卒業生たちに贈る短編小説『スケッチブックは、まだ白い』

 卒業式の前日、机の引き出しを整理していたら、一番奥からスケッチブックが出てきた。
 表紙の角は少し折れていて、名前を書いた油性ペンの文字はかすれている。
 ——図工室で使っていたやつだ。
 ページをめくると、クレヨンの線が残っていた。
 太くて、はみ出していて、勢いだけはある線。
 当時は、うまく描こうなんて思っていなかった。ただ、思いついた色を、思いついた場所に置いていただけだった。
 赤い太陽。
 青すぎる空。
 緑が多すぎる木。
 先生は「いいね」と言ってくれたけど、理由はよくわからなかった。
 その次のページには、絵の具で描いた絵があった。
 水を多く含んで、境目がにじんでいる。
 思った色にならなくて、何度も重ねた跡。
 あのときは、にじむのが嫌だった。
 はっきりした線が描けなくて、うまくいかなくて、ちょっとだけ悔しかった。
 でも今見ると、そのにじみは、悪くない。
 ページをさらにめくる。
 色鉛筆の絵が出てきた。
 輪郭を何度もなぞって、少しずつ色を重ねている。
 時間をかけて、考えながら描いた跡がある。
 ——ああ、この頃からだ。
 「失敗しないように」描くようになったのは。
 周りと比べて、
 評価を気にして、
 はみ出さないように、
 間違えないように。
 色は増えたはずなのに、使う色は減っていった。
 卒業式の練習で、体育館に並んだ椅子。
 校歌を歌う声。
 少しだけよそよそしいクラスメイト。
 みんな、ちゃんと前を向いている。
 次の学校、次の場所、次の自分へ。
 でも、スケッチブックの最後のページは、白いままだった。
 使わなかったページ。
 描かなかった絵。
 ——これでよかったんだろうか。
 そう思ったとき、ふと、クレヨンの箱を思い出した。
 短くなって、折れやすくて、手が汚れるやつ。
 あの頃は、汚れることなんて気にしていなかった。
 失敗しても、また上から塗ればよかった。
 色鉛筆みたいに、きれいじゃなくても。
 絵の具みたいに、狙った色じゃなくても。
 楽しかった。
 スケッチブックを閉じかけて、やめる。
 机の上に、白いページを開いたまま置く。
 引き出しの中には、もう使っていない色鉛筆。
 キャップのない絵の具。
 折れたクレヨン。
 どれも、完璧じゃない。
 でも、今の自分も、たぶんそうだ。
 新しい場所では、また白いページが渡される。
 「こう描きなさい」とは、きっと言われない。
 何色を使ってもいい。
 はみ出してもいい。
 途中で変えてもいい。
 スケッチブックは、評価表じゃない。
 未来の予定表でもない。
 ただの、白い紙だ。
 クレヨンみたいに、勢いで塗ってもいい。
 絵の具みたいに、にじんでもいい。
 色鉛筆みたいに、時間をかけてもいい。
 全部、同じ一冊にあっていい。
 最後のページに、そっと線を引く。
 何を描くかは、まだ決めない。
 でも、その線は、ちゃんと自分の手で引いた。
 卒業は、完成じゃない。
 提出でもない。
 ——新しいスケッチブックが、また一冊増えるだけだ。
 ページは多い。
 色も、まだまだ残っている。
 白いままでもいいし、
 ぐちゃぐちゃでもいい。
 これから描く絵は、
 誰かの見本じゃなくていい。
 スケッチブックは、まだ白い。
 だからこそ、続きを描ける。
 それだけで、十分だ。