***
世界から弾き出されてしまったわたしと先輩の職員室潜入任務《ステルス・ミッション》は、ただのカステラ泥棒として終わり、わたしたちは1年A組の教室へと戻った。
教室は、無人だった。
今日の4限は物理の移動教室で、お昼休みに入るには、しばらくの時間があった。
今は深海のような静寂に満ちていた。
窓から差し込む午後の陽光が、宙を舞う埃を黄金色の粒子に変えている。
誰もいない机の列。
黒板に残された数式の跡。
それらが、まるで海底遺跡のように静止している。
「喉が渇いただろう」
先輩は慣れた手つきで、自販機で購入した冷たいミルクティーをわたしの机に置いた。
カトン、という硬質な音が静寂に響く。
「ありがとうございますっ、いくらでした?」
「後輩が遠慮するな。それ以前に、僕に現金を払ったところで何の意味もない。この宇宙(レイヤー)では『意味』だけが通貨だからな」
先輩はわたしの前の席――本来なら蜂屋《はちや》さんが座っている席に、我が物顔で腰を下ろした。
椅子の背もたれに深く寄りかかり、長い足を組む。
その横柄とも取れる態度は、この無人の教室の支配者のようだった。
「僕たちがいるのは、この世界の住人が認知できない、不可視かつ干渉不能な上位次元だ」
先輩はコーヒーのプルトップを開けながら言った。
プシュ、という炭酸でもないのに弾けるような音が、妙に耳に残った。
「なんでこんな不可視世界《レイヤー》が生まれたのか。僕も知らない。創造主に聞いてくれと言いたいところだが、生憎と連絡先を知らないものでね」
先輩はどうしてここに? と聞きたくなったけれど、それはそのまま自分に跳ね返ってくる言葉なので飲みこんだ。
人に言いたくなるような話では、絶対にない。
みっともない話は、知られたくない。
何も知らない先輩と、普通に話がしたい。
「わたしは、仲間はずれがきっかけでした」
「エネルギー保存則だな」
「?」
「弾き出す力があれば、弾き出された先が必要になるということさ。向こうはゴミを捨てたかった。捨てる場所ができた。その場所がここで、ゴミが僕らってことだ」
「悪意から、この世界は生まれたんですか?」
「かもな」
先輩はぶっきらぼうに言う。
「追い出したのは向こうであって、こっちの知ったことではない。悪いのは仲間はずれにした側で、はずされた側が気に病むことなど何一つない。ついでにカステラの一つや二つを拝借したところで、詫び代みたいなものさ。そうだろう?」
「先輩。それは屁理屈です」
自然と、唇から笑みが零れていた。
世界から弾き出されたことを「特権」と言い換える先輩の強引さに、縮こまっていたわたしの心が解きほぐされていっている。
呆れるほど前向きで、清々しいほどの独善。
けれどそれは、今のわたしには何よりも必要な「肯定」だった。
「無視(むし)された存在が自由に動ける虫取り(デバッグ)モード、それが僕らだ」
先輩は不敵に笑う。
その笑顔は、教室の窓から差し込む光よりも眩しく見えた。
「水瀬くん。君はハブられたんじゃない。世界から飛び出したんだ。まるで宇宙から地上を見下ろすみたいに、僕たちだけが完全に自由な無重力なんだ。誰の目にも留まらない。誰の手にも止められない。誰にも縛られない。とても贅沢だと思わないか? 重力に魂を引かれた連中には一生味わえない極上の視点だ」
光の中で黄金色も踊る塵。
それと同じように、心もふわりと浮き上がるような感覚を覚える。
重力から、解き放たれていく。
「僕たちだけが、無重力……」
ミルクティーの缶に口をつけた。
甘くて温かい液体が、先ほどの緊張で強張っていた喉に、驚くほど優しく染み渡っていく。
胃の腑に落ちる熱。
それはまるで、冷え切っていた細胞の一つ一つを修復していく魔法の薬のようだった。
カタリ。
不意に、教室の前方で音がした。
引き戸がわずかに揺れている。
誰かが、手をかけた音だ。
「……!」
平和な時間は、唐突に終わりを告げた。
日常という名の、重力が戻ってくる。
