旅の途中、私は手帳をつけている。
漫画家だった前世の習慣だ。ネームを描くとき、アイデアをメモするとき、感情が溢れた時——紙に書いてしまわないと、大事なものがどこかへ消えていく気がして。
この世界に来てから、手帳が五冊目になった。
最初の手帳は、エリザベート嬢の屋敷にいた頃に買ったもの。市場で見つけた粗末な帳面に、慣れない文字で書き始めた。
「森で見つけたクッキーの木について。実を砕くと中から粉が出て、それが甘味料になる。色は白くて、砂糖より甘い」
今読み返すと、拙くて笑ってしまう。
五冊目は、旅の道具屋で見つけた上質な革表紙の手帳だ。ページはしっかりとしていて、インクが滲まない。
今日の日付のページに、私は書く。
「南の大陸から帰ってきた。タリクさんに教えてもらった力の魔法と、私の心の魔法を合わせたら、新しい菓子ができた。砂漠の夜明けという名前をつけた。食べた人が力を取り戻しながら、心も静まる菓子。戦争が終わった後の兵士に食べてほしいと思った。」
「レイと砂漠で焚き火を囲んで、古代の菓子を食べた。七色に輝いた。前世のことを、少し思い出した。」
ペンを置いて、外を見る。
今日は王都に戻ってきたばかりだ。
リリアたちが待っていてくれていた。王女が出迎えてくれた。懐かしい匂いがもふもふカフェを満たしていた。
帰ってきた。
心からそう思えた瞬間、目が潤んだ。
「なんで泣いてるんですか、師匠」
リリアが不思議そうに見ていた。
「嬉しくて」
「変なの」
「変で結構よ」
ケットシーの身体は正直で、泣きそうになると耳と尻尾がぴたりと静止する。今も、ぴっとしたまま動かない。感情が大きすぎて、どう表現すればいいか分からない時の、私の癖だ。
「師匠の耳、止まってる」
「感動してると止まるの」
「初めて知りました」
手帳を閉じ、私は立ち上がる。
今日から、また始まる。
南の大陸で学んだこと、古代のレシピで得た知恵、タリクとの交流で広がったお菓子魔法の可能性——全部、ここから先の菓子に繋がっていく。
「リリア、厨房貸して。新しいレシピを試したい」
「もちろんです! 一緒にやっていいですか?」
「もちろん」
厨房に立つ。
炉の火が灯る。材料を広げる。
指先が、自然と動き始める。
これが、私の場所だ。
どこへ旅をしても、最後に帰ってくる場所。そして、ここからまた旅立つ場所。
手帳の余白に、新しいレシピを書き留める。
「砂漠の夜明け・改良版。タリクのナッツ菓子の製法に、ハナさんの餡の技術を組み合わせる。外はザクザクのナッツ層、中は滑らかな豆の餡、その中心に心の蜜を封じ込める。」
「口に入れた瞬間、力が湧く。次の瞬間、心が穏やかになる。そして最後に、温かさが残る。」
「——これが、全部の魔法を合わせた菓子。」
「名前は……」
考えて、ペンを走らせる。
「帰り道」
旅から帰ってきた人への菓子。
疲れた心と体を、家に帰ってきた安心感で包んでくれる菓子。
「師匠、何を作るんですか」
リリアが覗き込む。
「帰り道、という菓子よ。食べた人に、家に帰ってきた気持ちを与えたい」
リリアがしばらく黙った。
「師匠って、いつもそういうことを考えながら作るんですね」
「そうよ。誰のための菓子か、何を届けたいのか。それが決まると、作り方が見えてくる」
「私も、そういうふうに考えるようにします」
「あなたはもうできてるわよ。あのケーキ——四層のやつ、覚えてる?」
「師匠への餞別に作ったやつですね」
「あれが、まさにそういうお菓子だった。師匠への愛情と思い出と、あなた自身の成長を全部込めたお菓子。食べた時、全部伝わったわ」
リリアが照れて、目を逸らした。
「……師匠、一つ聞いていいですか」
「何?」
「旅をして、怖かったことはありますか」
「たくさんあったわよ」
「でも続けた」
「続けた」
「なんで?」
私は少し考えた。
「好きだから、かな」
「お菓子作りが?」
「お菓子を食べた人の笑顔が。それを見るたびに、また作りたくなる。怖い気持ちより、また見たい気持ちが上回るの」
「……私も、そうです」
リリアが静かに言った。
「師匠が作ったお菓子を初めて食べた時、世界が変わった気がしました。甘いって、こういうことなんだって。誰かに何かを届けるって、こういうことなんだって。だから職人になりたかった」
「教えた甲斐があったわ」
「まだまだ教えてほしいことがたくさんあります」
「どこへ旅をしていても、一番の師匠はあなたたちよ。作り続けてくれる弟子を見ていると、私もまた作りたくなるから」
炉の火が温かく揺れる。
材料を混ぜながら、私は思った。
漫画家だった時、ずっと一人で描いていた。締め切りを一人で抱えて、スランプを一人で乗り越えて、不安を一人で押し殺して。
今は違う。
隣に誰かがいる。
厨房に仲間がいる。旅にはレイがいる。訪れた国には友がいる。
お菓子は、人を繋ぐ。
それは、魔法なんかじゃなくて——人の本能みたいなものかもしれない。
美味しいものを分け合いたい、という気持ち。幸せを誰かと共有したい、という欲求。
「帰り道」のレシピが、紙の上で完成した。
「作ってみましょう」
「はい!」
厨房に、甘い香りが広がり始めた。
