放課後、ボクらは無重力。

コインランドリーを出ると、夜の空気がまた肌を刺した。

でも、さっきほど冷たくはなかった。
体の芯に、乾燥機の残り火みたいな温もりが溜まっていた。

先輩は迷いなく歩き始めた。
さっきまでのような漫然とした散歩ではなく、どこかへ向かう人間の足取りだった。

「……どこに行くんですか」
「寄りたい場所がある」

それだけ言って、先輩は説明しなかった。

公園に入った。
遊具のシルエットが、街灯の光に照らされて奇妙な影を落としている。ブランコの鎖が、風に揺れてきしむ音を立てていた。

池があった。

昼間はボート乗り場として営業しているらしい。チケット売り場の小屋は閉まっていて、料金表が剥がれかけた看板が立っている。
「1回30分 大人800円 小人400円」
夜の闇の中で、その数字だけがやけに現実的だった。

池の水面が、月明かりを受けて、黒いガラスのように光っている。

その水面に、白い影が浮かんでいた。

スワンボート。

係留ロープで桟橋に繋がれた、白鳥の形をしたペダルボート。三艘ほどが並んで、月の光の中で静かに揺れている。プラスチックの白い胴体は夜露に濡れて、ぬらりと鈍く光っていた。

どちらが乗ろうと言い出したのか、覚えていない。
おそらく、どちらでもない。

気がついたら、先輩がロープを解いていた。
わたしはそれを止めなかった。
二人で、白鳥の背中に乗り込んでいた。

座席のビニールが冷たかった。
お尻に夜露の湿り気が伝わる。
足元にペダルがある。
遊園地の自転車みたいな、プラスチックの簡素なペダル。

漕いだ。

キコ、キコ。

間の抜けた音が、夜の池に響いた。
スワンボートの水掻きが水面を叩いて、小さな波紋が広がっていく。

岸が離れていく。

水面は真っ黒だった。
底が見えない。その黒い水の上に、街灯の光が揺れている。オレンジ色の光の粒が、水面の波紋に合わせて伸びたり縮んだりしている。

見上げると、星があった。

街の明かりに紛れて薄い星空だったけれど、池の上には街灯がないから、ここからだけは少しだけ多く見えた。
月も見えた。欠けかけの月。楕円に近い白い光が、空のずいぶん高いところに浮かんでいる。

「……宇宙船みたいですね」

声が出ていた。
自分でも驚いた。そんなことを口にするつもりはなかったのに。

「宇宙だよ、ここは」

先輩が言った。

「僕らの」

二人しかいない池。
白鳥のボートが静かに滑っている。
キコ、キコ、という間の抜けた音だけが、水面の上を漂っていく。

「空の星――明るいのはすべて恒星だ」

先輩が空を見上げながら言った。

「みずから光る星。この宇宙で見えている星は、自力で輝ける存在だけだ」
「綺麗ですね」
「綺麗に見えるのは遠いからだ」

先輩の声には、いつものケレン味がなかった。
教室のどこにも馴染まない居丈高な口調ではなく、もっと静かな、夜の温度に溶け込むような声。

「近くで見れば灼熱地獄にすぎない。そして――見えている星はほんの一部で、宇宙のほとんどは暗い。光らない星。誰にも気づかれない星。そっちの方が圧倒的に多い」

ペダルが、キコ、と鳴った。

「星はバラバラに見えて、全部繋がっている。万有引力だ。太陽ですら銀河の重力に捕まって回っている。銀河も超銀河団に捕まっている。誰も自由じゃない。何かしらの重力に縛られている」
「……それって、救いのない話ですね」
「かもな」

沈黙。

ペダルの音だけが、水の上を滑っていく。
キコ。キコ。キコ。
それは心臓の鼓動のリズムに似ていた。

先輩は星を見上げたまま、何も言わなかった。
わたしも何も言えなかった。

でも、口が勝手に開いた。

星の話に背中を押されたのかもしれない。
コインランドリーの沈黙の安心感が、まだ体の中に残っていたのかもしれない。
あるいは、この池の上に二人きりだという事実が、懺悔室の暗がりに似ていたのかもしれない。

