***
先輩が次に向かったのは、職員室だった。
引き戸の隙間から、電話のベル、コピー機の無機質な駆動音、教師たちの抑揚を欠いた話し声が漏れ出てくる。
わたしは反射的に足を止めた。
今は授業中だ。
誰の許可もないのに私たちが。
「あ、あの……。職員室ですよ、ここ」
「なんの問題がある?」
「問題がないと考える先輩が問題ですよ」
先輩は唇に、白く細い指を当てた。
悪戯っぽく、それでいてこの世のすべてに飽き飽きしているような、不思議な笑みを湛えている。
そして、重いアルミの引き戸を、儀式のような無造作さで横に引いた。
ガララララッ、と、建付けの悪い戸車が断末魔のような悲鳴を上げた。
怒られる!
心臓が跳ね、肋骨の裏側を激しく打つ。
終わったという確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
脳が、叱責と軽蔑に満ちた教師たちの視線を予感して、防御姿勢をとる。
しかし。
「…………」
爆発のような沈黙。
誰も、こちらを見ない。
受話器を耳に押し当てたままの教頭。
ディスプレイの青白い光に顔を照らされている学年主任。
入口付近でプリントを揃えていた体育教師さえ、指先ひとつ動かしてこちらを振り向こうとはしない。
……どういうこと?
クラスメイトたちによる無視ではない。
明らかに気づいていない。
わたしと先輩という乱入者に、誰ひとり、気づいていない。
「避け方にもコツがある」
先輩は堂々と歩き出していく。
自分の部屋へ帰ってきたかのような、圧倒的な「当然」をまとった足取りで。
書類を抱えた先生が、目もくれずに目前を横切っていく。
わたしは反射的に壁際へへばりつく。
「っ……!」
先生は平然と通り過ぎていく。
なんなら忙しなく歩いてきた別の先生の抱えたバインダーが、避ける間もなく肩にゴツンと当たったほどだ。
「あ、すみません」
反射的に口から突き出た言葉が、空中で行き場を失う。
先生はバインダーが突然動いたことに顔をきょとんとさせるばかりで、目の前にいるわたしのことを認知もしていなかったからだ。
無視しているのではない。
見えていない。
職員室にいる先生たち、誰ひとりにも、わたしと先輩は見えていないのだ。
「理解できたか? 僕たちは世界の『圏外』にいるということが」
先輩は廊下のど真ん中を歩き、忙しそうに電話へ手を伸ばす教頭の頭上で、悠然とピースサインを作ってみせた。
教頭の視線は、先輩の手を透かして、その向こうにある壁の予定表を冷たく射抜いている。
「これって……」
「君はレイヤーという言葉がわかるか?」
「絵とか写真のアプリでなら」
「僕たちは、世界というレイヤーから弾き出されることで、別のレイヤーに飛び出した、例外存在《イレギュラー》なのさ」
わたしは近くの机に手を置いた。指先が、机の冷たい表面を確かに感じる。触れているのに、触れていないことになる世界。
「こっちからは先生たちが見えるけれど、先生たちからはこっちが見えない」
「その通り。世界から爪弾きにされたぼっちのみに許された孤高能力。その名も……」
先輩は言葉を切り、自分の指先を宙でくるりと回した。
「あ、ぜんぜん考えてなかった」
先輩もよく分かってないことは分かった。
「そう呆れるなよ。僕はぼっち先輩なんだ。ぼっちで先輩。つまり話し相手が絶望的なまでにいないんだ。自分ひとりで納得してれば良かったから、名前なんか必要なかったんだよ」
「もういいです。わたしまで悲しくなります」
「せっかくだし、ちゃんとした名前をつけようじゃないか。……そうだな、圧倒的に強大な世界に対し、ひとりで立ち続ける力、すなわちスタン……!」
「聞かなかったことにしてあげますね」
「悪かったよ。僕が悪かったよ」
漫画の話はできそうだということは分かった。
「まあ、ネーミングはさておき、世界から無視されることで、無視され能力に目覚めたってことだな」
「虫刺されみたいな言い方もどうかと……」
「押し付けられた『孤独』はつまらんが、自分から発動させる『孤独』は楽しいとは思わんか?」
そうかも。
腑に落ちる感覚があった。
