向かうのは区内 帝塚山に在る日蓮正宗寺院 m寺である。 ここにたくさんの新入会員が集まっているというんだ。
立山君は留守だった。 この日も朝から音楽隊の特訓を受けているから。
寺に直行‼かと思ったらその前に一軒寄るらしい。 住吉区指導長 佐竹英二の面接を受けるためだ。
これが最後の面接だ。 ここで佐竹は学会の禁則についても話してくれた。
それは、、、。
1に金銭貸借の禁止。
2に組織利用の禁止。
3に不純異性交流の禁止。
である。
これを思う時、2020年代の学会はどうなんだろう?と思ってしまう。 あちらこちらでトラブル続出じゃないか。
金絡みで辞職した議員が居る。 セクハラで失職した議員が居る。
ママ友に唆されて子供を餓死させた女が居る。 どうなってんだい?
一応の話が終わると佐竹はにこやかな顔になって話し始めた。 「私はね、全盲の方に会うと緊張するんだよ。 見透かされてるような気がして。」
そうかもしれないな。 ぼくらは声で相手の精神状態を判断するから。
怒ってるとか笑ってるとかいうのなら誰だって分かる。 でもその奥までは誰も見ようとはしない。
その些細な空気の変化を察知してしまうんだ。 だから怖がられるのも無理は無い。
「北村さんはどちらの生まれですか?」 「福岡です。」
「ほう。 福岡はどちらですか?」 「飯塚です。」
「何だって? 飯塚かい?」 「そうです。」
「私は直方だよ。」 「あらあら指導長は直方ですか。 私は田川ですよ。」
「驚いたなあ。 筑豊の三銃士が大阪で再会したのか。 ほんとに不思議だ。」 確かにそうだ。
福岡出身だと言えば何人も居るだろう。 しかし筑豊出身の人間がこうして再会することは、、、。
和やかな雰囲気のままでぼくらはm寺に向かったんだ。 道はけっこう込んでいた。
m寺は例に漏れなく鉄筋コンクリート二階建て。 寄進された寺だね。
その玄関を入った瞬間、ぼくは冷たい空気を感じた。 (何か変だな。)
クーラーでもない。 隙間風でもない。 コンクリートの足元から吹いてくるんだ。
(この寺、やばいかもしれないな。) その直感は的中した。
それから四か月後、この住職は創価学会に反旗を翻して関りを切ったのだ。 (やっぱりか。)
2階の本堂へ上がる。 題目を唱える声が聞こえている。
日蓮正宗の檀徒もたくさん集まっている。 その中でぼくらも迎えられた。
読経 そして題目が唱えられ、住職が振り向いた。
彼は板曼荼羅を手にぼくらの下へやってきた。
「ご入信おめでとうございます。 どうか広宣流布のためにお役に立たれますようお祈り申し上げます。」
ニヤリと笑う彼の命にぼくは何か冷たい物を感じていた。 (こいついつか反逆するな。)
御本尊を戴いて寄宿舎へ帰ってきたぼくではあったが、喜んでばかりはいられなかったのである。 この頃の学会と日蓮正宗は確かに暗雲が立ち込めていた。
池田名誉会長が幹部会でスピーチをする。 それに対してやいのやいのと宗門がケチを付ける。
学会が反論すると今更のように謝罪する。 そしてまたやいのやいのとやり始める。
実は1990年は大石寺が開かれて700年の記念の年だった。 この年に法主日顕は何かをやらかそうと企んでいたのだ。
それがc作戦だった。 池田名誉会長を仏教界から追放しようとする動きだった。
よくよく聞いてみると700年祭のご供養を独り占めして創価学会を握り潰すつもりだったんだとか、、、。
でも昭和54年のあの時と学会上層部は変わっていた。 あの時は宗門側に丸め込めた幹部連も簡単には丸め込めなかったんだ。
そのまま時は過ぎて12月27日、日蓮正宗宗門は安倍日顕の名で池田名誉会長の追放を発表した。 それからは学会も大騒ぎだ。
日顕に対して法主を退くように訴える声が大きくなってきた。 いやいや大変だった。
10月14日、御本尊を戴いて寄宿舎に帰ってきたぼくだったが昼食を済ませるとまたまた外へ出て行ったんだ。 今度は港区に有る港平和会館だ。
何でも自在会というグループの人たちがフォーラムをやるらしい。 初めての会合出席だ。
自在会、このグループは視力障碍者の人材グループだと言われている。 東京 神奈川 関西ではしっかりした活動をしているようだ。
フォーラムでは寸劇 コーラス 体験発表をするんだとか、、、。 初めての経験だ。
同行してくれた部長さんはさっきから感激しっぱなし。 「おっ読みながら喋ってるで。」
点字なんてまともに見たことは無いのだろう。 こちらから見ていると真っ白な紙を指先でなぞっているだけにしか見えないのにそれが文字なんだからなあ。
元はといえば暗闇で軍隊が作戦を指令する時に使っていた暗号がヒントにされている。 部隊の数 動く方向を的確に指令する方法として紙に刻んだのがそれだ。
