放課後、ボクらは無重力。

***

屋上には誰もいなかったはず。

「ひゃあっ!?」

肺に残っていた空気が、喉を引きつらせて漏れた。
振り返る。
フェンスのすぐ脇。
錆び付いた給水塔の上に、影そのもののような黒い塊があった。

見覚えのない男子だった。
うちの学校の制服じゃない。いつの時代の学ランだろう。
古風な黒の詰襟。
金ボタンは光沢を失って、くすんだ真鍮色をしている。
膝の上には分厚い文庫本。茶色くなったページから、古紙の匂いが漂ってきそうなほどに。
全体の印象は「この場所に最初から生えていた影」だった。雨に濡れたスチールの上に座っているのに、不快そうな素振りすらない。

「死ぬのは君の自由だが、下にいる人の迷惑を考えたほうがいい。礼儀正しい飛び降り作法とは、右を見て、左を見て、下を見て、もう一度下を見て、誰もいないことを確かめてからのフライハイだ」
「ちっ……、違いま!」
「違う? 裸足なのにか?」
「こ、これは……、その……」

言い訳が、喉の奥で粘りつく。
いじめられているなんて、言えない。
口が裂けても言いたくない。
そんな惨めな告白をするくらいなら、舌を噛み切った方がマシだ。

彼は文庫本をパタンと閉じると、ゆらりと立ち上がった。

無意識に半歩下がる。
濡れた靴下が、ジュッと嫌な音を立てた。

顔が近づく。
深いクマのある、色素の薄い瞳。
濃い琥珀色。
感情の温度が読み取れない。不思議な目をしていた。

「あなたは……? いつから……?」
「僕は前からここにいた。君が来る……、君が入学してくるずっと前から、ここにいた」
「えっ? えっ?」

思考がショートする。
入学する前から?
留年生?
それとも、不審者?

「君が僕のセカイに来たんだ」
「????」
「君は世界から排除されて、僕のセカイに来た」
「????????」
「理解が遅いな。君は認識の境界線を踏み越えたんだと言っている。世界が君を『いないもの』として排除した瞬間、君は僕のいるセカイ……この空白の座標へと滑り落ちたんだよ」
「????????????」

説明されるほどに意味がわからなくなる。
彼は呆れたように肩をすくめた。

「やれやれ、これだけ丁寧に説明しても分かってもらえないとは」
「わたしのせいなんですかっ?」

理不尽だ。
わけのわからない理屈で、勝手に幽霊に認定されている。
抗議したいけれど、言葉が見つからない。
ただ、唇がわなないて、情けない音を漏らすだけだ。

「端的に言おう。幽霊になったんだ、君は」
「死んでませんっ、わたしっ」
「いるのにいないものとして扱われる。幽霊と何が違うんだ?」
「…………!」

心臓を直撃するような一言。
言葉が出なくなる。
胃のあたりが、急激に冷たくなって、まるで氷水を直接流し込まれたみたいに、おなかが痛くなる。

「ふむ、図星か。まあ、僕が見えるからには、それなりにヘビーな事情があったんだろうが……。因果は巡り、君はここにいる」

淡々とした口調。
同情も、憐憫もない。ただの事実確認のような。

「あ、あなたは……?」
「僕はこの『宇宙』の管理人だ。重苦しい世界から、理不尽に弾き飛ばされてきた者たちの救済者……と言いたいところだが、ただの隠遁者だよ。世捨て人と言い換えてもいい」
「う、宇宙ぅ……???」

混乱で、こめかみが痛む。
この人は、いったい、何なのだろう。

少年はふいに空を仰いだ。
彼の視線は、分厚い鉛色の雲を突き抜けて、もっと遠くの、大気圏の外側にある何かを見ているようだった。

「君はいつまで裸足でいるつもり?」

視線が落ちてくる。
汚れた白い靴下へ。
泥水を吸って、灰色に変色した足先へ。

「え……?」
「ここは無重力だが、床は冷たい。熱力学の法則は生きている。見ていて痛々しい、君のその足は」

言い捨てると、彼はくるりと背を向けた。

「ついて来い。上履きの代わりになるものを手に入れよう」
「えっ? あ、はいっ」

有無を言わせぬ圧力。
断ったら、このまま本当に世界から消滅してしまいそうな恐怖に駆られ、慌てて足を動かす。

「わたしは一年の、水瀬です……。あなたは……」

消え入りそうな声。
震える声で自己紹介を、彼は手のひらで制す。
振り返りもしない。

「名前なんて必要ない。僕と君しかいないんだ、この宇宙(レイヤー)には」
「知りたいんですっ」
「僕は君に興味なんてないけど」
「うーっ」

拒絶といえば拒絶。
けれど、不思議と痛みはなかった。
「興味がない」と言いながらも、彼はわたしを「無視」していない。
ちゃんと認識して、会話をしてくれている。
その事実が、なくなりそうだった心に、微かな熱を灯した。

「もったいぶるような名前でもないから名乗るとしよう。僕は墓場零(はかばに・れい)。お墓の『墓』に場所の『場』だ。不吉だろう?」
「はかば? 墓地のことですか?」
「そうだ。墓地でひとりぼっち。『ぼっち先輩』とでも呼ぶがいいさ」
「ふふっ」

思わず唯は吹き出した。

「ぼっちの先輩だなんて、それ、自分で言うんですか?」
「心外だな。孤独とは『欠落』ではない、自分と向き合うための高貴な時間だ」

(……高貴?)

意味がわからない。
だって「ぼっち」は恥ずかしいことだから。
誰とも繋がれない、価値のない人間の烙印だ。
それを、この人は高貴といった。

「群れることでしか自己を確立できない弱者ほど、他人の孤独を笑う。だが、それは鏡を見ているに過ぎない。彼らは『一人になること』を恐れているだけだ。自分の空虚な中身と向き合うのが怖いから、他人の体温で誤魔化している」
「……」

すごい、と思った。
この人は本気で、そう思ってる。
負け惜しみでも、強がりでもない。
まるで王様のように、孤独を孤高のものとして受け止めているのだ。

「君のような『ぼっち素人』には、まだこの矜持がわからないだろうが。孤独を愛してこそ、真の自由人と言える」
「先輩は、プロのぼっちなんですね」
「敬意を忘れるな」

褒め言葉として受け取ったのか、ぼっち先輩はそう言うと、迷いのない足取りで階段を降りていった。
自分でもよく分からないんだけれど、一瞬。
ほんの一瞬。
かっこいいな、と思ってしまった。

***