大教室には、暖房の風が埃を巻き上げるような少し乾いた匂いが充満している。
窓ガラスは外の冷気と室内の熱でうっすらと結露し、ぼやけた冬の光を教室に投げかけていた。
史学部の必修であるイギリス史学の講義。
開始のチャイムが鳴ってから十分が経過しても、教授は一向に姿を見せない。
階段状になった座席を埋める百人近くの学生たちのざわめきは、さざ波のように教室全体を満たすホワイトノイズとなっていた。
隣の席では、国際学部だけどこの講義を履修しているいずみが、プリントの端にペンで無意味な丸をぐるぐると描いている。
私は手元のノートの真っ白なページを見つめながら、ふと、昨夜の冷たいドアの金属音と、一人きりになった部屋の広さを思い出していた。
胸の奥に、じわりと重たい泥のような感情が広がる。
「……はあ」
「……ふう」
重なり合ったため息に、私といずみは同時に肩をビクッと跳ねさせ、顔を見合わせた。
コンマ一秒のズレもない見事なシンクロに、私たちは目を丸くした後、思わずふふっと吹き出してしまった。
「なに、今の」
「美絵もため息? どうしたの、悩み事?」
いずみがペンを置き、小首を傾げてこちらを覗き込んでくる。
オレンジ色のカーディガンから、彼女がいつもつけているシトラス系の香水の爽やかな匂いが微かに漂う。
「……うん。いずみこそ、どうかしたの?」
「私? 私は……まあ、後でいいや。美絵から先! 祥太郎くんと、なんかあった?」
私のわずかな変化から、すぐに恋人の名前を導き出したいずみに苦笑しながら、私はぽつりぽつりと、絡まった糸を解くように話し始めた。
「なんかあったわけじゃないんだけど……私、自分が嫌になっちゃって」
「自分が?」
「うん。祥ちゃんのことが……その……好きすぎて、最近、すごく寂しがり屋になってる気がして。一緒にいるときは幸せなのに、バイバイした直後からもう辛くて。……もっと長く一緒にいたいとか、私と同じくらい重たい気持ちでいてほしいとか、そんなことばっかり考えちゃう。完全に、めんどくさい女になってる」
自嘲気味に笑うと、いずみは丸い目を少しだけ細め、私の背中をさするようにポンッと優しく叩いた。
「美絵ー。それ、祥太郎くんが知ったら泣いて喜ぶやつだよ」
「えっ?」
「傍から見ててもさ、祥太郎くんが美絵のことめちゃくちゃ大好きなの、痛いほど伝わってくるもん! あの人、美絵のこと見る時だけ、すっごい甘い顔してるよ? 知らないでしょ」
「今度盗撮しちゃおっかな」とケラケラ笑ういずみの言葉に、私の頬が熱くなる。
「祥太郎くんの気持ちが小さいわけないよ! ただ、美絵を困らせないように、すっごく理性を働かせて我慢してるだけだと思うな」
そう言ってから、いずみは少しだけ表情を曇らせた。
「でも……自分の気持ちのコントロールが難しいのは、すっごくわかる」
いずみは手元のペンを弄りながら、視線を机に落とした。
「……こういう話、美絵が苦手だったらすぐに言ってね?」
前置きをしてから語られたのは、実は文化祭の直後にトントン拍子で付き合い始うことになった、あのバイト先の先輩との話だった。
「私さ、高校時代の元彼とは、友達の延長みたいな感じだったの。帰り道に一緒に帰って、手を繋ぐくらいで……。でも、今の彼氏は大学生だからか、すっごく進むテンポが早い気がして」
いずみは不安そうに眉を下げる。
「付き合って二週間なんだけど……なんか、求められるペースが早くて。大学生って、こんなものなのかな? 歳が二つ違うだけで、感覚も違うのかなって……ちょっと戸惑ってるんだよね」
経験値がゼロに等しい私は、どう答えていいかわからず、ただただ「なるほど……」と頷くことしかできなかった。