それを苦心の末に指先でなぞれる文字に仕上げたわけだ。 ルイブライユの苦心が無ければぼくらは今でも文字を使えなかっただろう。
80年代にはオプタコンなる物が発明されてお披露目されたけれどこれが定着することは無かった。
フォーラムが終わって寄宿舎に帰ってくる。 御本尊は立山が帰ってくるまで地区部長に預かってもらっている。
夜も9時を過ぎてやっと立山が帰ってきた。 「北村さん ほんとに入信したんだなあ。」
彼はぼくの御本尊を開きながら感激したように言った。 「さあ祭るぞ。」
彼の導師で勤行をする。 小さな仏壇に御本尊をお祭りする。
お巻きしてある御本尊を広げた時、フラッシュにも似た強い光が目に飛び込んできたのを感じた。
いやいやそれは高い塔がキラキラと輝いているようにさえ見えたのである。 今から思えばそれは虚空会の儀式に連なっていた証を示されたのかもしれない。
高い塔とは多宝仏が現出させた宝塔そのものである。 ぼくは感激した。
まだまだ何も分かってはいないがここに自分の未来が開けているように感じた。
それから35年が過ぎて今は2026年。 57歳のおっさんである。
何も長続きした試しの無いぼくが35年もやってこれたのは何故なんだろう? 自分でも不思議になるほどの力が有るってことなのかもしれない。
その翌日、ぼくは初めて座談会に参加した。 そう本当に初めてだった。
まずはみんなで勤行をする。 それから御書抗議やら体験発表やら学会歌やらをやる。 幹部と呼ばれている人たちも集まっている。
ここにも立山君は来ていない。 音楽隊のほうが余程に忙しいらしい。
地区部長がぼくに挨拶を求めてきた。 緊張しまくってはいたが、ぼくははっきりと言った。
「これから先、ものすごい戦いが始まります。 それに負けないように頑張ります。」と。
それが第二次宗門問題だった。 厳しい時代だったんだなあ。
さてさて立山君は何をしているのかというと音楽隊が文化祭で行うマーティン具の猛特訓だった。
創価学会創立60周年記念関西大文化祭、10月20日21日に大阪城ホールで行われた。 ぼくはそれを観覧させてもらうことが出来た。
圧倒的なパワーに圧し潰されそうになったことを今でも覚えている 「こんなステージに立ちたいな。」
その思いは4年後、アジア青年平和音楽祭として福岡で実るのであるが、、、。
立山君は留守だった。 この日も朝から音楽隊の特訓を受けているから。
寺に直行‼かと思ったらその前に一軒寄るらしい。 住吉区指導長 佐竹英二の面接を受けるためだ。
これが最後の面接だ。 ここで佐竹は学会の禁則についても話してくれた。
それは、、、。
1に金銭貸借の禁止。
2に組織利用の禁止。
3に不純異性交流の禁止。
である。
これを思う時、2020年代の学会はどうなんだろう?と思ってしまう。 あちらこちらでトラブル続出じゃないか。
金絡みで辞職した議員が居る。 セクハラで失職した議員が居る。
ママ友に唆されて子供を餓死させた女が居る。 どうなってんだい?
一応の話が終わると佐竹はにこやかな顔になって話し始めた。 「私はね、全盲の方に会うと緊張するんだよ。 見透かされてるような気がして。」
そうかもしれないな。 ぼくらは声で相手の精神状態を判断するから。
怒ってるとか笑ってるとかいうのなら誰だって分かる。 でもその奥までは誰も見ようとはしない。
その些細な空気の変化を察知してしまうんだ。 だから怖がられるのも無理は無い。
「北村さんはどちらの生まれですか?」 「福岡です。」
「ほう。 福岡はどちらですか?」 「飯塚です。」
「何だって? 飯塚かい?」 「そうです。」
「私は直方だよ。」 「あらあら指導長は直方ですか。 私は田川ですよ。」
「驚いたなあ。 筑豊の三銃士が大阪で再会したのか。 ほんとに不思議だ。」 確かにそうだ。
福岡出身だと言えば何人も居るだろう。 しかし筑豊出身の人間がこうして再会することは、、、。
和やかな雰囲気のままでぼくらはm寺に向かったんだ。 道はけっこう込んでいた。
m寺は例に漏れなく鉄筋コンクリート二階建て。 寄進された寺だね。
その玄関を入った瞬間、ぼくは冷たい空気を感じた。 (何か変だな。)
クーラーでもない。 隙間風でもない。 コンクリートの足元から吹いてくるんだ。
(この寺、やばいかもしれないな。) その直感は的中した。
それから四か月後、この住職は創価学会に反旗を翻して関りを切ったのだ。 (やっぱりか。)
2階の本堂へ上がる。 題目を唱える声が聞こえている。
日蓮正宗の檀徒もたくさん集まっている。 その中でぼくらも迎えられた。
読経 そして題目が唱えられ、住職が振り向いた。
