パタ、パタ、パタ。
スリッパの底が、舗装路を叩く安っぽい音が響いていた。
放送室で叫んだ声が、まだ喉の奥に張り付いている。
住宅街の坂道を登りながら、まだ少しだけ笑っていた。
泥だらけの足で。
汚れたままのスリッパで。
心の奥では、さっきの絶叫の残響がまだかすかに震えている。
蜂屋のバカ。地獄に落ちろ。
口にした瞬間は恥ずかしかったけれど、吐き出した言葉の軽さが心地よくて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、自分を許せた気がしていた。
けれど、家が近づくにつれて、足取りが重くなる。
パタ……パタ……パタ……
同じスリッパの音が、いつの間にか遅くなっている。
一歩ごとに、放課後の魔法が薄まっていく。
学校という「重力圏」から脱出して手に入れた「無重力」が、じわじわと地上に引き戻されていく感覚。
足元を見下ろす。
先輩がくれた空色のスリッパ。泥水を吸ってくすんでいるけれど、これだけが今のわたしの翼だ。
――でも、翼は家の中では使えない。
角を曲がると、見慣れた家が現れた。
白い壁に、薄茶のドア。築十何年か。外壁にはうっすらとカビのシミが広がっている。
何の変哲もない、どこにでもある一軒家。
その家の内側から、怒号が漏れていた。
くぐもった声。言葉の中身までは聞こえないけれど、怒りの輪郭だけが壁を透過して、玄関先まで届いている。
お父さんと、お母さんの声。
互いを罵る、噛みつくような語調。
今日もだ。
驚きは、もう、ない。
悲しみも、もう、薄い。
残っているのは、肺の奥がぎゅっと縮むような圧迫感と、胃の底に溜まった鉛みたいな重さだけだった。
スリッパをどう誤魔化そう。
坂道を登りながら、ずっと考えていたことだ。
部活で間違えた? いや、わたしは帰宅部だ。
友達に借りた? いや、友達がいないことは知られている。
盗まれた? そんなことを言ったら「あんたが何かしたんでしょう」と怒られるだけだ。
でも。
玄関に近づけば近づくほど、そんな心配すら無意味だったことが分かってくる。
誰もわたしの足元なんか見ていない。
喧嘩に忙しくて、娘の靴がスリッパに変わっていることなんか、あの人たちの世界には存在しない情報だ。
そっとドアを開ける。
鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
声は廊下の冷たい空気に吸い込まれて、どこにも届かなかった。
リビングからは互いを責め立てる声が溢れ出していた。
食器がぶつかる、甲高い音。何かが壁に当たる鈍い振動が、床を伝って足の裏に届く。
それは建物の骨格を震わせるうめき声のようだった。
「アンタがちゃんとしないから……!」
「俺のせいにするな! お前が……」
聞きたくなかった。
胃の底が、きゅっと冷たくなる。
反射的に息を止め、足音を殺して廊下を急いだ。
洗面所に入る。
蛇口をひねって、泥だらけのスリッパと靴下を流水に晒す。
水は生ぬるく、まとわりつくようで、指先の感覚を奪っていく。
爪の間に入り込んだ汚れが、少しずつ溶けて、排水口に流れ落ちていく。
重たい。
でも、この重たさだけが、今のわたしを「ここ」に繋ぎ止めてくれている。
水の感触。指先の痺れ。蛇口から落ちる水滴が排水口の金属を打つ音。
それだけが、リアルだった。
リビングから漏れてくる怒号は、どこかの知らない惑星の出来事のようだ。
スリッパの泥を洗い流す。
丁寧に。ゆっくりと。
先輩がくれたものだから、雑には扱えなかった。
濡れたスリッパを持って、廊下を音も立てずに通り過ぎる。
リビングのドアの隙間から、割れたマグカップの破片が見えた。
茶色い液体が床に広がっている。コーヒーの匂い。
その向こうで、二つの影が向かい合って、互いに言葉を投げつけている。
わたしが帰ってきたことに、二人は気づいていない。
階段を上がる。
自室のドアを開けて、閉める。
鍵をかける。
カチリ、と小さな金属音が鳴る。
それだけのことなのに、肺の空気が少しだけ緩んだ。
引き出しからヘッドホンを引っ張り出し、ベッドへと倒れ込む。
耳にかぶせた瞬間、世界が遮断される。
イヤーパッドの柔らかいクッションが耳殻を包み込む。外界の音が、水の中に沈んだみたいに遠ざかっていく。
ボリュームを上げる。
曲はなんでもよかった。ランダム再生にしたプレイリストから、聴き慣れたメロディが流れ出す。
旋律が鼓膜を満たし、脳のノイズを押し流していく。
父と母の声が消える。
マグカップが割れる音が消える。
わたしを「いないもの」として扱うこの家の、全ての重力が、遮断される。
目を閉じる。
まぶたの裏の暗闇に、体が沈んでいく。
重力のない、暗くて温かい海の底へ。
