4限目が終わりを告げた。
廊下の先から濁流のような足音と、若者特有の高周波な笑い声が近づいてくる。
日常という名の、圧倒的な暴力。
「っ……!」
わたしは反射的に、身を縮こまらせた。
授業をサボっていたのだ。何を言われるか分からない。
長年染み付いた「弱者」としての習性が、脊髄反射で身体を強張らせる。
胃の奥がキュッと縮み上がる感覚。
しかし、先輩は姿勢一つ崩さない。
椅子に深くもたれかかり、優雅に足を組んだまま、窓の外を眺めている。
この学校の生徒でもないのに!
「不動《ステイ》。そのままだ。君は今、上位世界のVIPシートから世界を見下ろす立場にいるんだよ」
ガララッ!
教室の扉が勢いよく開き、クラスメイトたちが雪崩れ込んできた。
「物理、マジ寝そうだったわー」
「てか、弁当どっか行っちゃった(笑)」
ムッとするほどの熱気と、制服が擦れる音。
汗と整髪料、そして購買の焼きそばパンの匂いが入り混じった若者の体臭が、教室の静寂を一瞬で塗り潰す。
空気の密度が変わった。
重力が、戻ってきたのだ。
異変はすぐに起きた。
「あれ? ちょっと待って」
聞き慣れた甲高い笑い声が耳に刺さった。
わたしを「消した」真の主犯格、蜂屋《はちや》さんたちのグループが、わたしの机を囲むように足を止める。
心臓が、喉の奥でバクンと跳ねた。
「ところでさ、今朝のアレ、傑作だったよね」
「下駄箱? マジ笑った。アイツ、自分の靴がないのに気づいた時、金魚みたいに口パクパクさせて固まってんの」
「動画撮っとけばよかったー(笑)」
無邪気な、悪意さえ介在しない「娯楽」としての嘲笑。
彼女たちにとって、わたしの苦しみなど、休み時間の暇つぶし程度のコンテンツに過ぎないのだ。
悔しかった。
指先が震えるのを止められなかった。
自分の存在を否定する言葉が、すぐ目の前で、自分を通り過ぎていく。
鼓膜が内側から圧迫されるような耳鳴り。
「で、結局どこやったの? アレ」
「ゴミ集積所の指定ゴミ袋。可燃ゴミの一番奥に突っ込んどいた。……今頃、使用済みの生理用品《ナプキン》とかでぐちょぐちょになってるんじゃない?」
「ついでに体操着も混ぜといたしね(笑)」
「うわ、マジ汚い(笑)」
「絶対もう履けないわー。キモいし」
ケタケタと笑う声が、頭の中で反響する。
視界が急速に狭まり、世界がモノクロームに変わっていく。
気持ちが悪くなる。
胃液が逆流してくるような、酸っぱい感覚が込みあげてくる。
その言葉だけが、重い鉛のように胸の奥底に残された。
なにより、わたしのみじめな姿を先輩に見られてしまったのがつらかった。
恥ずかしかった。靴を隠されたことよりも、汚い言葉を浴びせられたことよりも、先輩に無様な姿を知られてしまったことが嫌だった。
汚された事実よりも、汚された姿を見られることの方が、何倍も惨めで、耐えがたかった。
みんなに辱められるわたし。
服も何も脱がされて、裸で晒されているようなものだ。
なのに、ただ震えて俯いているだけ。
さっきまで笑えていたのに。
もう、笑えなくなる。
「…………っ」
わたしは先輩を見ることが出来なかった。
どんな目でわたしを見ているのか、確かめるのが怖かったからだ。
ガタン、と乱暴に席を立つ音がした。
「つまらん話だな。出るぞ」
ガララッ!
彼が教室の扉を乱暴に開ける音が、鼓膜を震わせた。
クラスメイトたちの会話が一瞬、途切れる。
彼女たちには彼の姿は見えない。ただ、勝手に扉が開いたという不可解な怪奇現象に、怪訝な顔を見合わせている。
先輩は廊下に出たところで立ち止まり、言った。
「出るぞと言ったんだ、来い」
誰も聞いていない。誰にも聞こえていない。
世界はまだ、わたしを拒絶する重力に満ちていた。
そこに届いた、先輩の引力。
来い。
わたしは席を立ち、追うように教室を飛び出した。
