マンションのオートロックを抜け、狭いエレベーターに二人で乗り込む。
「……何階?」
「……六階だよ」
ウィーンという低い機械音だけが響く密室。
先ほどまで外で感じていた秋風の冷たさが嘘のように、密閉された空間は少し生ぬるく、隣に立つ彼女の緊張が波紋のようにこちらまで伝わってくる。
僕自身も、ポケットに入れた手のひらが、じわりと変な汗をかいていた。
部屋の前に着くと、美絵はトートバッグのポケットに手を入れた。
シャランと音を立てて取り出した鍵には、可愛らしい花のキーホルダーが揺れている。
彼女はそれを鍵穴に差し込み、ゆっくりと解錠した。
「……あの」
ドアノブに手をかけたまま動きを止め、彼女が遠慮がちに口を開いた。
「誘っておいてあれなんだけど……、今朝、きちんと片付けてから出かけたか、自信がなくて。床に何か落ちてても、大目に見てください……」
恥ずかしそうな彼女が微笑ましくて、つい笑みをこぼしながら答える。
「……ハイ」
「では、ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
ガチャン、と重たい金属音を立てて玄関のドアが開く。
「ちょっと待ってね。今、電気つけるから……」
パッと明かりが灯ったワンルームは、彼女の杞憂は不要なほど、綺麗に整頓されていた。
白と薄紫と黄緑を基調とした、女の子らしい柔らかい空間。
そして何より、部屋全体をふわりと包み込んでいる、ラベンダーと彼女自身の石鹸が混ざったような甘い香りが、僕の脳を直接揺さぶってくる。
「適当に座ってて! すぐお茶淹れるから……!」
姉の部屋を除き、女の子の部屋に入るのは、もちろん初めてのことだ。
靴を脱いで部屋に上がり込むと、180センチを超える自分の身体が、この可愛らしい部屋にはひどく不釣り合いで、異物のように感じられた。
僕はぎこちなく、部屋の中央にある小さなローテーブルの前に、ちょこんと胡座をかいて座った。
キッチンスペースで、カチャカチャとマグカップを用意する彼女の背中を見つめる。
お湯を沸かすケトルの「コーッ」という低い音が、部屋の静寂を少しだけ和らげてくれた。
「ごめん、紅茶しかないんだけど……」
「いや、ありがとう」
湯気を立てる二つのマグカップがテーブルに置かれ、彼女が僕の隣にちょこんと正座で座った。
向かいじゃなくて、隣……。
二人きりの空間で、わずか数センチの距離……。
僕は、再度気を引き締める。
マグカップを両手で包み込むと、夜風で少し冷えた指先からじんわりと温かさが血流に乗って全身へ巡っていくのを感じた。
「……祥ちゃんが、私の部屋にいるなんて、なんか不思議」
彼女がカップの縁に口をつけながら、上目遣いでこちらを見た。
「……俺も」
立ち上るベルガモットの香りが、部屋の空気と溶け合っていく。
僕は視線をゆっくりと動かし、ジロジロ見ない程度に、こっそりと部屋の中を見渡した。
ワンルームの空間は、彼女の雰囲気をそのまま形にしたように柔らかい。
窓際の小さなサイドテーブルには、瑞々しい深い緑の葉を広げる観葉植物が置かれ、ベッドの脇では丸い間接照明がオレンジ色の温かい光を落としている。
とてもお洒落で整頓されている一方で、ベッドの枕元には、ふわふわとした毛並みの犬のぬいぐるみがちょこんと座っていた。
大人っぽさと、ふとした瞬間に見せる子供っぽさ。
そのアンバランスさがたまらなく彼女らしくて、マグカップやラグマット、置かれている一つひとつのものから美絵の生活の気配を感じ、胸の奥が愛おしさで満たされていく。
「……全然綺麗じゃん。散らかってるかもって言ってたけど」
僕が感心したように言うと、美絵はマグカップを両手で包み込んだまま、「よかったあ……」と深く安堵の息を吐き出した。
「朝急いでるとき、洋服を床に脱ぎっぱなしにしてたこと、帰ってから気づくときがあるんだよね……。あと、私、片付けがすごく苦手だから、そもそも物を増やさない作戦にしてるの」
はにかみながら明かされた彼女の生活の裏側に、また少しだけ彼女の素顔に触れられた気がして嬉しくなる。
「なるほどね。賢い作戦だな」
僕の言葉に小さく笑った彼女は、自分でも部屋をキョロキョロと見回し、やがて背の低い本棚に視線を止めた。
