***
東の空が、じわじわと白みだす。
ボートを桟橋に戻す頃には、月は薄くなり始めていた。
ロープを結び直す先輩の手つきは、慣れていた。この場所を知っている人の手つきだった。
桟橋に上がる。
コンクリートの地面が、水面から降りるとやけに重たく感じた。
空の端が、深い藍色からほんの少しだけ、灰色がかった青に変わっている。
夜が、終わろうとしている。
「……先輩」
立ち止まった。
口を開こうとして、言葉が見つからなかった。
楽しかった、と言うのは違う気がした。
ありがとうも、なんだかこの夜には似合わない。
先輩はこちらを振り返らなかった。
ポケットに手を突っ込んだまま、東の空を見ている。
「缶コーヒーを、やけに飲んでましたね。先輩」
言いたかったのは、そんなことじゃない。
でも、口から出たのはそれだった。
「カフェインは人類最良の発明だ。異論は認めない」
「わたし、ココアの方が好きです」
「甘党か。まあ、君らしい」
沈黙。
先輩が背を向けた。
「じゃあな。僕はこれから偵察任務の続きがある」
歩き出す。
何事もなかったかのように。
一晩中一緒にいたのに、別れの言葉はそれだけだった。
「あ……、待ってください」
先輩は振り返らなかった。
でも、足が止まった。
「また、会えますか?」
声が、かすかに震えた。
先輩は半歩振り向いた。
「そのコンビニは僕の補給拠点だと言っただろう。物資は定期的に必要になる」
それだけ言って、先輩は朝の薄明の中へ歩き去っていった。
手を振ることもなく。
背中はどこか自慢げで、そしてやっぱり少し寂しそうだった。
わたしはひとり、残された。
ポケットに手を入れる。
指先に、冷たい金属の感触が触れた。
ココアのプルタブだった。
いつの間にか、最後の缶のプルタブを千切ってポケットに入れていたらしい。
自分でも気づかないうちに。
小さなアルミの欠片。
ただの缶のパーツ。ゴミと言えばゴミだ。
でも。
指先で触れると、一晩分の記憶が、一気に指の中に流れ込んできた。
ココアの甘さ。コインランドリーの温もり。車道の真ん中を歩いた風の感触。サラリーマンの笑顔。水面に映った月。
わたしの指先が、ぬいぐるみを押した感触。
握りしめた。
歩き出す。
家の方へ。
足取りは、まだ重い。
あのドアを開ければ、また怒号が飛んでくるかもしれない。
「あんたさえいなければ」という呪いが、台所の空気の中に溜まっているかもしれない。
でも。
ポケットの中で、プルタブを握った。
わたしには、逃げ場所がある。
あのコンビニに行けば、先輩がいる。
深夜の街に出れば、誰の目にも留まらない透明な時間がある。
そう思えるだけで、重力が少しだけ軽くなった。
パタ……パタ……パタ……
サンダルの底が、朝のアスファルトを叩く。
あの情けない足音が、また鳴っている。
でも、昨日の夜に家を飛び出したときとは、どこかが違う。
自分で選んで、帰るのだ。
家の前で立ち止まる。
白い壁に、薄茶のドア。カビのシミ。何の変哲もない一軒家。
さっき飛び出したときと、何も変わっていない。
変わったのは、わたしの方だ。
ドアノブに手をかける。
「……ただいま」
小さく呟いた。
その声は、昨夜よりほんの少しだけ、力がこもっていた。
ポケットの中のプルタブが、指の形に温まっている。
月のかけらみたいに、小さくて、冷たくて、でも確かに、そこにあった。
放課後、僕らは無重力。
つづく。
東の空が、じわじわと白みだす。
ボートを桟橋に戻す頃には、月は薄くなり始めていた。
ロープを結び直す先輩の手つきは、慣れていた。この場所を知っている人の手つきだった。
桟橋に上がる。
コンクリートの地面が、水面から降りるとやけに重たく感じた。
空の端が、深い藍色からほんの少しだけ、灰色がかった青に変わっている。
夜が、終わろうとしている。
「……先輩」
立ち止まった。
口を開こうとして、言葉が見つからなかった。
楽しかった、と言うのは違う気がした。
ありがとうも、なんだかこの夜には似合わない。
先輩はこちらを振り返らなかった。
ポケットに手を突っ込んだまま、東の空を見ている。
「缶コーヒーを、やけに飲んでましたね。先輩」
言いたかったのは、そんなことじゃない。
でも、口から出たのはそれだった。
「カフェインは人類最良の発明だ。異論は認めない」
「わたし、ココアの方が好きです」
「甘党か。まあ、君らしい」
沈黙。
先輩が背を向けた。
「じゃあな。僕はこれから偵察任務の続きがある」
歩き出す。
何事もなかったかのように。
一晩中一緒にいたのに、別れの言葉はそれだけだった。
「あ……、待ってください」
先輩は振り返らなかった。
でも、足が止まった。
「また、会えますか?」
声が、かすかに震えた。
先輩は半歩振り向いた。
「そのコンビニは僕の補給拠点だと言っただろう。物資は定期的に必要になる」
それだけ言って、先輩は朝の薄明の中へ歩き去っていった。
手を振ることもなく。
背中はどこか自慢げで、そしてやっぱり少し寂しそうだった。
わたしはひとり、残された。
ポケットに手を入れる。
指先に、冷たい金属の感触が触れた。
ココアのプルタブだった。
いつの間にか、最後の缶のプルタブを千切ってポケットに入れていたらしい。
自分でも気づかないうちに。
小さなアルミの欠片。
ただの缶のパーツ。ゴミと言えばゴミだ。
でも。
指先で触れると、一晩分の記憶が、一気に指の中に流れ込んできた。
ココアの甘さ。コインランドリーの温もり。車道の真ん中を歩いた風の感触。サラリーマンの笑顔。水面に映った月。
わたしの指先が、ぬいぐるみを押した感触。
握りしめた。
歩き出す。
家の方へ。
足取りは、まだ重い。
あのドアを開ければ、また怒号が飛んでくるかもしれない。
「あんたさえいなければ」という呪いが、台所の空気の中に溜まっているかもしれない。
でも。
ポケットの中で、プルタブを握った。
わたしには、逃げ場所がある。
あのコンビニに行けば、先輩がいる。
深夜の街に出れば、誰の目にも留まらない透明な時間がある。
そう思えるだけで、重力が少しだけ軽くなった。
パタ……パタ……パタ……
サンダルの底が、朝のアスファルトを叩く。
あの情けない足音が、また鳴っている。
でも、昨日の夜に家を飛び出したときとは、どこかが違う。
自分で選んで、帰るのだ。
家の前で立ち止まる。
白い壁に、薄茶のドア。カビのシミ。何の変哲もない一軒家。
さっき飛び出したときと、何も変わっていない。
変わったのは、わたしの方だ。
ドアノブに手をかける。
「……ただいま」
小さく呟いた。
その声は、昨夜よりほんの少しだけ、力がこもっていた。
ポケットの中のプルタブが、指の形に温まっている。
月のかけらみたいに、小さくて、冷たくて、でも確かに、そこにあった。
放課後、僕らは無重力。
つづく。