彼は板曼荼羅を手にぼくらの下へやってきた。
「ご入信おめでとうございます。 どうか広宣流布のためにお役に立たれますようお祈り申し上げます。」
ニヤリと笑う彼の命にぼくは何か冷たい物を感じていた。 (こいついつか反逆するな。)
御本尊を戴いて寄宿舎へ帰ってきたぼくではあったが、喜んでばかりはいられなかったのである。 この頃の学会と日蓮正宗は確かに暗雲が立ち込めていた。
池田名誉会長が幹部会でスピーチをする。 それに対してやいのやいのと宗門がケチを付ける。
学会が反論すると今更のように謝罪する。 そしてまたやいのやいのとやり始める。
実は1990年は大石寺が開かれて700年の記念の年だった。 この年に法主日顕は何かをやらかそうと企んでいたのだ。
それがc作戦だった。 池田名誉会長を仏教界から追放しようとする動きだった。
よくよく聞いてみると700年祭のご供養を独り占めして創価学会を握り潰すつもりだったんだとか、、、。
でも昭和54年のあの時と学会上層部は変わっていた。 あの時は宗門側に丸め込めた幹部連も簡単には丸め込めなかったんだ。
そのまま時は過ぎて12月27日、日蓮正宗宗門は安倍日顕の名で池田名誉会長の追放を発表した。 それからは学会も大騒ぎだ。
日顕に対して法主を退くように訴える声が大きくなってきた。 いやいや大変だった。
10月14日、御本尊を戴いて寄宿舎に帰ってきたぼくだったが昼食を済ませるとまたまた外へ出て行ったんだ。 今度は港区に有る港平和会館だ。
何でも自在会というグループの人たちがフォーラムをやるらしい。 初めての会合出席だ。
自在会、このグループは視力障碍者の人材グループだと言われている。 東京 神奈川 関西ではしっかりした活動をしているようだ。
フォーラムでは寸劇 コーラス 体験発表をするんだとか、、、。 初めての経験だ。
同行してくれた部長さんはさっきから感激しっぱなし。 「おっ読みながら喋ってるで。」
点字なんてまともに見たことは無いのだろう。 こちらから見ていると真っ白な紙を指先でなぞっているだけにしか見えないのにそれが文字なんだからなあ。
元はといえば暗闇で軍隊が作戦を指令する時に使っていた暗号がヒントにされている。 部隊の数 動く方向を的確に指令する方法として紙に刻んだのがそれだ。
それを苦心の末に指先でなぞれる文字に仕上げたわけだ。 ルイブライユの苦心が無ければぼくらは今でも文字を使えなかっただろう。
80年代にはオプタコンなる物が発明されてお披露目されたけれどこれが定着することは無かった。
フォーラムが終わって寄宿舎に帰ってくる。 御本尊は立山が帰ってくるまで地区部長に預かってもらっている。
夜も9時を過ぎてやっと立山が帰ってきた。 「北村さん ほんとに入信したんだなあ。」
彼はぼくの御本尊を開きながら感激したように言った。 「さあ祭るぞ。」
彼の導師で勤行をする。 小さな仏壇に御本尊をお祭りする。
お巻きしてある御本尊を広げた時、フラッシュにも似た強い光が目に飛び込んできたのを感じた。
いやいやそれは高い塔がキラキラと輝いているようにさえ見えたのである。 今から思えばそれは虚空会の儀式に連なっていた証を示されたのかもしれない。
高い塔とは多宝仏が現出させた宝塔そのものである。 ぼくは感激した。
まだまだ何も分かってはいないがここに自分の未来が開けているように感じた。
それから35年が過ぎて今は2026年。 57歳のおっさんである。
何も長続きした試しの無いぼくが35年もやってこれたのは何故なんだろう? 自分でも不思議になるほどの力が有るってことなのかもしれない。
その翌日、ぼくは初めて座談会に参加した。 そう本当に初めてだった。
まずはみんなで勤行をする。 それから御書抗議やら体験発表やら学会歌やらをやる。 幹部と呼ばれている人たちも集まっている。
ここにも立山君は来ていない。 音楽隊のほうが余程に忙しいらしい。
地区部長がぼくに挨拶を求めてきた。 緊張しまくってはいたが、ぼくははっきりと言った。
「これから先、ものすごい戦いが始まります。 それに負けないように頑張ります。」と。
それが第二次宗門問題だった。 厳しい時代だったんだなあ。
さてさて立山君は何をしているのかというと音楽隊が文化祭で行うマーティン具の猛特訓だった。
創価学会創立60周年記念関西大文化祭、10月20日21日に大阪城ホールで行われた。 ぼくはそれを観覧させてもらうことが出来た。
圧倒的なパワーに圧し潰されそうになったことを今でも覚えている 「こんなステージに立ちたいな。」
その思いは4年後、アジア青年平和音楽祭として福岡で実るのであるが、、、。



