休み時間になった。
喧騒の中で、今日いちばんの勇気を振り絞った。
喉の奥が張り付いて、うまく声が出ない。
それでも、乾いた唇を無理やり引き剥がす。
「あの……今日の体育、グラウンド……だよね?」
すぐ横にいた女子に、声をかけた。
彼女はスマホの画面をタップする指を止めなかった。
視線すら動かさない。
ただ、隣の友人に話しかける。
「昨日みた? アレ」
「みたみた、ウケるよねー」
むしだ。
わたしの声は、間違いなく彼女の鼓膜を叩いたはずだ。
一瞬、彼女の首筋の筋肉がピクリと強張った。
聞こえている。
けれど、彼女はわたしの声を聞こえなかったことにした。
***
次は体育だった。
ロッカーを開けると、あるものがなかった。
体操服が。
昨日、洗濯してアイロンまでかけて持ってきた、体操着の上下。
それが、どこにもない。
あるのは、冷たいスチール棚の底だけ。
「あの……、誰か見ませんでしたか? わたしの体操着……」
震える声で尋ねた。
何の返事もなかった。
クラスメイトたちはわたしなんていないものとして扱い、談笑しながら教室移動を始めていく。
ニヤニヤと笑いながら。
知っているのだ。
誰が隠したのかも。どこにやったのかも。みんな、知っているのだ。
「お願いします、返してください……っ」
訴える。
無視される恐怖をこらえて、勇気の限りに叫んでも、誰の心も揺らさない。
「早く行こーぜー」
「あ、てかコート取ってきてくんね?」
横を通り過ぎる背中たちが、拒絶の壁となってわたしを弾き飛ばしていく。
よろめいたわたしの前に蜂屋《はちや》さんが。
蜂屋さんはゆるく巻いた髪を指でいじりながら、顔だけをわたしに向けた。
唇の端を、三日月みたいに歪めて。
「裸でやればぁ」
甘ったるくて、毒のある声。
その一言だけを残して、教室を出て行った。
直後、廊下から、爆発するような笑い声が聞こえてきた。
「見た? バイキン、顔真っ赤にしてたし!」
「ウケるー。てか、誰があんなやつの裸なんか見るかってーの」
「目ェ腐るわ(笑)」
遠ざかる足音。
笑い声の残響。
一歩も動けなくなった。
恥ずかしさと、悔しさと、どうしようもない惨めさで、足の裏が床に溶接されたみたいに動かない。
上履きもない。体操着もない。
教室を出ることすらできない。
ガランとした更衣室。
そこには、39人の人間が残していった微かな体温と、甘ったるい匂いが充満していた。
制汗剤の人工的なシトラス。
窓から差し込む陽光に踊る埃。
わずかな汗の匂い。
それら全てが混じり合った「青春の空気」が、ここにいてはいけない異物である唯の肺を、内側から焼き尽くそうとしていた。
ドクン、ドクン。
心臓が不規則に跳ねる。肋骨を内側からハンマーで殴られているみたいだ。
息を吸い込もうとしても、空気がゼリー状に固まってしまったかのように喉を通らない。
(……息が、できない)
立っていることさえ、もう限界だった。
重力が何倍にもなったかのように、体が冷たい床へと引きずり込まれていく。
鼻腔に張り付く制汗剤の香りが、致死性の毒ガスのように思えてくる。
彼女たちにとっては「清潔」で「良い匂い」なのだろうそれが、唯にとっては、「お前は仲間外れだ」と宣告する死刑執行の合図だった。
ふらふらと、足がよろめいた。
上履きのない足で、冷たいリノリウムの床を叩く。
廊下から、階段へ、上の階へ。
階段を一段昇るごとに、階下の喧騒が遠ざかっていく。
そのために上に向かっているのか、自分がどこに行こうとしているのか、何から逃げようとしているのか、分からない。
行き止まりにドアがあった。
屋上のドアだ。錆び付いたノブを回す。
重たい扉を押し開けると、冷気をたっぷりと孕んだ風が頬を叩いた。
誰もいない。
雨は上がっていた。
けれど、空はまだ分厚い鉛色の雲に覆われている。
コンクリートの床は濡れて黒く沈み、あちこちに水溜まりを作っていた。
濡れた靴下が、水捌けの悪い床を湿った音を立てて踏みしめる。
誘われるように外周の手すりまで歩いていた。
細い指をかける。
スチールは雨に濡れてに冷たくて、指先の熱を容赦なく奪っていく。
曇天の空を見上げる。
雨上がりの湿気を含んだ空気が、涙の代わりに唯の頬を濡らした。
「……消えちゃいたいな、本当に」
その呟きは、誰の耳にも届くことなく、重力に引かれて地表へと落ちていった。
誰にも拾われることのない、透明な雫となって。
「飛び降りるのか?」
男の人の声だった。
