放課後、ボクらは無重力。

***

階段を降りる。
裸足の足裏に、冷たいフローリングの感触。
一段ごとに、慎重に。体重を分散させて、軋みが出ないように。
呼吸は止めている。泥棒のように。自分の家なのに、泥棒のように。

リビングの明かりが、廊下の奥から漏れている。

まだ起きている。

胃の底が、きゅっと縮んだ。
引き返そうかと思った。水なんか我慢すればいい。朝になれば、学校で飲める。

でも、喉が限界だった。
夢の中のケーキの甘い匂いが、まだ鼻腔の奥に張り付いているような気がして、それを洗い流したかった。

廊下を進む。
リビングのドアは半開きだった。

テレビの光が、青白く部屋を照らしている。
ソファに母親が一人で座っていた。
テレビを見ているのかいないのか、判然としない目つきで画面を眺めている。テーブルの上には缶ビールの空き缶が三本。倒れたまま放置されている。
コーヒーの染みは拭かれていたけれど、マグカップの破片は紙袋に無造作に突っ込まれて、テーブルの脚の横に置かれていた。

そっと通り過ぎようとした。
キッチンに辿り着いて、水だけ飲んで、すぐに戻ろう。
足音を殺して、壁際を這うように。

目が合った。

母親がこちらを見ていた。
腫れぼったい目。泣いたのか、酔っているのか、その両方なのか。

沈黙。

テレビの中で、誰かが笑っている。
観客の笑い声が、場違いに明るく響いている。

母親の唇が動いた。
乾いた、擦れた声。

「……あんたさえいなければ、こんなことにはならなかったのに」

空気が凍った。

いや、凍ったのは空気ではない。
わたしだ。
わたしの胸の奥の、心臓のすぐ裏側にある、まだ温かかった場所。
夢の残滓が残っていた場所。

『唯は音楽が好きだもんね』

その声と。

『あんたさえいなければ』

その声が。

同じ口から出た言葉だということが、頭では分かっているのに、心が理解を拒絶していた。
上書きされていく。
暖かい記憶が、冷たい呪いで塗り潰されていく。
ケーキのロウソクの光が、缶ビールの空き缶に変わる。
笑顔が、腫れぼったい目に変わる。

胃の奥から、酸っぱいものが込み上げてくる。
視界の端が暗くなる。
膝が、嗤うように震え始める。

水は、飲めなかった。

わたしは踵を返して、廊下を走った。
玄関で、脱ぎ散らかされた誰かのサンダルに足を突っ込む。
大きすぎて、踵がはみ出す。
ドアを開ける。
夜の空気が、頬を叩いた。

冷たかった。
梅雨時だというのに、制服の上に何も羽織っていなくて、サンダルは踵がはみ出していて、財布も持っていない。

でも、「ここ」にはいられなかった。

振り返らなかった。
閉めたドアの向こうから、テレビの笑い声だけが漏れていた。
それはまるで、わたしの逃走を嘲笑っているみたいだった。

深夜の住宅街。
街灯が、等間隔に白い光を落としている。
車の通りはない。人影もない。
どこかの家の窓から、テレビの光が薄く漏れている。

行き先はなかった。
どこへ行けばいいのか、分からなかった。

ただ、走った。
走って、走って。
やがて走れなくなって、歩いた。

消えてしまいたい、とは思わなかった。
今日の昼間、屋上の手すりで思ったあの衝動は、もう消えていた。先輩のおかげで。

でも、帰りたくもなかった。

わたしは、どこに帰ればいいんだろう。

学校は、わたしを「いないもの」として扱う。
家は、わたしを「いなければよかったもの」として扱う。

息を吸う場所が、どこにもない。

パタ……パタ……

サンダルの底が、深夜のアスファルトを叩く。
情けない足音だった。
あの、先輩がくれたスリッパの足音と、同じような。
でも何かが、決定的に違う。
先輩のスリッパは翼だった。
このサンダルは、ただの逃走の痕跡だ。

