

「それは“本物のお嬢様”の言葉ではない」

空気が軋む。
迷宮が呻く。

「お嬢様は私を信頼している。それは執事として……そして兄のような存在として。
それ以上を望むのは、私の罪です」

静かに、一歩後ろへ退いた。

「……消えなさい」

その瞬間、
偽物の笑顔がひび割れ、
甘い声がノイズに変わり、
光ごと霧散した。

残ったのは、
静寂と――胸の奥に沈めたままの初恋だけだった。