クラスで無視されるのは、あんなに辛かったのに。
今のこの状況は、むしろ心が軽い。
透明人間になったみたいで、少しだけワクワクしている自分がいる。
「……そう、ですね。不思議と、嫌な感じがしないんです」
「だろう? 主導権を握るというのはそういうことだ」
「無視されるのは同じなのに。今のほうが、ずっと楽で……。なんだか、映画の背景に紛れ込んだみたいで、少しだけ世界が軽くなった気がします」
「至言だな。他人の目という重力から解放されて、君は自由になったんだ」
たしかに……。
他人の目を気にしないでいいことが、こんなに心をワクワクさせるなんて。
「自ら踏み込んだ『静寂』は翼になる。同じ『独り』でも、月とスッポン……いや、地球と宇宙ほどの差がある」
先輩は足を止めずに、淀みなく言葉を紡ぐ。
「干渉されない。監視されない。束縛されない。これこそが、社会契約から解脱した個人の究極の権利……『プロのぼっち』だけが享受できる至福の果実だ」
先輩を見上げる。
その横顔は、驚くほど涼しげだった。
先輩は、寂しいから一人でいるのではない。
安っぽい連帯感の中に、自分の純度を混ぜるのを嫌っているのだ。
(本当に、プロのぼっちだ)
尊敬という名の、危うい熱が芽生えかけた。
その直後。
先輩は迷わず教頭のデスクへ向かうと、そこにあった贈答用らしい桐箱へ迷いなく手を伸ばした。
躊躇することなく、その重厚な蓋を開け放つ。
中には、蜂蜜を塗りたくったような黄金色のカステラが、一分の隙もなく鎮座していた。
そのカステラを。
「なにしてるんですか! 泥棒じゃないですか!」
食べた。
「泥棒? 言葉の選択を間違えてもらっては困るな。教頭の教育方針はカビているが、選ぶ菓子の糖度は一流だ。これは文明開化の蜜の味がするぞ」
「やっぱり泥棒じゃないですかっ!」
(前言撤回! ただの悪い人だ、この人!)
芽生えかけた尊敬を即座に引きちぎり、心の中のゴミ箱へと叩き落とした。
先輩はその場で、一切れを豪快に指で引きちぎり、口に放り込む。
濃厚な卵の香りと、ねっとりとした甘い匂いが、無味乾燥な職員室に暴力的な調和を乱して漂った。
不思議な光景だった。
引きちぎられたカステラの断面は一瞬にして歪み、最初から「欠けた形」でそこにあったかのように、世界の解像度が書き換えられる。
「圏外にいても重力は消えないし、物体を持てば物体も動く。ただ『誰がやったか』が認知されないだけだ。自然現象として処理される」
誰も「カステラが減った」というエラーに気づかない。
「食うか?」
先輩はもう一切れを、ポケットから取り出したティッシュに包み、無理やりに押し付けてきた。
桐箱から奪われたばかりの、カステラの重量感。
指先に伝わる、しっとりとした油分と、砂糖の感触。
「共犯者になる気が起きたら、燃料として摂取するがいい。高カロリーこそが、重力から逃げ切るための第一宇宙速度を保証する」
「食べませんよ」
拒絶を無視して、先輩は歩き出した。
「伝説の勇者の上履きを探しに戻ろう」
口元のザラメを指で拭い、そんなことを言う。
わたしの手のひらには、行き場を失ったカステラのつつみだけが残った。
嫌だからといって、食べ物を粗末にすることできないのが、わたしという人間だ。
「待ってください、先輩っ」
あとを追う。
いや、本当は。
この奇妙な共犯関係の証を、手放すのが少しだけ惜しかったからかもしれない。
先輩が次に向かったのは、職員室だった。
引き戸の隙間から、電話のベル、コピー機の無機質な駆動音、教師たちの抑揚を欠いた話し声が漏れ出てくる。
わたしは反射的に足を止めた。
今は授業中だ。
誰の許可もないのに私たちが。
「あ、あの……。職員室ですよ、ここ」
「なんの問題がある?」
「問題がないと考える先輩が問題ですよ」
先輩は唇に、白く細い指を当てた。
悪戯っぽく、それでいてこの世のすべてに飽き飽きしているような、不思議な笑みを湛えている。
そして、重いアルミの引き戸を、儀式のような無造作さで横に引いた。
ガララララッ、と、建付けの悪い戸車が断末魔のような悲鳴を上げた。
怒られる!
