◇
マンションのオートロックを抜け、狭いエレベーターに二人で乗り込む。
「……何階?」
「……六階だよ」
ウィーンという低い機械音だけが響く密室。
先ほどまで外で感じていた乾いた寒さが嘘のように、密閉された空間は少し生ぬるく、隣に立つ彼女の緊張が波紋のように伝わってくる。
僕自身も、ポケットに入れた手のひらが、じわりと変な汗をかいていた。
部屋の前に着くと、美絵はトートバッグのポケットに手を入れた。
シャランと音を立てて取り出した鍵には、可愛らしい花のキーホルダーが揺れている。
彼女はそれを鍵穴に差し込み、ゆっくりと解錠した。
ドアノブに手をかけたまま動きを止め、「……あの」と遠慮がちに口を開く。
「誘っておいてあれなんだけど……。今朝、きちんと片付けてから出かけたか、自信がなくて。床に何か落ちてても、大目に見てください……」
恥ずかしそうな姿が可愛くて、つい笑みをこぼしながら答える。
「……ハイ」
「では、ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
ガチャン、と重たい金属音を立てて玄関のドアが開く。
「ちょっと待ってね。今、電気つけるから……」
パッと明かりが灯ったワンルームは、彼女の杞憂は不要なほど、綺麗に整頓されていた。
白と薄紫と黄緑を基調とした、女の子らしい柔らかい空間。
そして何より、部屋全体をふわりと包み込んでいるラベンダーと、彼女自身の石鹸の香りが混ざったような甘い空気が――僕の脳を直接揺さぶってくる。
「適当に座ってて! すぐお茶淹れるから……!」
姉の部屋を除き、女の子の部屋に入るのは、もちろん初めてのことだ。
靴を脱いでお邪魔すると、180センチを超える自分の身体が、この可愛らしい部屋にはひどく不釣り合いで、異物のように感じられた。
僕はぎこちなく、部屋の中央にある小さなローテーブルの前に腰を下ろし、できるだけ縮こまって胡座をかいた。
キッチンで、カチャカチャとマグカップを用意してくれている背中を見つめる。
お湯を沸かすケトルの「コーッ」という低い音が、部屋の静寂を少しだけ和らげてくれた。
「ごめん、紅茶しかないんだけど……」
「いや、ありがとう」
湯気を立てる二つのマグカップがテーブルに置かれ、彼女が僕の隣でちょこんと正座した。
向かいじゃなくて、隣……。
二人きりの空間で、わずか数センチの距離……。
再度、気を引き締める。
マグカップから伝わる心地よい温もりが、夜風で冷えた指先から身体へと、ゆっくり沁み渡っていった。
「……祥ちゃんが私の部屋にいるなんて、なんだか不思議」
美絵がカップの縁に口をつけながら、上目遣いで僕を見た。
「……俺も」
立ち上るベルガモットの香りが、部屋の空気と溶け合っていく。
視線をゆっくりと動かし、ジロジロ見ない程度に、こっそりと部屋の中を見渡した。
ワンルームの空間は、美絵の雰囲気をそのまま形にしたようだ。
窓際の小さなサイドテーブルには、瑞々しい深い緑の葉を広げる観葉植物が置かれ、ベッドの脇では丸い間接照明がオレンジ色の温かい光を落としている。
とてもお洒落で整頓されている一方で、ベッドの枕元には、ふわふわとした毛並みのウサギのぬいぐるみが行儀よく座っていた。
大人っぽさと、ふとした瞬間に見せる子供っぽさ。
そのギャップがたまらなく美絵らしい。
置かれている一つひとつの物から彼女の生活の気配を感じ、胸の奥が愛おしさで満たされていく。
「……全然綺麗じゃん。散らかってるかもって言ってたけど」
感心したように言うと、美絵はマグカップを両手で包み込んだまま「よかったあ……」と深く安堵の息を吐き出した。
「朝急いでるとき、洋服を床に脱ぎっぱなしにしてたこと、帰ってから気づくときがあるんだよね……。あと、私、片付けがすごく苦手だから、そもそも物を増やさないようにしてるの」
はにかみながら明かされたその意図。
また少しだけ美絵の素顔に触れられた気がして、嬉しくなる。
「なるほどね。賢い作戦だな」
僕の言葉に小さく笑った彼女は、自分でも部屋をキョロキョロと見回し、やがて背の低い本棚に視線を止めた。
「……あっ!」
何かを思い出したように目を輝かせて立ち上がり、パタパタと足音を鳴らす。
「そういえば、いいのあるんだったー!」
楽しげな「ジャーン」という声とともに、彼女が本棚から抜き出してきたのは――厚みのある一冊のアルバムだ。
深い紺色の表紙に、金色の箔押しで中学校の名前が刻まれている。
「……え、中学の卒アル? 実家からそんなん持ってきてたの!?」
驚いて尋ねる僕にニコニコしながら、美絵はアルバムをローテーブルの上に置いた。
「いや、上京するときに持ってきたわけじゃないんだけど……」
そこまで言ってから急に頬を桃色に染め、モジモジと絡ませた自分の指先を見つめながら呟いた。
「……祥ちゃんを好きって、気づいたときに。どうしても見たくなって、お母さんに送ってもらったんだ」
(…………!?)
