水瀬唯にとってはありふれた朝だった。
下駄箱に上履きがない。
代わりに押し込まれていたのは、明白な悪意。
泥じみた雑巾と、油の凝固したコンビニ弁当の空き容器、ファンデーションの汚れがこびりついた不織布マスク、それに吸い殻の沈んだ得体の知れない液体入りのペットボトル。
開けた瞬間、生ゴミと腐った水の臭いが鼻腔を突き、唯は反射的に顔を背けた。
いじめだ。
呼吸をするように行われる、ありふれた暴力だった。
唯は息を止める。
悲鳴は出ない。驚きもない。ただ心臓の奥底がスッと冷える感覚だけがある。
指先を伸ばす。
雑巾はたっぷりと泥水を吸い込んでいて、持ち上げるとずしりと重かった。その感触は、雨に濡れて死んだ小動物の死骸に似ている。冷たくて、ぐじゅりとしていて、不快な弾力がある。雨に濡れて死んだ小動物の死骸を拾い上げるような感触だった。
指先に、泥水とカビの混じったぬめりが残る。
唯は顔をしかめることもなく、ただ淡々とその「死骸」をゴミ箱へと運ぶ。
汚れた指先を、ハンカチで拭う。
生地に茶色いシミが広がる。指が綺麗になったけれど、心に澱みを移しただけのような心地になる。
なんで自分が、こんなことをしなければならないのだろう。
上履きをなくされたのに。
下駄箱を汚されたのに。
皮膚の汚れは消せても、そのぶん、心が重たくなる。
(……今日はどんな目に遭わされるのかな)
胸に湧き上がるのは、鋭利な悲しみではない。
もっと鈍くて、重たくて、底のない摩耗だった。
ガラスの表面を紙やすりで延々と削り続けられているような、静かな消耗。
透明だったはずの心が、無数の細かい傷で白く濁っていくような。
唯は下駄箱の扉を閉める。
静かに。丁寧に。音を立てないように。
下駄箱に罪はない。
モノに八つ当たりをするのは正しくない。
そのささやかな几帳面さだけが、崩れ落ちそうな唯の輪郭を辛うじて繋ぎ止める、最後のかすがいだった。
***
下駄箱に上履きがない。
代わりに押し込まれていたのは、明白な悪意。
泥じみた雑巾と、油の凝固したコンビニ弁当の空き容器、ファンデーションの汚れがこびりついた不織布マスク、それに吸い殻の沈んだ得体の知れない液体入りのペットボトル。
開けた瞬間、生ゴミと腐った水の臭いが鼻腔を突き、唯は反射的に顔を背けた。
いじめだ。
呼吸をするように行われる、ありふれた暴力だった。
唯は息を止める。
悲鳴は出ない。驚きもない。ただ心臓の奥底がスッと冷える感覚だけがある。
指先を伸ばす。
雑巾はたっぷりと泥水を吸い込んでいて、持ち上げるとずしりと重かった。その感触は、雨に濡れて死んだ小動物の死骸に似ている。冷たくて、ぐじゅりとしていて、不快な弾力がある。雨に濡れて死んだ小動物の死骸を拾い上げるような感触だった。
指先に、泥水とカビの混じったぬめりが残る。
唯は顔をしかめることもなく、ただ淡々とその「死骸」をゴミ箱へと運ぶ。
汚れた指先を、ハンカチで拭う。
生地に茶色いシミが広がる。指が綺麗になったけれど、心に澱みを移しただけのような心地になる。
なんで自分が、こんなことをしなければならないのだろう。
上履きをなくされたのに。
下駄箱を汚されたのに。
皮膚の汚れは消せても、そのぶん、心が重たくなる。
(……今日はどんな目に遭わされるのかな)
胸に湧き上がるのは、鋭利な悲しみではない。
もっと鈍くて、重たくて、底のない摩耗だった。
ガラスの表面を紙やすりで延々と削り続けられているような、静かな消耗。
透明だったはずの心が、無数の細かい傷で白く濁っていくような。
唯は下駄箱の扉を閉める。
静かに。丁寧に。音を立てないように。
下駄箱に罪はない。
モノに八つ当たりをするのは正しくない。
そのささやかな几帳面さだけが、崩れ落ちそうな唯の輪郭を辛うじて繋ぎ止める、最後のかすがいだった。
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