漫画家だった前世の習慣だ。ネームを描くとき、アイデアをメモするとき、感情が溢れた時——紙に書いてしまわないと、大事なものがどこかへ消えていく気がして。
この世界に来てから、手帳が五冊目になった。
最初の手帳は、エリザベート嬢の屋敷にいた頃に買ったもの。市場で見つけた粗末な帳面に、慣れない文字で書き始めた。
「森で見つけたクッキーの木について。実を砕くと中から粉が出て、それが甘味料になる。色は白くて、砂糖より甘い」
今読み返すと、拙くて笑ってしまう。
五冊目は、旅の道具屋で見つけた上質な革表紙の手帳だ。ページはしっかりとしていて、インクが滲まない。
今日の日付のページに、私は書く。
「南の大陸から帰ってきた。タリクさんに教えてもらった力の魔法と、私の心の魔法を合わせたら、新しい菓子ができた。砂漠の夜明けという名前をつけた。食べた人が力を取り戻しながら、心も静まる菓子。戦争が終わった後の兵士に食べてほしいと思った。」
「レイと砂漠で焚き火を囲んで、古代の菓子を食べた。七色に輝いた。前世のことを、少し思い出した。」
ペンを置いて、外を見る。
今日は王都に戻ってきたばかりだ。
リリアたちが待っていてくれていた。王女が出迎えてくれた。懐かしい匂いがもふもふカフェを満たしていた。
帰ってきた。
心からそう思えた瞬間、目が潤んだ。
「なんで泣いてるんですか、師匠」
リリアが不思議そうに見ていた。
「嬉しくて」
「変なの」
「変で結構よ」
ケットシーの身体は正直で、泣きそうになると耳と尻尾がぴたりと静止する。今も、ぴっとしたまま動かない。感情が大きすぎて、どう表現すればいいか分からない時の、私の癖だ。
「師匠の耳、止まってる」
「感動してると止まるの」
「初めて知りました」
手帳を閉じ、私は立ち上がる。
今日から、また始まる。
南の大陸で学んだこと、古代のレシピで得た知恵、タリクとの交流で広がったお菓子魔法の可能性——全部、ここから先の菓子に繋がっていく。
「リリア、厨房貸して。新しいレシピを試したい」
「もちろんです! 一緒にやっていいですか?」
「もちろん」
厨房に立つ。
炉の火が灯る。材料を広げる。
指先が、自然と動き始める。
これが、私の場所だ。
どこへ旅をしても、最後に帰ってくる場所。そして、ここからまた旅立つ場所。
手帳の余白に、新しいレシピを書き留める。
「砂漠の夜明け・改良版。タリクのナッツ菓子の製法に、ハナさんの餡の技術を組み合わせる。外はザクザクのナッツ層、中は滑らかな豆の餡、その中心に心の蜜を封じ込める。」
「口に入れた瞬間、力が湧く。次の瞬間、心が穏やかになる。そして最後に、温かさが残る。」
「——これが、全部の魔法を合わせた菓子。」
「名前は……」
考えて、ペンを走らせる。
「帰り道」
旅から帰ってきた人への菓子。
疲れた心と体を、家に帰ってきた安心感で包んでくれる菓子。
「師匠、何を作るんですか」
リリアが覗き込む。
「帰り道、という菓子よ。食べた人に、家に帰ってきた気持ちを与えたい」
リリアがしばらく黙った。
「師匠って、いつもそういうことを考えながら作るんですね」
「そうよ。誰のための菓子か、何を届けたいのか。それが決まると、作り方が見えてくる」
「私も、そういうふうに考えるようにします」
「あなたはもうできてるわよ。あのケーキ——四層のやつ、覚えてる?」
「師匠への餞別に作ったやつですね」
「あれが、まさにそういうお菓子だった。師匠への愛情と思い出と、あなた自身の成長を全部込めたお菓子。食べた時、全部伝わったわ」
リリアが照れて、目を逸らした。
「……師匠、一つ聞いていいですか」
「何?」
「旅をして、怖かったことはありますか」
「たくさんあったわよ」
「でも続けた」
「続けた」
「なんで?」
私は少し考えた。
「好きだから、かな」
「お菓子作りが?」
「お菓子を食べた人の笑顔が。それを見るたびに、また作りたくなる。怖い気持ちより、また見たい気持ちが上回るの」
「……私も、そうです」
リリアが静かに言った。
「師匠が作ったお菓子を初めて食べた時、世界が変わった気がしました。甘いって、こういうことなんだって。誰かに何かを届けるって、こういうことなんだって。だから職人になりたかった」
「教えた甲斐があったわ」
「まだまだ教えてほしいことがたくさんあります」
「どこへ旅をしていても、一番の師匠はあなたたちよ。作り続けてくれる弟子を見ていると、私もまた作りたくなるから」
炉の火が温かく揺れる。
材料を混ぜながら、私は思った。
漫画家だった時、ずっと一人で描いていた。締め切りを一人で抱えて、スランプを一人で乗り越えて、不安を一人で押し殺して。
今は違う。
隣に誰かがいる。
厨房に仲間がいる。旅にはレイがいる。訪れた国には友がいる。
お菓子は、人を繋ぐ。
それは、魔法なんかじゃなくて——人の本能みたいなものかもしれない。
美味しいものを分け合いたい、という気持ち。幸せを誰かと共有したい、という欲求。
「帰り道」のレシピが、紙の上で完成した。
「作ってみましょう」
「はい!」
厨房に、甘い香りが広がり始めた。



