放課後、ボクらは無重力。



ゲームセンターの青白い光が見えたのは、その少しあとだった。

深夜営業。ネオン管が半分だけ点灯している看板。自動ドアのガラスの向こうに、無人の筐体がずらりと並んでいる。
BGMだけが流れていた。アップテンポの電子音が、空っぽの店内で反響して、どこか悲しい祝祭のように響いている。

先輩は迷いなく店に入った。

客はほとんどいなかった。
格闘ゲームのコーナーに一人、フードを被った若者が座っている程度。あとは無人の筐体が、画面の光を虚しく放っているだけだ。

UFOキャッチャーのコーナーを通りかかったとき、先輩の足が止まった。

一人だけ、いた。

背広のサラリーマン。
四十代くらいの、疲れ切った顔をした男の人。
ネクタイは引っ張られたように緩んでいて、スーツの肩は型崩れしている。革靴の踵がすり減っているのが、この角度からでも分かった。

その人が、同じ筐体に何度も何度も百円玉を投入していた。

ピンク色のうさぎのぬいぐるみ。
丸っこくて、耳が長くて、黒い目がつぶらな、子供向けの安っぽいやつ。
それがガラスケースの中央に鎮座していて、アームが降りるたびに頭を撫でられるだけで、びくともしない。

また、空振り。

アームがぬいぐるみの頭を掠めて、何も掴まずに戻っていく。
サラリーマンが、はあ、と息を吐いた。
でも、諦めない。ポケットから百円玉を探っている。

その目は、真剣だった。
深夜のゲームセンターで、くたびれた背広のまま、ぬいぐるみに向き合うおじさんの目が、こんなに真剣であることが、なぜか胸に刺さった。

「見かねるな」

先輩が呟いた。

「え?」

先輩はもう動いていた。
UFOキャッチャーの裏側に回り込む。筐体の側面、アクリル板と金属フレームの接合部。わずかな隙間。

先輩の手が伸びた。
しかし、隙間が狭い。指先は入るが、ぬいぐるみまで届かない。

「……駄目だ。僕の手では入らない」

その呟きを聞いた瞬間、わたしは自分の手を見ていた。
先輩の手よりも、ずっと小さい手。

考えるより先に、体が動いていた。

「わたしの手なら」

先輩の横にしゃがみ込む。
隙間に、右手を滑り込ませた。
アクリル板の冷たい端が、手首を擦る。

サラリーマンが百円玉を投入する。
ウィーン、とアームが動き始める。

アームが降りてくる。
ぬいぐるみの頭に触れる。
その瞬間――わたしの指先が、ぬいぐるみの胴体を、ほんの数ミリだけ押した。

コロン。

ぬいぐるみが傾いて、取り出し口に滑り落ちた。

サラリーマンが、目を見開いた。

数秒の沈黙。
それから、顔がくしゃっと崩れた。
子供みたいな笑顔だった。
さっきまでの疲弊した中年男性の顔が嘘みたいに消えて、無防備で、嬉しくて、どうしようもなく幸せな笑顔が現れた。

ぬいぐるみを取り出し口から引っ張り出す。
両手で抱えて、しばらく眺めている。
それからスマホを取り出して、ぬいぐるみを掲げて写真を撮った。

画面を操作している。送信先を選んでいる。
おそらく、子供だ。
このぬいぐるみを待っている、誰か。

「……ズルですよね、これ」

小声で言った。

「神の恵み《グレイス》だ。あの男も報われた。リピーターが増えれば店も繁盛する。最適解だろう」

サラリーマンは、まだ笑っていた。
スマホの画面を見つめながら、頬が緩みっぱなしだった。
画面の向こうの誰かが喜んでくれることを期待して。

見つめていた。

あの人には、帰る場所がある。
ぬいぐるみを持って帰れば、喜ぶ誰かがいる。
名前を呼んでくれる人がいる。おかえりと言ってくれる人がいる。

ちくっと、胸が痛んだ。

でも、同じくらい、温かかった。

知らない誰かの幸せに、わたしたちがこっそり手を貸した。
名前も知らない。顔も見られていない。お礼も言われない。
でも、あの人が笑った。あの無防備な、子供みたいな笑顔。

わたしは迷惑な存在だ。
学校でも。家でも。いる場所がない。いないほうがいい存在。

――でも、今夜だけは。
今夜のわたしたちは、知らないおじさんにぬいぐるみを届けた、匿名の神様だ。

小さく笑った。
さっきの廃棄弁当のときの笑いとは、少しだけ種類が違った。
悪戯の共犯の笑みではなく、もう少し柔らかい、もう少し温かい、なにかに。