心臓が跳ね、肋骨の裏側を激しく打つ。
終わったという確信が、冷たい汗となって背中を伝う。
脳が、叱責と軽蔑に満ちた教師たちの視線を予感して、防御姿勢をとる。
しかし。
「…………」
爆発のような沈黙。
誰も、こちらを見ない。
受話器を耳に押し当てたままの教頭。
ディスプレイの青白い光に顔を照らされている学年主任。
入口付近でプリントを揃えていた体育教師さえ、指先ひとつ動かしてこちらを振り向こうとはしない。
……どういうこと?
クラスメイトたちによる無視ではない。
明らかに気づいていない。
わたしと先輩という乱入者に、誰ひとり、気づいていない。
「避け方にもコツがある」
先輩は堂々と歩き出していく。
自分の部屋へ帰ってきたかのような、圧倒的な「当然」をまとった足取りで。
書類を抱えた先生が、目もくれずに目前を横切っていく。
わたしは反射的に壁際へへばりつく。
「っ……!」
先生は平然と通り過ぎていく。
なんなら忙しなく歩いてきた別の先生の抱えたバインダーが、避ける間もなく肩にゴツンと当たったほどだ。
「あ、すみません」
反射的に口から突き出た言葉が、空中で行き場を失う。
先生はバインダーが突然動いたことに顔をきょとんとさせるばかりで、目の前にいるわたしのことを認知もしていなかったからだ。
無視しているのではない。
見えていない。
職員室にいる先生たち、誰ひとりにも、わたしと先輩は見えていないのだ。
「理解できたか? 僕たちは世界の『圏外』にいるということが」
先輩は廊下のど真ん中を歩き、忙しそうに電話へ手を伸ばす教頭の頭上で、悠然とピースサインを作ってみせた。
教頭の視線は、先輩の手を透かして、その向こうにある壁の予定表を冷たく射抜いている。
「これって……」
「君はレイヤーという言葉がわかるか?」
「絵とか写真のアプリでなら」
「僕たちは、世界というレイヤーから弾き出されることで、別のレイヤーに飛び出した、例外存在《イレギュラー》なのさ」
わたしは近くの机に手を置いた。指先が、机の冷たい表面を確かに感じる。触れているのに、触れていないことになる世界。
「こっちからは先生たちが見えるけれど、先生たちからはこっちが見えない」
「その通り。世界から爪弾きにされたぼっちのみに許された孤高能力。その名も……」
先輩は言葉を切り、自分の指先を宙でくるりと回した。
「あ、ぜんぜん考えてなかった」
先輩もよく分かってないことは分かった。
「そう呆れるなよ。僕はぼっち先輩なんだ。ぼっちで先輩。つまり話し相手が絶望的なまでにいないんだ。自分ひとりで納得してれば良かったから、名前なんか必要なかったんだよ」
「もういいです。わたしまで悲しくなります」
「せっかくだし、ちゃんとした名前をつけようじゃないか。……そうだな、圧倒的に強大な世界に対し、ひとりで立ち続ける力、すなわちスタン……!」
「聞かなかったことにしてあげますね」
「悪かったよ。僕が悪かったよ」
漫画の話はできそうだということは分かった。
「まあ、ネーミングはさておき、世界から無視されることで、無視され能力に目覚めたってことだな」
「虫刺されみたいな言い方もどうかと……」
「押し付けられた『孤独』はつまらんが、自分から発動させる『孤独』は楽しいとは思わんか?」
そうかも。
腑に落ちる感覚があった。
クラスで無視されるのは、あんなに辛かったのに。
