白ねこのココと、あまい森のひみつ

  南の大陸の砂漠は、北の大陸や東の大陸の砂漠よりも、はるかに広大だった。
 砂の海は――どこまでも終わらない。

  砂漠の王国への旅の途中、私たちは砂嵐に遭遇した。
「前が見えない!」
 砂が容赦なく顔に叩きつけてくる。目を細めても、視界は白一色だった。
「こっちだ!」
 レイが私の手を引く。力強い手の感触が、砂嵐の中で唯一確実なものだった。
 岩陰に身を隠す。砂嵐の轟音が頭上を覆う。
「大丈夫か」
「はい。怖かったですけど」
 レイが私の頭の上の砂を払ってくれた。耳に入り込んだ砂をかき出すと、「にゃ」という声が出た。
「耳に入ったのか?」
「入りました」
「じゃあ……」
 レイが、慎重な手つきで耳の中を確認してくれた。指先が耳の縁に触れるたびに、くすぐったくて体がびくびくと揺れた。
「ちゃんと確認してますよ」
「わかってます……でも、くすぐったくて」
「猫の耳は敏感なのか」
「敏感です。できれば優しく——」
「こうか」
「あ……それは大丈夫です」
 砂嵐が収まるまで、岩陰で待った。
 レイは無口な人間だけど、一緒にいて居心地が悪くない。沈黙が苦にならない相手というのは、案外貴重だった。
「レイさん」
「何だ」
「この旅、楽しいですか」
「ああ」
「砂嵐に巻き込まれても?」
「こういう不測の事態も、旅の醍醐味だろ」
「楽観的ですね」
「お前こそ、楽観的じゃないか。異世界に転生して、ケットシーになって、お菓子で国を救おうとしてる。オレより全然楽観的だ」
「それは……楽観というか、他に方法がなかっただけで」
「同じことだ。できることをやる。それが楽観主義ってことだ」
砂嵐の音が少しずつ遠ざかっていく。
「ねえ、レイさん。一つ聞いていいですか」
「なんでも」
「前に騎士だったと言いましたよね。その頃と、今と、どっちが幸せですか」
レイが少し間を置いた。
「今だな」
「どうして」
「騎士の頃は、命令通りに動くことを美徳としていた。でも命令が間違っていた時に、その間違いを間違いと言える立場じゃなかった。それが……ずっと苦しかった」
「今は?」
「今は、自分が守りたいものを守る理由で動いてる。それだけで、ずっと楽だ」
守りたいもの——の視線が、一瞬私に向いた気がした。
「私を守るのが、目的ですか」
「それだけじゃないけど——大事な目的の一つだな」
 耳がじわじわと温かくなっていった。
 タリクと共同作業を終えた夜、私とレイは宿の屋根に上がった。
 砂漠の夜空は、圧倒的だった。
 遮るものが何もない地平線まで、満天の星が広がっていた。天の川がはっきりと帯状に見えて、流れ星がひゅっと消えた。
「綺麗……」
「ここまで星が見える場所は、北の大陸じゃなかったな」
「砂漠だから空気が乾いてるんでしょうか。あと、町の灯りが少なくて」
しばらく、二人で黙って星を眺めた。
「ココ」
「はい」
「オレに、お菓子を作ることを教えてくれないか」
「え?」
 レイが珍しく、少し照れたような顔をした。
「オレが作っても、どうせまずいだろうが……一度、試してみたい。誰かのために何かを作るって、どういう感覚か、知りたい」
「誰かのため、というのは……」
「お前のためだよ」
 星空を見上げながら、彼は言った。
「お前はいつもオレのために料理作ってくれるだろ。旅の途中でも、体が疲れてる時でも、さっと何か作ってくれる。オレは食べるだけで、何も返せてない気がして」
「護衛してくれてるじゃないですか」
「それは当然のことで、感謝されるようなものじゃない。でも、お菓子は……お前が心を込めて作るものだろ。オレも一度、心を込めて何かを作ってみたかった」
 静かな告白だった。
 この人は、いつもこういう言い方をする。さらっと、でも確かな言葉で、大切なことを言う。
「教えます」
「本当に?」
「一番簡単なクッキーから始めましょう。ただし、うまくいくかどうかは保証できないですけど」
「構わない」

