放課後、ボクらは無重力。

***

東の空が、じわじわと白みだす。

ボートを桟橋に戻す頃には、月は薄くなり始めていた。
ロープを結び直す先輩の手つきは、慣れていた。この場所を知っている人の手つきだった。

桟橋に上がる。
コンクリートの地面が、水面から降りるとやけに重たく感じた。
空の端が、深い藍色からほんの少しだけ、灰色がかった青に変わっている。

夜が、終わろうとしている。

「……先輩」

立ち止まった。
口を開こうとして、言葉が見つからなかった。

楽しかった、と言うのは違う気がした。
ありがとうも、なんだかこの夜には似合わない。

先輩はこちらを振り返らなかった。
ポケットに手を突っ込んだまま、東の空を見ている。

「缶コーヒーを、やけに飲んでましたね。先輩」

言いたかったのは、そんなことじゃない。
でも、口から出たのはそれだった。

「カフェインは人類最良の発明だ。異論は認めない」
「わたし、ココアの方が好きです」
「甘党か。まあ、君らしい」

沈黙。

先輩が背を向けた。

「じゃあな。僕はこれから偵察任務の続きがある」

歩き出す。
何事もなかったかのように。
一晩中一緒にいたのに、別れの言葉はそれだけだった。

「あ……、待ってください」

先輩は振り返らなかった。
でも、足が止まった。

「また、会えますか?」

声が、かすかに震えた。

先輩は半歩振り向いた。

「そのコンビニは僕の補給拠点だと言っただろう。物資は定期的に必要になる」

それだけ言って、先輩は朝の薄明の中へ歩き去っていった。
手を振ることもなく。
背中はどこか自慢げで、そしてやっぱり少し寂しそうだった。

わたしはひとり、残された。

ポケットに手を入れる。
指先に、冷たい金属の感触が触れた。

ココアのプルタブだった。
いつの間にか、最後の缶のプルタブを千切ってポケットに入れていたらしい。
自分でも気づかないうちに。

小さなアルミの欠片。
ただの缶のパーツ。ゴミと言えばゴミだ。

でも。

指先で触れると、一晩分の記憶が、一気に指の中に流れ込んできた。
ココアの甘さ。コインランドリーの温もり。車道の真ん中を歩いた風の感触。サラリーマンの笑顔。水面に映った月。
わたしの指先が、ぬいぐるみを押した感触。

握りしめた。

歩き出す。
家の方へ。

足取りは、まだ重い。
あのドアを開ければ、また怒号が飛んでくるかもしれない。
「あんたさえいなければ」という呪いが、台所の空気の中に溜まっているかもしれない。

でも。

ポケットの中で、プルタブを握った。

わたしには、逃げ場所がある。
あのコンビニに行けば、先輩がいる。
深夜の街に出れば、誰の目にも留まらない透明な時間がある。
そう思えるだけで、重力が少しだけ軽くなった。

パタ……パタ……パタ……

サンダルの底が、朝のアスファルトを叩く。
あの情けない足音が、また鳴っている。
でも、昨日の夜に家を飛び出したときとは、どこかが違う。

自分で選んで、帰るのだ。

家の前で立ち止まる。
白い壁に、薄茶のドア。カビのシミ。何の変哲もない一軒家。
さっき飛び出したときと、何も変わっていない。
変わったのは、わたしの方だ。

ドアノブに手をかける。

「……ただいま」

小さく呟いた。
その声は、昨夜よりほんの少しだけ、力がこもっていた。

ポケットの中のプルタブが、指の形に温まっている。
月のかけらみたいに、小さくて、冷たくて、でも確かに、そこにあった。





放課後、僕らは無重力。
つづく。