ここだけが、わたしの宇宙。
***
スリッパの底が、舗装路を叩く安っぽい音が響いていた。
放送室で叫んだ声が、まだ喉の奥に張り付いている。
住宅街の坂道を登りながら、まだ少しだけ笑っていた。
泥だらけの足で。
汚れたままのスリッパで。
心の奥では、さっきの絶叫の残響がまだかすかに震えている。
蜂屋のバカ。地獄に落ちろ。
口にした瞬間は恥ずかしかったけれど、吐き出した言葉の軽さが心地よくて、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけ、自分を許せた気がしていた。
けれど、家が近づくにつれて、足取りが重くなる。
パタ……パタ……パタ……
同じスリッパの音が、いつの間にか遅くなっている。
一歩ごとに、放課後の魔法が薄まっていく。
学校という「重力圏」から脱出して手に入れた「無重力」が、じわじわと地上に引き戻されていく感覚。
足元を見下ろす。
先輩がくれた空色のスリッパ。泥水を吸ってくすんでいるけれど、これだけが今のわたしの翼だ。
――でも、翼は家の中では使えない。
角を曲がると、見慣れた家が現れた。
白い壁に、薄茶のドア。築十何年か。外壁にはうっすらとカビのシミが広がっている。
何の変哲もない、どこにでもある一軒家。
その家の内側から、怒号が漏れていた。
くぐもった声。言葉の中身までは聞こえないけれど、怒りの輪郭だけが壁を透過して、玄関先まで届いている。
お父さんと、お母さんの声。
互いを罵る、噛みつくような語調。
今日もだ。
驚きは、もう、ない。
悲しみも、もう、薄い。
残っているのは、肺の奥がぎゅっと縮むような圧迫感と、胃の底に溜まった鉛みたいな重さだけだった。
スリッパをどう誤魔化そう。
坂道を登りながら、ずっと考えていたことだ。
部活で間違えた? いや、わたしは帰宅部だ。
友達に借りた? いや、友達がいないことは知られている。
盗まれた? そんなことを言ったら「あんたが何かしたんでしょう」と怒られるだけだ。
でも。
玄関に近づけば近づくほど、そんな心配すら無意味だったことが分かってくる。
誰もわたしの足元なんか見ていない。
喧嘩に忙しくて、娘の靴がスリッパに変わっていることなんか、あの人たちの世界には存在しない情報だ。
そっとドアを開ける。
鍵はかかっていなかった。
「ただいま」
声は廊下の冷たい空気に吸い込まれて、どこにも届かなかった。
リビングからは互いを責め立てる声が溢れ出していた。
食器がぶつかる、甲高い音。何かが壁に当たる鈍い振動が、床を伝って足の裏に届く。
それは建物の骨格を震わせるうめき声のようだった。
「アンタがちゃんとしないから……!」
「俺のせいにするな! お前が……」
聞きたくなかった。
胃の底が、きゅっと冷たくなる。
反射的に息を止め、足音を殺して廊下を急いだ。
洗面所に入る。
蛇口をひねって、泥だらけのスリッパと靴下を流水に晒す。
水は生ぬるく、まとわりつくようで、指先の感覚を奪っていく。
爪の間に入り込んだ汚れが、少しずつ溶けて、排水口に流れ落ちていく。
重たい。
でも、この重たさだけが、今のわたしを「ここ」に繋ぎ止めてくれている。
水の感触。指先の痺れ。蛇口から落ちる水滴が排水口の金属を打つ音。
それだけが、リアルだった。
リビングから漏れてくる怒号は、どこかの知らない惑星の出来事のようだ。
スリッパの泥を洗い流す。
丁寧に。ゆっくりと。
先輩がくれたものだから、雑には扱えなかった。
濡れたスリッパを持って、廊下を音も立てずに通り過ぎる。
リビングのドアの隙間から、割れたマグカップの破片が見えた。
茶色い液体が床に広がっている。コーヒーの匂い。
その向こうで、二つの影が向かい合って、互いに言葉を投げつけている。
わたしが帰ってきたことに、二人は気づいていない。
階段を上がる。
自室のドアを開けて、閉める。
鍵をかける。
カチリ、と小さな金属音が鳴る。
それだけのことなのに、肺の空気が少しだけ緩んだ。
引き出しからヘッドホンを引っ張り出し、ベッドへと倒れ込む。
耳にかぶせた瞬間、世界が遮断される。
イヤーパッドの柔らかいクッションが耳殻を包み込む。外界の音が、水の中に沈んだみたいに遠ざかっていく。
ボリュームを上げる。
曲はなんでもよかった。ランダム再生にしたプレイリストから、聴き慣れたメロディが流れ出す。
旋律が鼓膜を満たし、脳のノイズを押し流していく。
父と母の声が消える。
マグカップが割れる音が消える。
わたしを「いないもの」として扱うこの家の、全ての重力が、遮断される。
目を閉じる。
まぶたの裏の暗闇に、体が沈んでいく。
重力のない、暗くて温かい海の底へ。
ここだけが、わたしの宇宙。
***
