先輩を追いかけたのは、ここがよく分からない場所だから、というのもある。
現実のようで、現実でない。
先輩を見失えば、二度とこの世に戻れない。
そんな気がしたからだ。
昇降口は、授業中特有の静けさに満ちていた。
埃の粒子が、窓から差し込む曇天下の鈍い光の中を、ゆっくりと舞っていた。
先輩は迷わず来客用の下駄箱を開け、中から薄いビニール製のスリッパを取り出した。
「ほら、受け取れ」
放り投げられたのは、鮮やかな空色のスリッパだった。
トイレのスリッパのような、安っぽいビニール製。どこにでもある、誰のものでもない履物。
「飛び降りる気がないんなら、さっさとそれを履くんだな。裸足は僕が落ち着かない。君の足がふやけていく想像をするだけで、僕の体温まで奪われる気がする」
口は悪いけど、優しい人なのかも。
そんな気がした。
ひんやりとしたビニールの感触が、足の裏に張り付く。
サイズが合わず、少し大きかった。
パタ、パタ。
歩いてみると、間の抜けた音が廊下に響いた。
情けない音だ。
けれど「人間」を取り戻せた気持ちになる。
自分だけ裸足は、最低にみじめだ。
「では、上履き探索《クエスト》を始めるとしよう」
先輩は勝手に歩き出し、いくつかの教室を飛ばした後、おもむろに物理準備室の扉を開けた。
室内は薬品と埃、そしてカビた木材の匂いが充満していた。
部屋の隅に立つ人体模型を見て、先輩は親しげにその肩を叩く。
「よう、田中。今日も姿勢がいいな。脊椎のラインが実に美しい」
(……この人、実はアブない人?)
人体模型に話しかけている。
しかもこの馴れ馴れしさ。初対面じゃない。
この人は「宇宙の管理人」などではなく、ただの頭のおかしい人なのではないか。
判断力が、警鐘を鳴らした。
「あの……、ここに上履きは、ないですよね?」
「ないな。田中の証言によれば、誰も来ていないそうだ。彼は嘘をつかない。骨と筋肉だけの、実直な男だからな」
「はぁ」
正直でありたい気持ちが、ため息となってこぼれる。
「次だ」
わたしの態度など、先輩はまったく気にしていなかった。
廊下に出る。
先輩は腹をさすりながら呟いた。
「腹減ったな」
「幽霊なのに!?」
「あれは比喩だ、例え話だ。君の言語野は字義通りにしか機能しないのか?」
(本当に、わけわかんない人だ……)
先輩の背中を見つめる。
黒い詰襟。背筋がピンと伸びていて、隙がない。
言ってることはメチャクチャなのに、筋が通っているのかもと勘違いさせる貫禄がある。
怖いけど、優しい。
支離滅裂でめちゃくちゃだ。
けど。
屋上で、空を見て、もう終わりにしたいと思っていた心が、今は先輩の奇行を前にして、呆れることに忙殺されている。
それが、少しだけ、楽だった。