「あっ!」
何かを思い出したように目を輝かせ、パタパタと立ち上がる。
「そういえば、いいのあるんだった〜!」
楽しげな「ジャーン」という声と共に、彼女が本棚から抜き出してきたのは、少し厚みのある一冊のアルバムだった。
深い紺色の表紙に、金色の箔押しで中学校の名前が刻まれている。
「……え、中学の卒アル? 実家からそんなん持ってきてたの!?」
驚いて尋ねる僕の前に、彼女はドスンとアルバムを置いた。
「いや、上京するときに持ってきたわけじゃないんだけど……」
彼女は急に頬を薄いピンク色に染め、モジモジと絡ませた自分の指先を見つめながら呟いた。
「……祥ちゃんを好きって、自覚したときに。どうしても見たくなって、お母さんに送ってもらったんだ」
照れ隠しのように早口で言われたその言葉の破壊力たるや。
彼女が、僕を好きだと自覚した夜に、実家からわざわざこの重たいアルバムを取り寄せてまで、僕の姿を探そうとしてくれていたなんて……。
「……一緒に見よ!」
美絵は嬉しそうにアルバムの表紙に手をかけた。
久しぶりに見る中学時代の彼女の写真。
陸上部での笑顔や、懐かしい制服に身を包む彼女を、僕も見たい。
(……いや、待てよ)
ワクワクしかけた僕の脳裏に、当時の自分の姿がフラッシュバックした。
野球漬けの毎日で、頭は五厘刈りに近い坊主。
夏の厳しい練習のせいで肌は真っ黒に焼け焦げ、体格も今よりずっと細くてガリガリだったはずだ。
今の少しはマシになった(と思いたい)自分を見慣れている彼女と、あのイケてない中学生の僕を一緒に振り返るのは、無性に恥ずかしい。
「ま、待って。やっぱり見るのやめよう!」
僕は慌てて身を乗り出し、美絵の手から卒アルを取り上げようと手を伸ばした。
「えー! なんでよー!」
美絵がクスクスと笑いながら、アルバムを自分の胸に抱え込んで拒否する。
「いや、俺、当時坊主だしガリガリだし。絶対見ない方がいいって!」
「いいじゃん。当時の実物も知ってるし、直近でアルバムも見たし。一緒に見ようよー!」
じゃれ合うようにアルバムを引っ張り合い、彼女の細い腕からそれを取り上げようと、少しだけ力を込めた、その瞬間。
バランスを崩した美絵が「あっ」と声を上げて前につんのめり――。
ドクン。
二人の動きが、ピタリと止まった。
気づけば、僕の顔と彼女の顔が、ほんの十センチほどの距離にまで近づいていた。
彼女の少し驚いたような、大きな琥珀色の瞳に、僕の顔が映っている。
微かに開いた桜色の唇から漏れる、少し早い吐息。
ベルガモットの香りに混じって、彼女の甘い匂いがダイレクトに脳を揺さぶる。
「……っ」
ハッとして、僕たちは同時にバッと身体を離した。
沈黙が、部屋の中に重く降り積もる。
時計の秒針が進むカチ、カチという音だけが、やけに大きく聞こえた。
「…………」
「…………」
お互いに顔を真っ赤にして、膝元のラグマットを見つめたまま、言葉を失う。
このままじゃ、心臓の音が部屋中に響き渡りそうだ。
僕は咳払いを一つして、どうにかこの甘く気まずい沈黙を破るための言葉を探した。
「……てかさ」
「……うん」
「さっき、『好きって自覚したとき』って言ってたけど……それ、いつなの?」
アルバムを取り寄せたという彼女の言葉の続きが、どうしても気になって尋ねた。
「ええっ?! そんなの……」
美絵は少しだけ顔を上げ、いたずらっぽく目を細めた。
「……祥ちゃんが先に教えてくれたら、教える」
ずるい駆け引き。
けれど、その照れた顔があまりにも可愛くて、僕は降参するしかなかった。
「……俺は、ちゃんと自覚したのは合宿かな……」
そこまで言って、僕は言葉を区切った。
――いや。
ここで適当にごまかしてはいけない気がした。
今日、真希さんの言葉に不安そうな顔をしていた彼女。
僕の言葉足らずな態度のせいで、彼女を不用意に不安にさせたくはない。
たとえ重いと思われたとしても、自分のありったけの思いを知ってもらって、彼女の中の不安を少しでも消し去りたかった。
僕は居住まいを正し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……自覚したのは合宿だけど。でも、目が離せなかったのは、初めて見たときから、ずっとだよ」
