ふたつの弧が、重なるとき ――元エースピッチャーの彼と、走り高跳びの彼女。熱を持った六年越しの初恋を、不器用に重ね合わせていく。【完結】

 ワンルームの部屋は、テレビをつけているにもかかわらず、しんと静まり返っているように感じる。
 冷蔵庫の運転音が、時折ブーンと低い唸り声をあげて、私の不安を煽るようだった。

 ベッドの上で膝を抱えながら、ぼんやりと光るスマートフォンの画面を見つめる。
 時刻は、二十一時を回っていた。

「……大丈夫かな」

 口をついて出るのは、今日何度目かわからない独り言だ。

 心配しているのは、もちろん瀬川くんのこと。
 タクシーに乗せたときの、あの焼けるような体温と、荒い呼吸が記憶に残っている。

 誰もいない部屋で、ちゃんとベッドまで辿り着けただろうか。
 水は飲めたかな。ごはんは食べられたかな。
 実家なら家族がいてくれるけれど、彼は私と同じく、地元から遠く離れた地での一人暮らしだ。
 もし、悪化して倒れてしまったりしたら……。

 迷った末に、親指を動かした。

『体調どうかな?』

 送信ボタンを押すと、画面の上に吸い込まれるように流れていく。

 既読がつかない時間が、ひどく長く思えてならない。
 ローテーブルに置いているラベンダーのディフューザーが、今日はなぜか少しキツく香る。


 スマホを握りしめたまま、じっと待つこと数分。

 ――ブブッ。

 手のひらに短い振動を感じて、すぐにメッセージを確認する。


『おかゆ食べて、もらったスポドリ飲んで寝たら、三十七度台まで下がったよ。心配かけてごめん』


「ふうーっ……」

 その文字を見た瞬間、長く息が漏れた。

(よかった。本当によかった)

 張り詰めていた肩の力が抜け、シーツに沈み込む。

『よかった……! でもまだ微熱はあるんだから、油断しないでね』

 そう返信しようとして、指を止める。

(なんか、お母さんみたい。もっと、こう……)

『よかったあ! 安心した。ゆっくり休んでね』

(うん。これならいいかな)

 送信して、スマホをサイドテーブルに置こうとしたら、すぐに既読がついた。
 そして、新しい吹き出しが現れる。

『あとさ。ひとつ聞いていい?』

『なに?』

 その場で返す。

『熱あるときって、風呂入っていいんだっけ? 汗かいて気持ち悪くて』

 思わず笑みがこぼれた。
 ネットで調べるのではなく、私に問いかけてくれたことが、どうしようもなく嬉しかったからだ。

『高い熱じゃなければ、さっと入るくらいなら大丈夫だよ。でも、湯冷めしないようにすぐ髪乾かしてね』

 そう送ると、すぐに返事がきた。


『サンキュ』


「ありがとう」でも、「助かる」でもなく、「サンキュ」。
 たった四文字の、砕けたカタカナ。

 これまで事務的な連絡事項しかなかった私たちのトーク履歴の中で、その文字だけが、ポッとあたたかい色を持って見えた。

「サンキュ、かあ……」

 口に出して反芻してみる。
 その響きは、私と彼との距離が、ほんの数センチだけ縮まった証のような気がした。

 そこでふと、頭をよぎる。

 真希さんと楽しそうに野球の話をしていた彼。
 ファミレスでクラスの女の子たちに囲まれていた彼。

(他の人とも、こんなふうにメッセージしてるのかな)

 正人くんとは、もっと雑な感じでやりとりしてるだろうし、真希さんとは野球の話でもっと盛り上がっているのかもしれない。
「サンキュ」なんて、挨拶のひとつだ。特別でもなんでもない。

 そう自分に言い聞かせるけれど。
 画面の中で光るその文字を見ると、胸の奥が甘く痺れるような感覚が消えなかった。