照れ隠しのように早口で言われた、その言葉の破壊力たるや。
彼女が、僕への恋心を自覚したときに、実家からわざわざこの重たいアルバムを取り寄せてまで、僕の姿を探そうとしてくれていたなんて――。
「……一緒に見よ!」
美絵は嬉しそうにアルバムの表紙に手をかけた。
久しぶりに見る、中学時代の美絵の写真。
陸上部での笑顔や、懐かしい制服に身を包む彼女を、僕も見たい。
(……いや、待てよ)
ワクワクしかけた僕の脳裏に、当時の自分の姿がよぎった。
野球漬けの毎日で、頭は五厘刈りに近い坊主。
夏の厳しい練習のせいで肌は真っ黒に焼け、体格も今よりずっと細くてガリガリだった。
今の少しはマシになった(と思いたい)姿を見慣れている彼女と、あのイケてない中学生の僕を一緒に振り返るのは、無性に恥ずかしい。
「ま、待って。やっぱり見るのやめよう!」
慌てて身を乗り出し、美絵の手から卒アルを取り上げようと手を伸ばした。
「えー! なんでよー!」
彼女はクスクスと笑いながら、アルバムを自分の胸に抱え込んで拒否する。
「いや、俺、当時坊主だしガリガリだし。絶対見ない方がいいって!」
「いいじゃん。当時の実物も知ってるし、直近でアルバムも見たし。一緒に見ようよー!」
じゃれ合うようにアルバムを引っ張り合い、美絵の細い腕からそれを取り上げようと、少しだけ力を込めた、その瞬間。
バランスを崩した彼女が「あっ」と声を上げて前につんのめり――。
二人の動きが、ピタリと止まった。
気づけば、僕と彼女の顔が、ほんの十センチほどの距離にまで近づいていた。
小さく見開かれた、澄んだその瞳に、僕の顔が映っている。
微かに開いた桜色の唇から漏れる吐息は、ベルガモットの香り。
心臓が止まりそうになる。
「……っ」
僕たちは同時にバッと身体を離した。
こそばゆい沈黙が流れた。
カチ、カチという時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
「…………」
「…………」
お互いに顔を真っ赤にして、膝元のラグマットを見つめたまま、言葉を失う。
どんどん速まっていく、僕の心音。
このままじゃ、美絵に聞こえるだけでなく、部屋中に響いてしまうような気までしてくる。
僕は咳払いを一つして、どうにかこの甘い静寂を破るための言葉を探した。
「……てかさ」
「……うん」
「さっき『好きって自覚したとき』って言ってたけど……それ、いつなの?」
彼女の言葉の続きが気になって、尋ねてみた。
「ええっ!? そんなの……」
美絵は顔を上げて僕を見ると、イタズラっぽく目を細めた。
「……祥ちゃんが先に教えてくれたら、教える」
ずるい駆け引き。
けれど、その照れた顔があまりにも可愛くて、僕は降参するしかなかった。
「……俺は、自覚したのは合宿かな……」
そこまで言って、一度言葉を止めた。
(……いや)
ここで適当に誤魔化してはいけない気がした。
今日、真希さんのことで、不安そうな顔をしていた美絵。
僕の言葉足らずな態度のせいで、彼女の心をこれ以上揺らがせたくはない。
たとえ重いと思われたとしても、自分のありったけの想いを明かして、彼女に落ちた影を少しでも払拭したかった。
僕は居住まいを正し、その瞳をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「……ごめん、嘘。たしかに、ちゃんと自覚したのは合宿だけど。でも、目が離せなかったのは、初めて見たときから、ずっとだよ」
マンションのオートロックを抜け、狭いエレベーターに二人で乗り込む。
「……何階?」
「……六階だよ」
ウィーンという低い機械音だけが響く密室。
先ほどまで外で感じていた乾いた寒さが嘘のように、密閉された空間は少し生ぬるく、隣に立つ彼女の緊張が波紋のように伝わってくる。
僕自身も、ポケットに入れた手のひらが、じわりと変な汗をかいていた。
部屋の前に着くと、美絵はトートバッグのポケットに手を入れた。
シャランと音を立てて取り出した鍵には、可愛らしい花のキーホルダーが揺れている。
彼女はそれを鍵穴に差し込み、ゆっくりと解錠した。
ドアノブに手をかけたまま動きを止め、「……あの」と遠慮がちに口を開く。