 翌朝、私はレイにクッキーの作り方を教えた。
 材料を量る、混ぜる、伸ばす、型で抜く——その一つ一つを、レイは真剣な顔で実行した。
「力の加減が難しいな」
「そうです。強く押しすぎると型が崩れる」
「剣よりデリケートだ」
「剣と同じかもしれないですよ。力を込めすぎると、かえってうまくいかない」
 レイが少し考えた。
「……確かにそうかもな」
 焼き上がったクッキーは、少し歪んでいたが、ちゃんとクッキーの形をしていた。
「食べてみてください」
 レイが恐る恐る一口。
「……美味いな」
「でしょう」
「初めて自分で作った食べ物だ」
 彼は、自分の作ったクッキーをじっと見つめていた。その表情が、珍しく柔らかかった。
「これを誰かに食べてもらうのが、お前の仕事なのか」
「はい」
「大切な仕事だな」
「大切だと思ってます」
「オレには、正直、お菓子がなぜそんなに大事なのかが最初はわからなかった。食べ物は、腹を満たせればいいと思ってた。でも——」
 彼はクッキーをもう一口食べた。
「でも、こうして自分で作ってみると、少しわかる気がする。作る時に、誰かのことを考える。その人に届けばいいと思いながら作る。そうすると、ただの食べ物じゃなくなる」
「そうです。その通りです」
「お前がずっとやってきたことが、やっとわかった」
レイは残りのクッキーを全部食べた。
「全部食べた」
「美味しかったですか」
「ああ。自分で作ったからかもしれないが、一番美味かった」
「初めて作ったお菓子、一番美味しく感じるんですよ。きっと」
 彼は少し笑った。
「そうかもな」
 砂漠の朝日が昇り始めていた。金色の光が、砂丘の稜線を照らし出す。
「レイさん」
「何だ」
「これからも、一緒に旅をしましょう。一緒に行ったほうが、きっとたくさんの笑顔が見られるから」
「当然だろ。オレはどこへでも行く」
「ありがとうございます」
「礼を言われるようなことじゃない」
 でも、私はちゃんと礼を言いたかった。
 この人がいなければ、たどり着けなかった場所がある。会えなかった人がいる。生まれなかったお菓子がある。
「ありがとうございます。本当に」
 レイが少し間を置いてから、言った。
「……どういたしまして」
砂漠の朝が、私たちを金色に照らした。

 南の大陸への航海は二週間かかった。
 到着したのは、灼熱の砂漠に囲まれた港町だった。
「暑い……」
「北の大陸とは全然違うな」
 砂漠の熱気が肌を刺す。
 しかし、景色は美しかった。
 岩肌に刻まれた文様、砂金色に輝く建物、色とりどりのスパイスが並ぶ市場。
「全然知らない文化……」
 胸が高鳴る。
 市場を歩くと、甘い香りが漂ってきた。
「これは……?」
 屋台に近づいてみると、蜂蜜をたっぷりかけたパイのような菓子が売られていた。
 ナッツと蜂蜜、薄い生地を何層にも重ねたもの。
「バクラヴァ……に似てる」
 前世の記憶が揺れる。
「美味しそうだな」
 レイが目を輝かせる。
「買ってみましょう」
 屋台の老人から菓子を買い、二人で食べた。
「甘い……」
「でも、美味しい」
 蜂蜜の濃厚な甘さと、ナッツの香ばしさ、パイ生地のサクサク感が絡み合う。
「この国には、お菓子文化があるんですね」
 老人に話しかけると、彼は誇らしげに胸を張った。
「当然だ。我が国は、甘味の文化では世界一だ」
「そうなんですか?」
「ああ。砂漠の過酷な環境の中で、甘味だけが人の心を支えてきた。だから、我が国では菓子職人は最も尊ばれる仕事の一つだ」
予想外の展開だった。
「甘味を広めに来たんですが……すでにあるんですね」
「もちろん。でも、旅人よ、あなたの菓子も見てみたい。異国の甘味を知ることも、我らには大切だ」
 老人の言葉に従い、小さな屋台を借りた。
 北の大陸のクッキーを作り、試食として配る。
 最初は怪しまれたが、一口食べると人々の顔が変わった。
「これは、砂漠の菓子とは全然違う!」
「バターの風味が強い。初めて食べる味だ」
「不思議だな、でも美味しい」
評判が立つのは早かった。

