***
昇降口に戻ったわたしを、現実が待ち受けていた。
開けっ広げになった下駄箱に。
ない。
登校時に履いてきたはずのローファーが消えていた。
彼女たちの悪意は、まだ終わっていなかったのだ。
「……参りましたね。徹底的です、あはは」
「くだらん奴らだ。美学がない」
先輩が呆れ果てたように言う。
「近所の靴屋に行って来よう。サイズはいくつだ? 僕のセンスで選んでやるから感謝しろ」
わたしは首を横に振った。
そして、足元の青いスリッパを見下ろした。
安っぽいビニール製。どこにでもある、来客用のスリッパ。
でも、これがいい。これが、今のわたしの靴だ。
先輩がくれた、青い翼だ。
「これで帰ります」
「スリッパだぞ。道だってまだ悪い。わざわざ汚れることもないだろうに」
「いいんです。これで……、このスリッパで帰りたいんです」
わたしは校門の外へと一歩を踏み出した。
目の前には、午前中の雨が作り出した巨大な水たまり。
夕陽を反射して、鏡のように輝いている。
今朝までのわたしなら、汚れるのを恐れて避けて通っていただろう。
スカートの裾を気にして、縮こまって歩いていただろう。
でも、今は。
わたしは迷うこともなく、その泥水の中心へと踏み込んだ。
バシャリ、という鮮やかな水音。
茜色の空が足元で砕けて、無数の光の破片になる。
泥水が跳ね上がり、白い靴下を一瞬で汚した。
冷たい水がビニールを透過して、足指の一本一本を包み込む。
ぐちょり、という不快な感触。
でも、それはただの物理現象だ。
わたしの心までは、もう濡らせない。
「おいおい、正気か? 自ら泥沼に足を踏み入れるとは。まともな神経とは思えない」
「でも、気持ちいいです」
振り返って、言う。
素直な言葉、心からの言葉。
「ふん、変わったヤツだな。理解不能だ」
そう言って、先輩は手を振った。
とても優しく、とても力強く、わたしを送り出してくれた。
「去れ。そして二度と戻ってくるな。僕の宇宙は定員オーバーだ」
校門を出て、住宅街の坂道を下っていく。
その瞬間、ドッと音の洪水が押し寄せた。
車の走行音、遠くの工事の音、主婦たちの笑い声。
すれ違うサラリーマンが、泥まみれのスリッパで歩く女子高生を「ギョッ」として振り返る。
奇異な目。蔑むような目。
遮断されていた世界の目が、わたしを射抜いてくる。
けれど、突き刺さるはずのその視線は、もうわたしの皮膚を傷つけることはない。
わたしを縛り付けていた他人の「認識」は、今のわたしにとっては、ただの風景の一部でしかなかった。
パタ、パタ、と。
安っぽいスリッパの音が、夕闇に溶け始めていく。
そのリズムが、一歩ごとに速くなる。
鼓動のように。
青いスリッパの音が、未来を祝福するように、静かに響き続ける。
いつしかハミングを口ずさみ、スキップを踏む。
泥だらけの足で。
汚れたままで。
一度だけ立ち止まり、茜色の空を仰いだ。
明日もまた、靴は隠されるかもしれない。罵詈雑言は続くかもしれない。
それでも、わたしはもう、透明な自分を愛せる気がしていた。
――だって今日、わたしの声は、誰にも聞こえない場所でちゃんと響いたから。
放課後、僕らは無重力。
つづく。
昇降口に戻ったわたしを、現実が待ち受けていた。
開けっ広げになった下駄箱に。
ない。
登校時に履いてきたはずのローファーが消えていた。
彼女たちの悪意は、まだ終わっていなかったのだ。
「……参りましたね。徹底的です、あはは」
「くだらん奴らだ。美学がない」
先輩が呆れ果てたように言う。
「近所の靴屋に行って来よう。サイズはいくつだ? 僕のセンスで選んでやるから感謝しろ」
わたしは首を横に振った。
そして、足元の青いスリッパを見下ろした。
安っぽいビニール製。どこにでもある、来客用のスリッパ。
でも、これがいい。これが、今のわたしの靴だ。
先輩がくれた、青い翼だ。
「これで帰ります」
「スリッパだぞ。道だってまだ悪い。わざわざ汚れることもないだろうに」
「いいんです。これで……、このスリッパで帰りたいんです」
わたしは校門の外へと一歩を踏み出した。
目の前には、午前中の雨が作り出した巨大な水たまり。
夕陽を反射して、鏡のように輝いている。
今朝までのわたしなら、汚れるのを恐れて避けて通っていただろう。
スカートの裾を気にして、縮こまって歩いていただろう。
でも、今は。
わたしは迷うこともなく、その泥水の中心へと踏み込んだ。
バシャリ、という鮮やかな水音。
茜色の空が足元で砕けて、無数の光の破片になる。
泥水が跳ね上がり、白い靴下を一瞬で汚した。
冷たい水がビニールを透過して、足指の一本一本を包み込む。
ぐちょり、という不快な感触。
でも、それはただの物理現象だ。
わたしの心までは、もう濡らせない。
「おいおい、正気か? 自ら泥沼に足を踏み入れるとは。まともな神経とは思えない」
「でも、気持ちいいです」
振り返って、言う。
素直な言葉、心からの言葉。
「ふん、変わったヤツだな。理解不能だ」
そう言って、先輩は手を振った。
とても優しく、とても力強く、わたしを送り出してくれた。
「去れ。そして二度と戻ってくるな。僕の宇宙は定員オーバーだ」
校門を出て、住宅街の坂道を下っていく。
その瞬間、ドッと音の洪水が押し寄せた。
車の走行音、遠くの工事の音、主婦たちの笑い声。
すれ違うサラリーマンが、泥まみれのスリッパで歩く女子高生を「ギョッ」として振り返る。
奇異な目。蔑むような目。
遮断されていた世界の目が、わたしを射抜いてくる。
けれど、突き刺さるはずのその視線は、もうわたしの皮膚を傷つけることはない。
わたしを縛り付けていた他人の「認識」は、今のわたしにとっては、ただの風景の一部でしかなかった。
パタ、パタ、と。
安っぽいスリッパの音が、夕闇に溶け始めていく。
そのリズムが、一歩ごとに速くなる。
鼓動のように。
青いスリッパの音が、未来を祝福するように、静かに響き続ける。
いつしかハミングを口ずさみ、スキップを踏む。
泥だらけの足で。
汚れたままで。
一度だけ立ち止まり、茜色の空を仰いだ。
明日もまた、靴は隠されるかもしれない。罵詈雑言は続くかもしれない。
それでも、わたしはもう、透明な自分を愛せる気がしていた。
――だって今日、わたしの声は、誰にも聞こえない場所でちゃんと響いたから。
放課後、僕らは無重力。
つづく。
