新歓飲み会がお開きになり、駅向かう道すがら。
居酒屋の熱気で火照った身体を、夜になるとまだ肌寒い四月の風が心地よく冷ましていく。
彼女の細い肩が、僕より二つくらい前の集団の隙間に見える。
街路樹のハナミズキから漂う春特有の甘い香りと、アスファルトの冷たい匂いが混ざり合う東京の夜。
彼女との再会を機に、脳裏によぎる、焼け焦げるようなグラウンドの土の匂い。
中学三年の、夏。
僕のピッチャー人生が、唐突に終わりを告げた日。
うだるような猛暑日だった。
マウンドの土は靴底を通して足の裏を焼き、陽炎がバッターボックスの景色をぐにゃりと歪ませていた。
汗が目に入り、ピントがぼやける。
準決勝、七回裏。
息を吸い込み、振りかぶって投げ込んだ直球が指先から離れた瞬間――右肩の奥深くで、何かが鈍い音を立てて千切れた感覚がした。
電流のような激痛が走り、視界が真っ白に明滅する。
気づいた時には、僕はマウンドの土に両膝をつき、力なく垂れ下がった右腕を抱えてうずくまっていた。
耳鳴りの奥で、審判のタイムをかける声や、チームメイトの駆け寄る足音が遠く響いていた。
『……残念ですが、投手として投げ続けるのは困難でしょう』
病院の無機質な診察室。ツンとした消毒液の匂いの中で、医師の淡々とした宣告は、冷酷な死刑判決のように耳にこびりついた。
推薦が決まっていた甲子園常連の強豪校への道。
マウンドで見るはずだった夢。
仲間との約束。
積み上げてきた全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。足元に真っ暗な深穴が開き、僕はそこへ真っ逆さまに落ちていく感覚だった。
その日、通院を終え、エアコンの効きすぎた総合病院の自動ドアを抜けた頃には、日は大きく西へ傾いていた。
迎えに来ると言った母に「一人で帰る」と短いメッセージを送り、僕は病院の向かいにある小さな公園へ逃げ込んだ。
遊具は幼児用の小さなブランコだけ、塗装の剥げたベンチと錆びた水飲み場だけの寂しげな公園。
まとわりつくような夏の夕方の湿気が、僕の呼吸を浅くする。
ベンチに座り込み、オレンジ色の西日が長く伸ばした自分の影を、ただ呆然と見つめていた。
あれから数日が経ったが、未だ事実を受け入れられなくて、涙さえ出なかった。
空っぽになった胸の奥に、鉛のような重い絶望だけが沈殿している。
「……あの」
不意に、ジリジリと鳴り響く蝉時雨を縫うように、頭上から声が降ってきた。
「瀬川くん、だよね?」
驚いて顔を上げる。
逆光の中、沈みかけの夕陽を背負って立っていたのは……あの、森美絵だった。
いつもの、周囲を明るく照らすような屈託のない笑顔ではない。
少し眉を下げ、困ったような、けれど真っ直ぐな強い瞳で僕を見つめている。
彼女の細い手には、湿布や薬が入った袋が握られていた。
彼女もどこかの怪我の治療でここに来ているのだろうか……。
「これ、間違えて二本買っちゃったんだけど……いる?」
彼女がそっと差し出してきたのは、よく冷えた缶のサイダーだった。
缶の表面には無数の水滴がびっしりとつき、夕陽を反射してキラリと光っている。
「……え。あ……ありがとう」
掠れた声で礼を言い、受け取る。
アルミ缶の鋭い冷たさが、熱を持った掌から指先へ、そして凍りついていた心臓へと、一気に伝わっていく。
彼女は僕の隣には座らず、少し距離を置いたフェンスに背中を預けた。
むせ返るような夏の草いきれの中、気まずい沈黙が流れる。
遠くの国道を走るトラックの重い走行音が、やけに遠くに聞こえた。
彼女は僕の怪我のことを知っているのだろうか。
中学生の噂は突風のようだ。もう学校中に広まっているのかもしれない。
同情や哀れみなら……今は一番欲しくないものだった。
けれど、彼女の口から紡がれたのは、そのどちらでもなかった。
「……いつも、応援してた」
ポツリと落ちたその一言は、炭酸の泡が弾けるように静かで、鮮烈だった。
驚いて、ゆっくりと彼女を見上げる
彼女は視線を僕の肩のあたりに向けたまま、独り言のように続けた。
「私、いつも勇気もらってたんだ」
その言葉が、干からびた砂漠のような僕の心に、じわりと、けれど確実に染み込んでいく。
ーーあの森美絵が?俺から?