「……何階?」
「……六階だよ」
ウィーンという低い機械音だけが響く密室。
先ほどまで外で感じていた秋風の冷たさが嘘のように、密閉された空間は少し生ぬるく、隣に立つ彼女の緊張が波紋のようにこちらまで伝わってくる。
僕自身も、ポケットに入れた手のひらが、じわりと変な汗をかいていた。
部屋の前に着くと、美絵はトートバッグのポケットに手を入れた。
シャランと音を立てて取り出した鍵には、可愛らしい花のキーホルダーが揺れている。
彼女はそれを鍵穴に差し込み、ゆっくりと解錠した。
「……あの」
ドアノブに手をかけたまま動きを止め、彼女が遠慮がちに口を開いた。
「誘っておいてあれなんだけど……、今朝、きちんと片付けてから出かけたか、自信がなくて。床に何か落ちてても、大目に見てください……」
恥ずかしそうな彼女が微笑ましくて、つい笑みをこぼしながら答える。
「……ハイ」
「では、ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
ガチャン、と重たい金属音を立てて玄関のドアが開く。
「ちょっと待ってね。今、電気つけるから……」
パッと明かりが灯ったワンルームは、彼女の杞憂は不要なほど、綺麗に整頓されていた。
白と薄紫と黄緑を基調とした、女の子らしい柔らかい空間。
そして何より、部屋全体をふわりと包み込んでいる、ラベンダーと彼女自身の石鹸が混ざったような甘い香りが、僕の脳を直接揺さぶってくる。
「適当に座ってて! すぐお茶淹れるから……!」
姉の部屋を除き、女の子の部屋に入るのは、もちろん初めてのことだ。
靴を脱いで部屋に上がり込むと、180センチを超える自分の身体が、この可愛らしい部屋にはひどく不釣り合いで、異物のように感じられた。
僕はぎこちなく、部屋の中央にある小さなローテーブルの前に、ちょこんと胡座をかいて座った。
キッチンスペースで、カチャカチャとマグカップを用意する彼女の背中を見つめる。
お湯を沸かすケトルの「コーッ」という低い音が、部屋の静寂を少しだけ和らげてくれた。
「ごめん、紅茶しかないんだけど……」
「いや、ありがとう」
湯気を立てる二つのマグカップがテーブルに置かれ、彼女が僕の隣にちょこんと正座で座った。
向かいじゃなくて、隣……。
二人きりの空間で、わずか数センチの距離……。
僕は、再度気を引き締める。
マグカップを両手で包み込むと、夜風で少し冷えた指先からじんわりと温かさが血流に乗って全身へ巡っていくのを感じた。
「……祥ちゃんが、私の部屋にいるなんて、なんか不思議」
彼女がカップの縁に口をつけながら、上目遣いでこちらを見た。
「……俺も」
立ち上るベルガモットの香りが、部屋の空気と溶け合っていく。
僕は視線をゆっくりと動かし、ジロジロ見ない程度に、こっそりと部屋の中を見渡した。
ワンルームの空間は、彼女の雰囲気をそのまま形にしたように柔らかい。
窓際の小さなサイドテーブルには、瑞々しい深い緑の葉を広げる観葉植物が置かれ、ベッドの脇では丸い間接照明がオレンジ色の温かい光を落としている。
とてもお洒落で整頓されている一方で、ベッドの枕元には、ふわふわとした毛並みの犬のぬいぐるみがちょこんと座っていた。
大人っぽさと、ふとした瞬間に見せる子供っぽさ。
そのアンバランスさがたまらなく彼女らしくて、マグカップやラグマット、置かれている一つひとつのものから美絵の生活の気配を感じ、胸の奥が愛おしさで満たされていく。
「……全然綺麗じゃん。散らかってるかもって言ってたけど」
僕が感心したように言うと、美絵はマグカップを両手で包み込んだまま、「よかったあ……」と深く安堵の息を吐き出した。
「朝急いでるとき、洋服を床に脱ぎっぱなしにしてたこと、帰ってから気づくときがあるんだよね……。あと、私、片付けがすごく苦手だから、そもそも物を増やさない作戦にしてるの」
はにかみながら明かされた彼女の生活の裏側に、また少しだけ彼女の素顔に触れられた気がして嬉しくなる。
「なるほどね。賢い作戦だな」
僕の言葉に小さく笑った彼女は、自分でも部屋をキョロキョロと見回し、やがて背の低い本棚に視線を止めた。
「あっ!」
