ふたつの弧が、重なるとき ~六年越しの両片思い。不器用な二人が、東京で0センチメートルになるまで~

 ガラリ、とキャリーケースの車輪が玄関のタイルで短い音を立てた。
 鍵を閉め、冷房を切ってあるむせ返るような自分の部屋に足を踏み入れる。

 窓を閉め切っていたワンルームには、留守の間に溜まった埃の匂いと、茹だるような熱気が充満していた。
 窓を開けてその空気を逃しながら、エアコンのリモコンを手に取り、一番強い風量でスイッチを入れる。
 冷たい風が吹き出し始めるのを確認するより早く、私は靴下を脱ぎ捨て、薄紫の小花柄のカバーで揃えたベッドへとダイブした。

「…………っ」
 スプリングが大きく軋む音を聞きながら、数秒間、天井をぼーっと眺める。

 合宿のダイジェストが脳内に流れ、最後に浮かんだのは。
 ――昨晩から今朝にかけての出来事。

「〜〜〜っ!!」

 両手で顔を覆い、バタバタと両足をバタつかせ、ベッドの上で転げ回った。

 熱い。
 部屋が暑いせいじゃない。
 私自身の顔から火が出そうなくらい、全身の血が沸騰しているのがわかる。

(やっちゃった……やっちゃったよ……!)

 クッションを抱きしめ、ギュッと目を閉じる。
 脳裏には数時間前の、あの明け方の光景が鮮明にフラッシュバックしていた。

 ◇

 今朝、午前四時。

 民宿の宴会場は、すっかり青白い夜明けの空気に包まれていた。
 開け放たれた窓からは、昼間の騒がしさが嘘のような、静かでひんやりとした潮風が流れ込んできている。
 遠くで、名前の知らない海鳥の鳴き声が聞こえた。

「ふぁっ!? ……寝ちゃってた!」
 隣で突如、いずみが変な声を上げて跳ね起きた。

 その大きな声にビクッと肩が揺れ、私も重いまぶたをこすりながらゆっくりと意識を浮上させた。

「んん……」

 首を動かそうとした瞬間、自分の頬が、何か硬くて、けれど温かいものに密着していることに気がついた。

 微かに鼻をかすめる……この香りは。

 ハッとして視線を上げると、すぐ目の前に、黒いポロシャツの袖口が見えた。
 そしてその上には……スウスウと静かな寝息を立てている瀬川くんの整った横顔。

「っ!?」
 心臓が、肋骨を突き破るかと思うほど大きく跳ねた。

(私、瀬川くんの肩にがっつり寄りかかって、寝てた……!?)

 勢いよく身体を離した反動で、彼もゆっくりと目を覚ました。
 黒いまつ毛が震え、眠たげな黒い瞳が私を映す。

「……ん、起きた?」
「私! よ、寄りかかってた!? ごめん!!」

 パニックになって頭を下げると、彼は少しだけ首を回して筋を伸ばし、ふわりと優しく微笑んだ。

「……いーよ。よく寝てたな」

 朝靄のように低くて少し掠れた声。
 その「いーよ」の響きが甘すぎて、胸の奥がキュンと締め付けられる。

 徐々に目と脳が冴えてくると同時に、昨夜の微睡みの中での記憶が、パズルのピースのようにカチカチとはまり始めた。

『私のことも……名前で呼んでよ』
『私は……祥ちゃん、って呼ぶ』

(うそでしょ!? 私、なんであんな大胆なこと言った!?)

 夢だったのではないか。
 いや、夢だと思いたい。

 けれど、右の頬に残る彼の肩の確かな温もりが、シャツの布地の感触が、それが紛れもない現実であることを残酷なまでに突きつけていた。

「あっ……えっと! 私……部屋戻るね!」

 顔面から火を噴きそうなのを誤魔化すように立ち上がり、まだ眠そうで状況を飲み込めていないいずみの腕を引っ張っる。

 そのまま、私は逃げるように宴会場を後にした。
 彼の反応を見る余裕なんて、一ミリもなかった。

 ◇

 そして帰宅し、今に至る。

 合宿からの帰りのバスでも、その後の解散の時も。
 私は恥ずかしさのあまり、瀬川くんとまともに目を合わせることができなかった。
 彼が近くを通るたびに、不自然に別の方向を見たり、いずみの後ろに隠れたりしてしまった。

「変に思われてないかな……」
 ベッドに仰向けのまま、天井の照明を見つめて独り言をこぼす。

 自分から甘えておいて、名前で呼んでなんて言っておいて、いざ翌朝になったら避けるなんて。
 いくらなんでも失礼すぎるし、意味のわからないやつだと思われたかもしれない。
 嫌われたらどうしよう。
 あの優しい『いーよ』が、ただの呆れから来ていたらどうしよう。
 後悔と自己嫌悪の波が、寄せては返していく。

 冷房が効き始め、部屋の空気が少しずつ冷えてきた。
 二泊三日の合宿の疲れと、昨夜の寝不足が、今になって泥のように身体にのしかかってくる。
 まぶたが、もう限界を訴えていた。

(ちゃんと謝るメッセージ、しなきゃ……。明日、起きたら……)

 薄れゆく意識の中。
 サイドテーブルに放り出したスマホの画面が、チカチカと光ったような気がした。
 誰かからのメッセージだろうか。

 確認しようと腕を動かそうとしたけれど、それよりも早く、私は深い眠りの底へと落ちていった。