今のこの状況は、むしろ心が軽い。
透明人間になったみたいで、少しだけワクワクしている自分がいる。
「……そう、ですね。不思議と、嫌な感じがしないんです」
「だろう? 主導権を握るというのはそういうことだ」
「無視されるのは同じなのに。今のほうが、ずっと楽で……。なんだか、映画の背景に紛れ込んだみたいで、少しだけ世界が軽くなった気がします」
「至言だな。他人の目という重力から解放されて、君は自由になったんだ」
たしかに……。
他人の目を気にしないでいいことが、こんなに心をワクワクさせるなんて。
「自ら踏み込んだ『静寂』は翼になる。同じ『独り』でも、月とスッポン……いや、地球と宇宙ほどの差がある」
先輩は足を止めずに、淀みなく言葉を紡ぐ。
「干渉されない。監視されない。束縛されない。これこそが、社会契約から解脱した個人の究極の権利……『プロのぼっち』だけが享受できる至福の果実だ」
先輩を見上げる。
その横顔は、驚くほど涼しげだった。
先輩は、寂しいから一人でいるのではない。
安っぽい連帯感の中に、自分の純度を混ぜるのを嫌っているのだ。
(本当に、プロのぼっちだ)
尊敬という名の、危うい熱が芽生えかけた。
その直後。
先輩は迷わず教頭のデスクへ向かうと、そこにあった贈答用らしい桐箱へ迷いなく手を伸ばした。
躊躇することなく、その重厚な蓋を開け放つ。
中には、蜂蜜を塗りたくったような黄金色のカステラが、一分の隙もなく鎮座していた。
そのカステラを。
「なにしてるんですか! 泥棒じゃないですか!」
食べた。
「泥棒? 言葉の選択を間違えてもらっては困るな。教頭の教育方針はカビているが、選ぶ菓子の糖度は一流だ。これは文明開化の蜜の味がするぞ」
「やっぱり泥棒じゃないですかっ!」
(前言撤回! ただの悪い人だ、この人!)
芽生えかけた尊敬を即座に引きちぎり、心の中のゴミ箱へと叩き落とした。
先輩はその場で、一切れを豪快に指で引きちぎり、口に放り込む。
濃厚な卵の香りと、ねっとりとした甘い匂いが、無味乾燥な職員室に暴力的な調和を乱して漂った。
不思議な光景だった。
引きちぎられたカステラの断面は一瞬にして歪み、最初から「欠けた形」でそこにあったかのように、世界の解像度が書き換えられる。
「圏外にいても重力は消えないし、物体を持てば物体も動く。ただ『誰がやったか』が認知されないだけだ。自然現象として処理される」
誰も「カステラが減った」というエラーに気づかない。
「食うか?」
先輩はもう一切れを、ポケットから取り出したティッシュに包み、無理やりに押し付けてきた。
桐箱から奪われたばかりの、カステラの重量感。
指先に伝わる、しっとりとした油分と、砂糖の感触。
「共犯者になる気が起きたら、燃料として摂取するがいい。高カロリーこそが、重力から逃げ切るための第一宇宙速度を保証する」
「食べませんよ」
拒絶を無視して、先輩は歩き出した。
「伝説の勇者の上履きを探しに戻ろう」
口元のザラメを指で拭い、そんなことを言う。
わたしの手のひらには、行き場を失ったカステラのつつみだけが残った。
嫌だからといって、食べ物を粗末にすることできないのが、わたしという人間だ。
「待ってください、先輩っ」
あとを追う。
いや、本当は。
この奇妙な共犯関係の証を、手放すのが少しだけ惜しかったからかもしれない。