「……わたし、お母さんに言われたんです」

声が、自分のものとは思えないほど平坦だった。

「あんたさえいなければ、って」

水面が揺れた。
ボートの水掻きが止まったわけではない。
風が吹いたのだ。
小さな風。
月の光が水面で砕けて、無数の破片になった。

先輩は何も言わなかった。

「わたしがいるから、お父さんとお母さんはうまくいかないんだって。わたしのせいなんだって。――ずっと思ってました。そうなのかもって」

先輩は黙っていた。
口を挟まなかった。
相槌も打たなかった。
ただ、聞いていた。

「でも、どうしたらいいのか、わからないんです」

声が少しだけ震えた。

「家出したら家出したで、親を困らせるし。いてもいなくても迷惑をかけてる。……生まれてこなければよかったのかなって、何度も、何度も思います」

言ってしまった。
ずっと、誰にも言えなかったこと。

「死にたいわけじゃなくて、ただ、迷惑をかけているのが、嫌で」

ペダルが止まっていた。
いつの間にか、二人とも漕いでいなかった。
ボートは惰性で水面を滑っている。
ゆっくりと速度を落としながら、池の真ん中へ向かって漂っていく。

「早く大人になりたい。誰にも迷惑をかけない場所に行きたい。わたしを嫌がらない人のいる場所で暮らしたい……」

月を見上げた。

「幸せな宇宙に、移動したいです」

先輩は少し黙った。

静寂が、水面の上に降りてきた。
ボートのプラスチックの白い胴体が、かすかに揺れている。
どこかで蛙が一声だけ鳴いて、すぐに黙った。

「君のような記憶がない僕には、何を言っていいかわからないところはあるが……」

先輩は、慎重に、言葉を探るように、語り出した。
記憶がない、という言い回しが妙だったけれど、想像で語るには、今のわたしの傷は深すぎるということだろう。
先輩は、さっき自分が始めた星の話に、わたしの言葉を乗せた。

「……惑星は、太陽のかけらから生まれたものばかりじゃない」

先輩の声は、夜の水面に落ちる波紋のように静かだった。

「外の宇宙から飛んできて、太陽の重力に捕まったものもある。月だって、外から来て地球に捕まったという説もある。――つまり、すべての星が生まれた場所に縛られるとは限らないし、これから別の場所へ流れていくこともある」

水面の月が揺れた。

「さっき、救いがないと言ったな。全ての星が何かの重力に縛られていると」

先輩の目が、空から降りて、わたしを見た。
暗い池の上で、その瞳だけがかすかに光を湛えていた。

「――でも、地球は月と出会えた」

キコ、とペダルが鳴った。
先輩が一漕ぎだけ、踏んだのだ。

「月は自分では光れない。太陽の光を反射しているだけだ。でも、地球にとっては、夜に光をくれる存在だ。それだけで、地球と月は幸せなんじゃないかな」

それだけで。

その言葉が、胸の真ん中に落ちた。
石を水に投げ込んだみたいに、波紋が広がっていった。

「自分では光れなくても、誰かにとっての月になれる。それは『迷惑』とは呼ばない」

空を見上げた。

月が浮かんでいた。

欠けかけの、白い月。
それは、煌々と輝く太陽のようには光っていなかった。
自分の力で燃えているわけでもなかった。
ただ、太陽の光を受けて、静かに反射しているだけ。

でも。
でも、それは確かに光っていた。
夜の闇の中で、しっかりと、光っていた。

水面を見下ろした。
そこにも月があった。
黒い水の鏡に映った、もうひとつの月。
本物の月と同じ形で、同じ光で、でも触れようとすれば指先で壊れてしまうような、儚い光。

二つの月のあいだに、わたしたちがいた。

空の月と、水の月。
そのあいだで、白い鳥の形をしたボートが、漂っている。

「月が、とても綺麗ですね」

その言葉は、考えて出てきたものではなかった。
胸の奥から、息と一緒にこぼれ落ちたのだ。

先輩は何も答えなかった。

ペダルは、もう漕いでいない。
ボートは水面を滑っていくうちに、ゆっくりと速度を失い、池の真ん中で、静かに止まった。

水面の波紋が消えていく。
同心円が広がって、薄れて、やがて跡形もなく消える。
湖面が鏡になった。

空の月と、水の月。

二つの月のあいだで、白い鳥が眠るように浮かんでいる。