「誘っておいてあれなんだけど……。今朝、きちんと片付けてから出かけたか、自信がなくて。床に何か落ちてても、大目に見てください……」
恥ずかしそうな姿が可愛くて、つい笑みをこぼしながら答える。
「……ハイ」
「では、ど、どうぞ」
「……お邪魔します」
ガチャン、と重たい金属音を立てて玄関のドアが開く。
「ちょっと待ってね。今、電気つけるから……」
パッと明かりが灯ったワンルームは、彼女の杞憂は不要なほど、綺麗に整頓されていた。
白と薄紫と黄緑を基調とした、女の子らしい柔らかい空間。
そして何より、部屋全体をふわりと包み込んでいるラベンダーと、彼女自身の石鹸の香りが混ざったような甘い空気が――僕の脳を直接揺さぶってくる。
「適当に座ってて! すぐお茶淹れるから……!」
姉の部屋を除き、女の子の部屋に入るのは、もちろん初めてのことだ。
靴を脱いでお邪魔すると、180センチを超える自分の身体が、この可愛らしい部屋にはひどく不釣り合いで、異物のように感じられた。
僕はぎこちなく、部屋の中央にある小さなローテーブルの前に腰を下ろし、できるだけ縮こまって胡座をかいた。
キッチンで、カチャカチャとマグカップを用意してくれている背中を見つめる。
お湯を沸かすケトルの「コーッ」という低い音が、部屋の静寂を少しだけ和らげてくれた。
「ごめん、紅茶しかないんだけど……」
「いや、ありがとう」
湯気を立てる二つのマグカップがテーブルに置かれ、彼女が僕の隣でちょこんと正座した。
向かいじゃなくて、隣……。
二人きりの空間で、わずか数センチの距離……。
再度、気を引き締める。
マグカップから伝わる心地よい温もりが、夜風で冷えた指先から身体へと、ゆっくり沁み渡っていった。
「……祥ちゃんが私の部屋にいるなんて、なんだか不思議」
美絵がカップの縁に口をつけながら、上目遣いで僕を見た。
「……俺も」
立ち上るベルガモットの香りが、部屋の空気と溶け合っていく。
視線をゆっくりと動かし、ジロジロ見ない程度に、こっそりと部屋の中を見渡した。
ワンルームの空間は、美絵の雰囲気をそのまま形にしたようだ。
窓際の小さなサイドテーブルには、瑞々しい深い緑の葉を広げる観葉植物が置かれ、ベッドの脇では丸い間接照明がオレンジ色の温かい光を落としている。
とてもお洒落で整頓されている一方で、ベッドの枕元には、ふわふわとした毛並みのウサギのぬいぐるみが行儀よく座っていた。
大人っぽさと、ふとした瞬間に見せる子供っぽさ。
そのギャップがたまらなく美絵らしい。
置かれている一つひとつの物から彼女の生活の気配を感じ、胸の奥が愛おしさで満たされていく。
「……全然綺麗じゃん。散らかってるかもって言ってたけど」
感心したように言うと、美絵はマグカップを両手で包み込んだまま「よかったあ……」と深く安堵の息を吐き出した。
「朝急いでるとき、洋服を床に脱ぎっぱなしにしてたこと、帰ってから気づくときがあるんだよね……。あと、私、片付けがすごく苦手だから、そもそも物を増やさないようにしてるの」
はにかみながら明かされたその意図。
また少しだけ美絵の素顔に触れられた気がして、嬉しくなる。
「なるほどね。賢い作戦だな」
僕の言葉に小さく笑った彼女は、自分でも部屋をキョロキョロと見回し、やがて背の低い本棚に視線を止めた。
「……あっ!」
何かを思い出したように目を輝かせて立ち上がり、パタパタと足音を鳴らす。
「そういえば、いいのあるんだったー!」
楽しげな「ジャーン」という声とともに、彼女が本棚から抜き出してきたのは――厚みのある一冊のアルバムだ。
深い紺色の表紙に、金色の箔押しで中学校の名前が刻まれている。
「……え、中学の卒アル? 実家からそんなん持ってきてたの!?」
驚いて尋ねる僕にニコニコしながら、美絵はアルバムをローテーブルの上に置いた。
「いや、上京するときに持ってきたわけじゃないんだけど……」
そこまで言ってから急に頬を桃色に染め、モジモジと絡ませた自分の指先を見つめながら呟いた。
「……祥ちゃんを好きって、気づいたときに。どうしても見たくなって、お母さんに送ってもらったんだ」
(…………!?)