窓ガラスは外の冷気と室内の熱でうっすらと結露し、ぼやけた冬の光を教室に投げかけていた。
史学部の必修であるイギリス史学の講義。
開始のチャイムが鳴ってから十分が経過しても、教授は一向に姿を見せない。
階段状になった座席を埋める百人近くの学生たちのざわめきは、さざ波のように教室全体を満たすホワイトノイズとなっていた。
隣の席では、国際学部だけどこの講義を履修しているいずみが、プリントの端にペンで無意味な丸をぐるぐると描いている。
私は手元のノートの真っ白なページを見つめながら、ふと、昨夜の冷たいドアの金属音と、一人きりになった部屋の広さを思い出していた。
胸の奥に、じわりと重たい泥のような感情が広がる。
「……はあ」
「……ふう」
重なり合ったため息に、私といずみは同時に肩をビクッと跳ねさせ、顔を見合わせた。
コンマ一秒のズレもない見事なシンクロに、私たちは目を丸くした後、思わずふふっと吹き出してしまった。
「なに、今の」
「美絵もため息? どうしたの、悩み事?」
いずみがペンを置き、小首を傾げてこちらを覗き込んでくる。
オレンジ色のカーディガンから、彼女がいつもつけているシトラス系の香水の爽やかな匂いが微かに漂う。
「……うん。いずみこそ、どうかしたの?」
「私? 私は……まあ、後でいいや。美絵から先! 祥太郎くんと、なんかあった?」
私のわずかな変化から、すぐに恋人の名前を導き出したいずみに苦笑しながら、私はぽつりぽつりと、絡まった糸を解くように話し始めた。
「なんかあったわけじゃないんだけど……私、自分が嫌になっちゃって」
「自分が?」
「うん。祥ちゃんのことが……その……好きすぎて、最近、すごく寂しがり屋になってる気がして。一緒にいるときは幸せなのに、バイバイした直後からもう辛くて。……もっと長く一緒にいたいとか、私と同じくらい重たい気持ちでいてほしいとか、そんなことばっかり考えちゃう。完全に、めんどくさい女になってる」
自嘲気味に笑うと、いずみは丸い目を少しだけ細め、私の背中をさするようにポンッと優しく叩いた。
「美絵ー。それ、祥太郎くんが知ったら泣いて喜ぶやつだよ」
「えっ?」
「傍から見ててもさ、祥太郎くんが美絵のことめちゃくちゃ大好きなの、痛いほど伝わってくるもん! あの人、美絵のこと見る時だけ、すっごい甘い顔してるよ? 知らないでしょ」
「今度盗撮しちゃおっかな」とケラケラ笑ういずみの言葉に、私の頬が熱くなる。
「祥太郎くんの気持ちが小さいわけないよ! ただ、美絵を困らせないように、すっごく理性を働かせて我慢してるだけだと思うな」
そう言ってから、いずみは少しだけ表情を曇らせた。
「でも……自分の気持ちのコントロールが難しいのは、すっごくわかる」
いずみは手元のペンを弄りながら、視線を机に落とした。
「……こういう話、美絵が苦手だったらすぐに言ってね?」
前置きをしてから語られたのは、実は文化祭の直後にトントン拍子で付き合い始うことになった、あのバイト先の先輩との話だった。
「私さ、高校時代の元彼とは、友達の延長みたいな感じだったの。帰り道に一緒に帰って、手を繋ぐくらいで……。でも、今の彼氏は大学生だからか、すっごく進むテンポが早い気がして」
いずみは不安そうに眉を下げる。
「付き合って二週間なんだけど……なんか、求められるペースが早くて。大学生って、こんなものなのかな? 歳が二つ違うだけで、感覚も違うのかなって……ちょっと戸惑ってるんだよね」
経験値がゼロに等しい私は、どう答えていいかわからず、ただただ「なるほど……」と頷くことしかできなかった。


