ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用なふたりが、東京で0センチメートルになるまで。~

 ◇

 あと数日で、十一月も終わる。
 冬の気配を含んだ冷たい風を肩に受けながら、足早に帰宅した。

 外気と同じくらいに冷え切っていた六畳の自室。
 古い暖房は、電源を付けるとウィーン……と大きめの音が鳴る。

 コートを脱いだ後、僕はラグマットの上に座り込み、正人たちから貰った紙袋を引き寄せた。
 中からスニーカーの箱を取り出す。しかし、持ち上げた瞬間に違和感を覚えた。

(……軽い)

 スニーカー特有の、あのずっしりとしたゴム底の重みがない。
 空箱かのような軽さだ。

 いぶかしく思いながら蓋を開けると、中には透明なプチプチの緩衝材が、無駄に厳重に丸められていた。それを一枚一枚、バリバリと剥がしていく。

 やがて現れたのは、手のひらに収まるほどの、黒くて小さな四角い箱だった。
 そのパッケージに印字された文字とロゴを見て、僕は数秒間フリーズし――次の瞬間、顔から火が出るほど熱くなるのを感じた。

「…………あいつら」

 思わず天を仰ぎ、呆れたような、情けないようなため息を天井に向けて吐き出した。

 中に入っていたのは、大人の男のエチケットとして必要な『あれ』だった。

 たしかに、正人には以前、美絵との進捗をそれとなく聞かれた時に「まだ全然そういう雰囲気じゃない」と濁したことがあった。
 あのお節介な盛り上げ役は、僕の背中を(物理的に)押すつもりでこれをよこしたのだろう。

 手の中の小さな箱を見つめる。
 正直なところ……たしかに、「そろそろ……」と思う気持ちが、ないわけではない。
 付き合い始めてから数か月。
 お互いの部屋に上がることも増え、触れ合う時間も長くなった。
 彼女の細い肩や、シャンプーの甘い香り、無防備に向けられる笑顔に、理性の糸がちぎれそうになることは、幾度となくあった。

 けれどやはり、僕にとって美絵は、たとえ彼女になったとはいえ、中学時代から見つめ続けてきた『聖域』のような存在だ。
 少しでも乱暴に扱って傷つけたくない。嫌われたくない。
 その気持ちが強すぎて、どうしても最後の一歩を踏み出すタイミングを見失っていた。

 僕自身はまったくの未経験であるわけだが、美絵も、初めてだよな……?
 彼女の初彼(兼、元彼)は、美絵が中学生の時に手を繋いでいたあの男だと、(勝手に)認識している。
 いくらなんでも、中学生の時なら、流石にそこまではしていないはずだ。

 ……いや、でも相手は高校生のようだった。もしかしたら……?

 ほんの少し想像しただけで、真っ黒でドロドロとした嫉妬が胃の奥から湧き上がり、狂いそうなほど胸を掻き毟りたくなる。
(……ダメだ、考えるな)
 僕はブンブンと頭を振り、その最悪の想像を頭から無理やり追い出した。

 いまだに、彼女に過去の話を切り出したり、探りを入れたりすることすら、怖くてできないでいるのだから。

「……ふう」

 深く息を吐き出し、僕は小さな箱を机の引き出しの奥深くへ、まるで見なかったことにするかのように押し込んだ。

 暖房の効き始めた部屋の中で、手のひらにじっとりと変な汗をかいていたことに気がついた。

 そして、壁にかかった時計を見上げる。
 時刻は、十八時ちょうど。

 今日は美絵のバイトが二十一時までの遅番だ。
 終わり次第迎えに行き、そのままこの部屋へ連れてくる予定になっている。
 僕の誕生日は明日で、奇跡的に土曜日でお互い予定も入っていないため、一日中一緒に過ごす約束をしている。
 けれど、彼女はそれだけでは足りないと言わんばかりに、『前夜祭もやりたい』と電話越しに声を弾ませていた。
 明日は休みだから、今夜は時間を気にせず、遅くまで二人きりで過ごすことになっている。

(……もちろん、終電までにはちゃんと家に送るつもりだけど)

 頭の中で何度もシミュレーションを繰り返す。
 何事もなく、楽しくケーキを食べて、終電があるうちに安全に彼女を帰す。
 それが一番いい。……うん、それが正解だ。

 そう自分に言い聞かせるのに、引き出しの奥にしまった『あの箱』の存在が、僕の脳の片隅でチカチカと警告音のように鳴り続けている。

(落ち着け……俺)

 焦燥感を誤魔化すように、リモコンを手に取ってテレビの電源を入れた。

 画面には夕方のニュース番組が映し出され、キャスターが明日の寒波について真面目な顔で語っている。
 しかし、その声はただのノイズとして鼓膜を滑り落ちるだけで、一文字たりとも頭には入ってこなかった。

 ズン、ズンと少し早く打ち続ける自分の心臓の音だけが、静かな部屋の中でやけにうるさく響いていた。