コンビニの看板が見えた。
白い蛍光灯の光が、深夜の闇に浮島のように浮かんでいる。

「あ……」

その光の中に、見覚えのある影が立っていた。

黒い詰襟。

コンビニの蛍光灯に照らされた、細長い影。
自動ドアの脇の灰皿の横に立って、缶コーヒーを片手に文庫本を読んでいる。
夏の終わりの夜に集まる蛾みたいに場違いで、それでいて妙にその光景に馴染んでいる。

あの先輩だった。

足が止まった。
声が出なかった。
出したかったのに、喉の奥が干上がったまま、何も形にならない。

先輩は学校にしかいないと思っていた。
屋上という宇宙に閉じ込められた、地縛霊みたいな存在だと。

いや、そうじゃない。
そう思いたかったのかもしれない。

あの場所にしかいない存在なら、あの場所に行けば必ず会える。
でも現実は、先輩はこんなところにいる。
深夜のコンビニの蛍光灯の下で、缶コーヒーを飲みながら、文庫本を読んでいる。

それが、なぜか少しだけ安心した。
幽霊じゃなくて、人間だったんだ。

「……先輩?」

声は掠れていて、自分でも驚くほど小さかった。

先輩は文庫本から顔を上げた。
あの無表情な瞳が、わたしを捉える。

一瞥。
サンダル。踵がはみ出している。
シワの寄った制服。
目の下の隈。

先輩の瞳が一瞬だけ細くなった。
それが感情の動きなのか、単に蛍光灯の光の角度が変わっただけなのか、わたしには判らなかった。

「……心外だな」

最初に出た言葉が、それだった。

「僕を地縛霊の類いだと思っていたのか。心からの侮辱だ。僕も腹は減るし、喉は渇く。コンビニは僕のような人間にとっても、利便性の高い補給《リロード》地点だよ」

声のトーンは、いつもと変わらなかった。
あの、教室のどこにも馴染まない、居丈高で芝居がかった口調。
でも、その声を聞いた瞬間、胸の奥の凍りかけていた場所が、ほんの少しだけ溶けた。

「学校の外にも出られるんですね」
「出られないも何も、帰る場所がないだけだ。仮眠と買い出しは、この辺りが縄張り《テリトリー》でね」

軽い口調で言っている。
けれど、その言葉の中には「帰る場所がない」という事実が、まるで天気の報告みたいに混じっていた。

帰りたくないわたしと、帰る場所がない先輩。
似ているようで、全然違う。
わたしには帰る場所がある。帰りたくないだけだ。
先輩には、帰りたくても、帰る場所そのものがない。

その差が、一瞬だけ、胸の奥をちくりと刺した。

『二度と戻ってくるな』

昼間、先輩がわたしに言った言葉が脳裏をよぎる。
あのとき、確かにそう言われたのだ。
手を振って、校門の向こうから。

気まずくて、視線を落とした。
先輩はわたしの顔を見ている。
深夜に一人で徘徊していること。制服のままであること。泣いたあとのような目をしていること。
全部、見えているはずだ。

でも、先輩は何も聞かなかった。

「なぜここにいる」とも。
「何があった」とも。
「大丈夫か」とも。

その沈黙が、どんな言葉よりもやさしかった。

「糖分は脳のノイズを多少は中和してくれる」

先輩はそう言って、コンビニの自動ドアに向かって歩いた。
戻ってきたとき、手には温かいココアの缶が一つ。
わたしに差し出す。

受け取った。
指先にじんわりと熱が伝わる。
アルミ缶の温もりが、凍えた指の中で小さな惑星みたいに光っていた。

プルタブを開ける。
甘い匂いが立ち上る。口をつけると、砂糖の暴力的な甘さが舌の上で溶けた。
あの、制服のまま飛び出した夜の心細さと、母親の言葉の冷たさを、そのべたべたの甘さが少しだけ上書きしてくれる。

先輩は自分の缶コーヒーを啜りながら、文庫本を閉じた。

「行くか」
「……どこに?」
「どこでもいい。止まっていると重力に捕まる」

その言葉の意味が、今のわたしには痛いほど分かった。