歩道橋を降りて、また歩いた。
コンクリートの階段を下るにつれて、地面が――現実が近づいてくる。
無意識に、スカートのポケットに手を突っ込んだ。
指先が、硬くて冷たい金属に触れた。
家の鍵だ。
その感触が、一瞬で指先から体温を奪った。
鍵。あそこに帰るための道具。あのドアを開けるための冷たい金属片。
――あんたさえいなければ。
脳裏に、母親の声が蘇る。
ポケットの中にある小さな「重力」が、無重力だった心を現実へと引きずり下ろそうとしている。
逃げてきたはずなのに。鍵を持っている限り、わたしはあの家に繋がれている。
ブルリ、と体が震えた。
風の冷たさじゃない。
体の芯から、水の底に沈んでいくような寒気だった。
急に、足元が暗く見えた。視界の端が黒く滲む。
歯の根が合わなくて、カチカチと鳴った。
「暖が要るな」
先輩がそう言って、足を止めた。
24時間営業のコインランドリー。
ガラス張りの店内に、蛍光灯の白い光が溢れている。
外から見ると、深夜の街に浮かんだ水槽みたいだった。
ドアを押す。
乾燥した空気が、顔に触れた。
洗剤の甘い匂い。柔軟剤の、少しだけ人工的な花の香り。
誰もいなかった。
洗濯機が六台、乾燥機が四台。壁際に並んでいる。
そのうちの乾燥機が一台だけ、回っていた。
誰かが夜中に放り込んでいった洗濯物。持ち主はどこかで眠っているのだろうか。
丸い窓の中で、衣類がぐるぐると回転していた。
赤い服。青い服。黄色い服。緑の靴下。白いタオル。
極彩色のかたまりが、万華鏡みたいに混ざり合い、離れ、また混ざる。
先輩は乾燥機の前の床に、あぐらをかいて座り込んだ。
「見てみろ。最高のエンタメだ」
「……ただの洗濯物ですよ」
「だがこいつらは自由だ」
先輩は乾燥機の丸い窓を見上げていた。
回転する衣類が、蛍光灯の光を受けて色を変えていく。
「どんなに混ざっても、最後は元の形に戻る。意外としぶとい」
隣に座った。
床はリノリウムで、冷たいけれど、乾燥機の温風の吹き出し口が近いおかげで、かすかに温かい空気が漂っている。
他人の服の匂いがした。
知らない誰かの柔軟剤。知らない誰かの汗。知らない誰かの生活の痕跡が、温風に乗って鼻腔を満たしていく。
不快ではなかった。むしろ、どこか懐かしいような気がした。コインランドリーの匂いは、誰の家の匂いでもないからだ。どこにでもあって、どこにもない。
自販機でココアを買った。
さっきとは違うメーカーの、缶のココア。
先輩も缶コーヒーを買っていた。
二人で乾燥機の前に座って、缶を手に持って、ぐるぐる回る洗濯物を見つめている。
ウィーン、と機械的な音がして、自動ドアが開いた。
ビクリ、と肩が跳ねた。
反射だった。
思考するよりも早く、体が勝手に動いていた。
わたしは、とっさに乾燥機の陰に身を隠していた。
巨大な銀色の箱の裏側に、息を殺して張り付く。
ジャージ姿の男の人が入ってきた。
サンダル履き。無精髭。手にはコンビニの袋。
夜の現実が、土足でこの空間に踏み込んできたような圧迫感。
男の人は、あぐらをかいている先輩のすぐ横を通り過ぎた。
先輩はピクリとも動かなかった。
乾燥機のドラムを見上げたまま、人間なんて存在しないかのように振る舞っている。
男の人は回っている乾燥機の中を覗き込み、「チッ」と舌打ちをした。
まだ終わっていなかったらしい。
どこかで時間を潰すつもりなのだろう、出て行った。
ウィーン、とドアが閉まる。
遠ざかるサンダルの音。
静寂が戻ってきた。
「……何をしている?」
先輩が、呆れたように言った。
わたしはおそるおそる、乾燥機の陰から顔を出した。
「い、今の……」
「来客だ。それがどうした? ここは公共の空間だぞ」
「だって、見られたら……」
「見えないと言っただろう。僕らの姿は、奴らの網膜には映らない。認識のフィルターを素通りする幽霊電波だ」
先輩は呆れたように肩をすくめ、何事もなかったかのように乾燥機の方へ向き直った。
「隠れる必要なんてない。堂々としていればいいんだ。裸踊りをしたって通報されない自信があるぞ」
「それはやめてください」
ほっと息を吐いて、乾燥機の前の定位置に戻る。
へなへなと座り込むと、なんだか急におかしくなってきた。
「ふ、ふふっ」
「何が可笑しい」
「いえ……わたし、必死で隠れて。でも、あっちからは見えてなくて。先輩なんて、またがれてたのに、平気な顔してて……」
笑いがこみ上げてきた。
一人のときは、隠れることは「惨めさ」だった。
誰にも見つからないように息を殺すのは、自分が悪いことをしているような、世界から拒絶されているような、冷たい時間だった。
でも、今は違う。
二人の秘密の鬼ごっこみたいだ。
見えていない鬼の横で、舌を出して笑い合っているような。
「……まだ、慣れなくて」
笑いながら言った。
「自分が透明だってこと、つい忘れちゃいます」
「凡人の思考回路《マインドセット》だな。まあいい、徐々にアップデートしていけ」
先輩は鼻を鳴らして、また缶コーヒーを口にした。
沈黙。
でも、居心地の悪くない沈黙だった。
乾燥機のモーター音が、低く一定のリズムを刻んでいる。
ゴトン、ゴトン、ゴトン。衣類がドラムの壁にぶつかる音。それが時計の秒針みたいに、時間を柔らかく刻んでいる。
ココアの缶の温もりが、指先からゆっくりと手のひらに広がっていく。
先輩は何も言わない。わたしも何も言わない。
ふと、思った。
この人の隣にいると、沈黙が怖くない。
教室の沈黙は「無視」だった。
わたしの存在を否認する、冷たい壁。
家の沈黙は「爆発の前兆」だった。
いつ怒号が飛んでくるか分からない、張り詰めた糸。
でも、今のこの沈黙は。
ただの沈黙だ。
なにも含んでいない。
意味を持たない。
わたしを値踏みしない。
わたしを責めない。
わたしを「いないもの」にしない。
ただ、二人の人間が並んで座っているだけの、何も起きない時間。
それが、こんなにもやすらかだなんて、知らなかった。
ココアを一口飲んだ。
甘くて、温かくて、舌の上でとろりと溶ける。
乾燥機の中の洗濯物が回り続けている。
赤と青が混ざって、離れて、また混ざる。
いつまでもそうしていられるような気がした。
先輩の缶コーヒーのプルタブが、かちゃり、と小さな音を立てた。
それだけが、この空間に存在する唯一の会話だった。