何かを思い出したように目を輝かせ、パタパタと立ち上がる。
「そういえば、いいのあるんだった〜!」
楽しげな「ジャーン」という声と共に、彼女が本棚から抜き出してきたのは、少し厚みのある一冊のアルバムだった。
深い紺色の表紙に、金色の箔押しで中学校の名前が刻まれている。
「……え、中学の卒アル? 実家からそんなん持ってきてたの!?」
驚いて尋ねる僕の前に、彼女はドスンとアルバムを置いた。
「いや、上京するときに持ってきたわけじゃないんだけど……」
彼女は急に頬を薄いピンク色に染め、モジモジと絡ませた自分の指先を見つめながら呟いた。
「……祥ちゃんを好きって、自覚したときに。どうしても見たくなって、お母さんに送ってもらったんだ」
照れ隠しのように早口で言われたその言葉の破壊力たるや。
彼女が、僕を好きだと自覚した夜に、実家からわざわざこの重たいアルバムを取り寄せてまで、僕の姿を探そうとしてくれていたなんて……。
「……一緒に見よ!」
美絵は嬉しそうにアルバムの表紙に手をかけた。
久しぶりに見る中学時代の彼女の写真。
陸上部での笑顔や、懐かしい制服に身を包む彼女を、僕も見たい。
(……いや、待てよ)
ワクワクしかけた僕の脳裏に、当時の自分の姿がフラッシュバックした。
野球漬けの毎日で、頭は五厘刈りに近い坊主。
夏の厳しい練習のせいで肌は真っ黒に焼け焦げ、体格も今よりずっと細くてガリガリだったはずだ。
今の少しはマシになった(と思いたい)自分を見慣れている彼女と、あのイケてない中学生の僕を一緒に振り返るのは、無性に恥ずかしい。
「ま、待って。やっぱり見るのやめよう!」
僕は慌てて身を乗り出し、美絵の手から卒アルを取り上げようと手を伸ばした。
「えー! なんでよー!」
美絵がクスクスと笑いながら、アルバムを自分の胸に抱え込んで拒否する。
「いや、俺、当時坊主だしガリガリだし。絶対見ない方がいいって!」
「いいじゃん。当時の実物も知ってるし、直近でアルバムも見たし。一緒に見ようよー!」
じゃれ合うようにアルバムを引っ張り合い、彼女の細い腕からそれを取り上げようと、少しだけ力を込めた、その瞬間。
バランスを崩した美絵が「あっ」と声を上げて前につんのめり――。
ドクン。
二人の動きが、ピタリと止まった。
気づけば、僕の顔と彼女の顔が、ほんの十センチほどの距離にまで近づいていた。
彼女の少し驚いたような、大きな琥珀色の瞳に、僕の顔が映っている。
微かに開いた桜色の唇から漏れる、少し早い吐息。
ベルガモットの香りに混じって、彼女の甘い匂いがダイレクトに脳を揺さぶる。
「……っ」
ハッとして、僕たちは同時にバッと身体を離した。
沈黙が、部屋の中に重く降り積もる。
時計の秒針が進むカチ、カチという音だけが、やけに大きく聞こえた。
「…………」
「…………」
お互いに顔を真っ赤にして、膝元のラグマットを見つめたまま、言葉を失う。
このままじゃ、心臓の音が部屋中に響き渡りそうだ。
僕は咳払いを一つして、どうにかこの甘く気まずい沈黙を破るための言葉を探した。
「……てかさ」
「……うん」
「さっき、『好きって自覚したとき』って言ってたけど……それ、いつなの?」
アルバムを取り寄せたという彼女の言葉の続きが、どうしても気になって尋ねた。
「ええっ?! そんなの……」
美絵は少しだけ顔を上げ、いたずらっぽく目を細めた。
「……祥ちゃんが先に教えてくれたら、教える」
ずるい駆け引き。
けれど、その照れた顔があまりにも可愛くて、僕は降参するしかなかった。
「……俺は、ちゃんと自覚したのは合宿かな……」
そこまで言って、僕は言葉を区切った。
――いや。
ここで適当にごまかしてはいけない気がした。
今日、真希さんの言葉に不安そうな顔をしていた彼女。
僕の言葉足らずな態度のせいで、彼女を不用意に不安にさせたくはない。
たとえ重いと思われたとしても、自分のありったけの思いを知ってもらって、彼女の中の不安を少しでも消し去りたかった。
僕は居住まいを正し、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「……自覚したのは合宿だけど。でも、目が離せなかったのは、初めて見たときから、ずっとだよ」