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世界から弾き出されてしまったわたしと先輩の職員室潜入任務《ステルス・ミッション》は、ただのカステラ泥棒として終わり、わたしたちは1年A組の教室へと戻った。
教室は、無人だった。
今日の4限は物理の移動教室で、お昼休みに入るには、しばらくの時間があった。
今は深海のような静寂に満ちていた。
窓から差し込む午後の陽光が、宙を舞う埃を黄金色の粒子に変えている。
誰もいない机の列。
黒板に残された数式の跡。
それらが、まるで海底遺跡のように静止している。
「喉が渇いただろう」
先輩は慣れた手つきで、自販機で購入した冷たいミルクティーをわたしの机に置いた。
カトン、という硬質な音が静寂に響く。
「ありがとうございますっ、いくらでした?」
「後輩が遠慮するな。それ以前に、僕に現金を払ったところで何の意味もない。この宇宙(レイヤー)では『意味』だけが通貨だからな」
先輩はわたしの前の席――本来なら蜂屋《はちや》さんが座っている席に、我が物顔で腰を下ろした。
椅子の背もたれに深く寄りかかり、長い足を組む。
その横柄とも取れる態度は、この無人の教室の支配者のようだった。
「僕たちがいるのは、この世界の住人が認知できない、不可視かつ干渉不能な上位次元だ」
先輩はコーヒーのプルトップを開けながら言った。
プシュ、という炭酸でもないのに弾けるような音が、妙に耳に残った。
「なんでこんな不可視世界《レイヤー》が生まれたのか。僕も知らない。創造主に聞いてくれと言いたいところだが、生憎と連絡先を知らないものでね」
先輩はどうしてここに? と聞きたくなったけれど、それはそのまま自分に跳ね返ってくる言葉なので飲みこんだ。
人に言いたくなるような話では、絶対にない。
みっともない話は、知られたくない。
何も知らない先輩と、普通に話がしたい。
「わたしは、仲間はずれがきっかけでした」
「エネルギー保存則だな」
「?」
「弾き出す力があれば、弾き出された先が必要になるということさ。向こうはゴミを捨てたかった。捨てる場所ができた。その場所がここで、ゴミが僕らってことだ」
「悪意から、この世界は生まれたんですか?」
「かもな」
先輩はぶっきらぼうに言う。
「追い出したのは向こうであって、こっちの知ったことではない。悪いのは仲間はずれにした側で、はずされた側が気に病むことなど何一つない。ついでにカステラの一つや二つを拝借したところで、詫び代みたいなものさ。そうだろう?」
「先輩。それは屁理屈です」
自然と、唇から笑みが零れていた。
世界から弾き出されたことを「特権」と言い換える先輩の強引さに、縮こまっていたわたしの心が解きほぐされていっている。
呆れるほど前向きで、清々しいほどの独善。
けれどそれは、今のわたしには何よりも必要な「肯定」だった。
「無視(むし)された存在が自由に動ける虫取り(デバッグ)モード、それが僕らだ」
先輩は不敵に笑う。
その笑顔は、教室の窓から差し込む光よりも眩しく見えた。
「水瀬くん。君はハブられたんじゃない。世界から飛び出したんだ。まるで宇宙から地上を見下ろすみたいに、僕たちだけが完全に自由な無重力なんだ。誰の目にも留まらない。誰の手にも止められない。誰にも縛られない。とても贅沢だと思わないか? 重力に魂を引かれた連中には一生味わえない極上の視点だ」
光の中で黄金色も踊る塵。
それと同じように、心もふわりと浮き上がるような感覚を覚える。
重力から、解き放たれていく。
「僕たちだけが、無重力……」
ミルクティーの缶に口をつけた。
甘くて温かい液体が、先ほどの緊張で強張っていた喉に、驚くほど優しく染み渡っていく。
胃の腑に落ちる熱。
それはまるで、冷え切っていた細胞の一つ一つを修復していく魔法の薬のようだった。
カタリ。
不意に、教室の前方で音がした。
引き戸がわずかに揺れている。
誰かが、手をかけた音だ。
「……!」
平和な時間は、唐突に終わりを告げた。
日常という名の、重力が戻ってくる。
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