野球が好きで、当然楽しさはあったものの、確かなプレッシャーは抱えながら立っていたマウンド。
それを、この高嶺の花はずっと見ていてくれたというのか。
僕が血の滲む思いで投げてきたボールは、途中で夢断たれたとはいえ、決して無駄ではなかったんだ。
マウンドで戦ってきた時間は、ちゃんと誰かにーーしかも、他でもない彼女に届いていたなんて。
腐りかけていた心が、そのたった一言で、世界に繋ぎ止められた気がした。
「……そっか」
喉の奥がツンと熱くなり、僕は慌ててサイダーのプルタブに指をかけた。
プシュッ、と軽快な音が、重苦しい空気を切り裂く。
一口含むと、炭酸の強い刺激と人工的な甘さが喉を刺し、こみ上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
あの日、あの夕暮れの公園で、彼女が声をかけてくれなかったら。
僕はきっと、野球そのものを恨み、腐ったまま大人になっていたかもしれない。
彼女は僕にとって、ただの憧れの美少女ではない。
絶望の暗闇で道を見失いかけた僕に、小さな、けれど決して消えることのない灯りをくれた恩人なのだ。
居酒屋の熱気で火照った身体を、夜になるとまだ肌寒い四月の風が心地よく冷ましていく。
彼女の細い肩が、僕より二つくらい前の集団の隙間に見える。
街路樹のハナミズキから漂う春特有の甘い香りと、アスファルトの冷たい匂いが混ざり合う東京の夜。
彼女との再会を機に、脳裏によぎる、焼け焦げるようなグラウンドの土の匂い。
中学三年の、夏。
僕のピッチャー人生が、唐突に終わりを告げた日。
うだるような猛暑日だった。
マウンドの土は靴底を通して足の裏を焼き、陽炎がバッターボックスの景色をぐにゃりと歪ませていた。
汗が目に入り、ピントがぼやける。
準決勝、七回裏。
息を吸い込み、振りかぶって投げ込んだ直球が指先から離れた瞬間――右肩の奥深くで、何かが鈍い音を立てて千切れた感覚がした。
電流のような激痛が走り、視界が真っ白に明滅する。
気づいた時には、僕はマウンドの土に両膝をつき、力なく垂れ下がった右腕を抱えてうずくまっていた。
耳鳴りの奥で、審判のタイムをかける声や、チームメイトの駆け寄る足音が遠く響いていた。
『……残念ですが、投手として投げ続けるのは困難でしょう』
病院の無機質な診察室。ツンとした消毒液の匂いの中で、医師の淡々とした宣告は、冷酷な死刑判決のように耳にこびりついた。
推薦が決まっていた甲子園常連の強豪校への道。
マウンドで見るはずだった夢。
仲間との約束。
積み上げてきた全てが、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。足元に真っ暗な深穴が開き、僕はそこへ真っ逆さまに落ちていく感覚だった。
その日、通院を終え、エアコンの効きすぎた総合病院の自動ドアを抜けた頃には、日は大きく西へ傾いていた。
迎えに来ると言った母に「一人で帰る」と短いメッセージを送り、僕は病院の向かいにある小さな公園へ逃げ込んだ。
遊具は幼児用の小さなブランコだけ、塗装の剥げたベンチと錆びた水飲み場だけの寂しげな公園。
まとわりつくような夏の夕方の湿気が、僕の呼吸を浅くする。
ベンチに座り込み、オレンジ色の西日が長く伸ばした自分の影を、ただ呆然と見つめていた。
あれから数日が経ったが、未だ事実を受け入れられなくて、涙さえ出なかった。
空っぽになった胸の奥に、鉛のような重い絶望だけが沈殿している。
「……あの」
不意に、ジリジリと鳴り響く蝉時雨を縫うように、頭上から声が降ってきた。
「瀬川くん、だよね?」
驚いて顔を上げる。
逆光の中、沈みかけの夕陽を背負って立っていたのは……あの、森美絵だった。
いつもの、周囲を明るく照らすような屈託のない笑顔ではない。
少し眉を下げ、困ったような、けれど真っ直ぐな強い瞳で僕を見つめている。
彼女の細い手には、湿布や薬が入った袋が握られていた。
彼女もどこかの怪我の治療でここに来ているのだろうか……。
「これ、間違えて二本買っちゃったんだけど……いる?」
彼女がそっと差し出してきたのは、よく冷えた缶のサイダーだった。
缶の表面には無数の水滴がびっしりとつき、夕陽を反射してキラリと光っている。
「……え。あ……ありがとう」
掠れた声で礼を言い、受け取る。
アルミ缶の鋭い冷たさが、熱を持った掌から指先へ、そして凍りついていた心臓へと、一気に伝わっていく。
彼女は僕の隣には座らず、少し距離を置いたフェンスに背中を預けた。
むせ返るような夏の草いきれの中、気まずい沈黙が流れる。
遠くの国道を走るトラックの重い走行音が、やけに遠くに聞こえた。
彼女は僕の怪我のことを知っているのだろうか。
中学生の噂は突風のようだ。もう学校中に広まっているのかもしれない。
同情や哀れみなら……今は一番欲しくないものだった。
けれど、彼女の口から紡がれたのは、そのどちらでもなかった。
「……いつも、応援してた」
ポツリと落ちたその一言は、炭酸の泡が弾けるように静かで、鮮烈だった。
驚いて、ゆっくりと彼女を見上げる
彼女は視線を僕の肩のあたりに向けたまま、独り言のように続けた。
「私、いつも勇気もらってたんだ」
その言葉が、干からびた砂漠のような僕の心に、じわりと、けれど確実に染み込んでいく。
ーーあの森美絵が?俺から?
野球が好きで、当然楽しさはあったものの、確かなプレッシャーは抱えながら立っていたマウンド。
それを、この高嶺の花はずっと見ていてくれたというのか。
僕が血の滲む思いで投げてきたボールは、途中で夢断たれたとはいえ、決して無駄ではなかったんだ。
マウンドで戦ってきた時間は、ちゃんと誰かにーーしかも、他でもない彼女に届いていたなんて。
腐りかけていた心が、そのたった一言で、世界に繋ぎ止められた気がした。
「……そっか」
喉の奥がツンと熱くなり、僕は慌ててサイダーのプルタブに指をかけた。
プシュッ、と軽快な音が、重苦しい空気を切り裂く。
一口含むと、炭酸の強い刺激と人工的な甘さが喉を刺し、こみ上げてくるものを一緒に飲み込んだ。
あの日、あの夕暮れの公園で、彼女が声をかけてくれなかったら。
僕はきっと、野球そのものを恨み、腐ったまま大人になっていたかもしれない。
彼女は僕にとって、ただの憧れの美少女ではない。
絶望の暗闇で道を見失いかけた僕に、小さな、けれど決して消えることのない灯りをくれた恩人なのだ。