二日後には、国王の耳に届いた。
「北の大陸から来た菓子職人を、宮殿に招け」
国王に謁見することになった。
砂漠の王国の宮殿は、外側は砂色だったが、内部は豪華絢爛だった。
天井には星空のような装飾、床には複雑な幾何学模様のタイル。
「異国の者よ、聞けば北の大陸でお菓子魔法を使うと聞いた。本当か?」
「はい。お菓子魔法の使い手です」
「我が国にも、菓子に魔法を込める者はいる。しかし、北のお菓子魔法は、我らのものとは異なると聞く」
「どう違うのですか?」
「我らの菓子魔法は、力を与えるものだ。戦士に活力を、旅人に体力を与える菓子を作る。だが、北のものは、心を癒すと聞いた」
なるほど、方向性が違うのか。
「試してみますか?」
「やってみよ」
私は、シンプルなクッキーを作った。
丁寧に心を込めて、「この人の疲れが癒えますように」と願いながら。
国王に差し出す。
食べた瞬間、彼は目を細めた。
「……不思議だ。体に力が湧いてくるのではなく、心が軽くなる。肩の力が抜ける感じがする」
「これが、心を癒すお菓子魔法です」
「なるほど……異国には、異なる知恵がある」
国王は考え込んだ。
「我が国の菓子職人たちと、交流してみてはどうか。互いの技術を学び合えば、新しいものが生まれるかもしれない」
「喜んで」
こうして、砂漠の王国での交流が始まった。
国王専属の菓子職人、タリクは、驚くほど高い技術の持ち主だった。
「ナッツを使った菓子は、我が国の得意とするところ。これを見よ」
彼が作るナッツ菓子は、芸術品だった。
細かく刻んだナッツを、砂糖とスパイスで炒め、型に詰めて固める。表面には食用の金粉で模様を描いている。
「美しい……」
「これを食べると、力が湧いてくる。我が国の戦士は、出陣前に必ずこれを食べる」
「試してもいいですか?」
「もちろん」
一口食べると、体の芯から力が湧き出てくる感覚があった。
「これが、力の菓子魔法……」
「ケットシーよ、あなたの菓子魔法と、私の菓子魔法は、どちらが上だと思うか」
「どちらが上というものではないと思います。あなたの魔法は力を与え、私の魔法は心を癒す。それぞれ違う役割がある」
タリクは黙って考えた後、頷いた。
「確かに。では、合わせることはできるか?」
「やってみましょう」
二人で共同作業を始めた。
彼のナッツ菓子の作り方を学び、私の心を込める技術を組み合わせる。
「力を与えながら、心も癒す菓子……」
三日間の試行錯誤の末、完成した。
名前は「砂漠の夜明け」。
外側はタリクの技術で作ったナッツとスパイスの菓子、内側には私がお菓子魔法で作り出した、透明な心の蜜が封じ込められている。
「食べてみます」
タリクが一口食べた。
「……これは」
彼は珍しく表情を崩した。
「力が湧く。でも同時に、心が穏やかになる。疲れた兵士が、戦いの後で食べるのに最適かもしれない」
「戦いが終わった後の、心の傷を癒す菓子にもなりますね」
「そうだな」
タリクはしばらく考えた後、一つのことを告白した。
「実は、私の国にも昔、心の癒しを重視する菓子職人がいたと聞いている。しかし百年の戦乱の中で、その技術は失われた。今の我が国の菓子魔法は、力を与えることに特化している」
「それは……悲しいですね」
「そうだ。しかし今、お前と出会い、その失われた技術の欠片を取り戻せた気がする」
「私も同じ気持ちです。タリクさんの力の魔法、私は知らなかった。これから使えます」
「互いに、高め合えるな」
国王の前で、二人で「砂漠の夜明け」の試食会が開かれた。
参加した騎士たちは、まず試食して驚き、次に涙を流した。
「こんな感覚は初めてだ。力が湧くのに、心が静かになる」
「遠征から帰ってきたとき、これがあったら……」
騎士の一人が呟く。
「帰ってきた安心感と、また前を向く力が、同時にくれるんですね」
私が説明すると、彼は強く頷いた。
「まさにそれだ」
砂漠の王国での滞在は、二ヶ月に及んだ。
タリクだけでなく、他の職人たちとも技術を交換し、北と南の菓子文化の橋渡しができた。
「またいつか来てくれ」
国王に見送られ、次の地へ向かった。