照れ隠しのように早口で言われた、その言葉の破壊力たるや。
彼女が、僕への恋心を自覚したときに、実家からわざわざこの重たいアルバムを取り寄せてまで、僕の姿を探そうとしてくれていたなんて――。
「……一緒に見よ!」
美絵は嬉しそうにアルバムの表紙に手をかけた。
久しぶりに見る、中学時代の美絵の写真。
陸上部での笑顔や、懐かしい制服に身を包む彼女を、僕も見たい。
(……いや、待てよ)
ワクワクしかけた僕の脳裏に、当時の自分の姿がよぎった。
野球漬けの毎日で、頭は五厘刈りに近い坊主。
夏の厳しい練習のせいで肌は真っ黒に焼け、体格も今よりずっと細くてガリガリだった。
今の少しはマシになった(と思いたい)姿を見慣れている彼女と、あのイケてない中学生の僕を一緒に振り返るのは、無性に恥ずかしい。
「ま、待って。やっぱり見るのやめよう!」
慌てて身を乗り出し、美絵の手から卒アルを取り上げようと手を伸ばした。
「えー! なんでよー!」
彼女はクスクスと笑いながら、アルバムを自分の胸に抱え込んで拒否する。
「いや、俺、当時坊主だしガリガリだし。絶対見ない方がいいって!」
「いいじゃん。当時の実物も知ってるし、直近でアルバムも見たし。一緒に見ようよー!」
じゃれ合うようにアルバムを引っ張り合い、美絵の細い腕からそれを取り上げようと、少しだけ力を込めた、その瞬間。
バランスを崩した彼女が「あっ」と声を上げて前につんのめり――。
二人の動きが、ピタリと止まった。
気づけば、僕と彼女の顔が、ほんの十センチほどの距離にまで近づいていた。
小さく見開かれた、澄んだその瞳に、僕の顔が映っている。
微かに開いた桜色の唇から漏れる吐息は、ベルガモットの香り。
心臓が止まりそうになる。
「……っ」
僕たちは同時にバッと身体を離した。
こそばゆい沈黙が流れた。
カチ、カチという時計の秒針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
「…………」
「…………」
お互いに顔を真っ赤にして、膝元のラグマットを見つめたまま、言葉を失う。
どんどん速まっていく、僕の心音。
このままじゃ、美絵に聞こえるだけでなく、部屋中に響いてしまうような気までしてくる。
僕は咳払いを一つして、どうにかこの甘い静寂を破るための言葉を探した。
「……てかさ」
「……うん」
「さっき『好きって自覚したとき』って言ってたけど……それ、いつなの?」
彼女の言葉の続きが気になって、尋ねてみた。
「ええっ!? そんなの……」
美絵は顔を上げて僕を見ると、イタズラっぽく目を細めた。
「……祥ちゃんが先に教えてくれたら、教える」
ずるい駆け引き。
けれど、その照れた顔があまりにも可愛くて、僕は降参するしかなかった。
「……俺は、自覚したのは合宿かな……」
そこまで言って、一度言葉を止めた。
(……いや)
ここで適当に誤魔化してはいけない気がした。
今日、真希さんのことで、不安そうな顔をしていた美絵。
僕の言葉足らずな態度のせいで、彼女の心をこれ以上揺らがせたくはない。
たとえ重いと思われたとしても、自分のありったけの想いを明かして、彼女に落ちた影を少しでも払拭したかった。
僕は居住まいを正し、その瞳をまっすぐに見つめ、口を開いた。
「……ごめん、嘘。たしかに、ちゃんと自覚したのは合宿だけど。でも、目が離せなかったのは、初めて見たときから、ずっとだよ」



