大学の講義棟の裏手にあるサークル棟は、いつ訪れても独特の湿気と埃っぽさが漂っている。
狭い部室のドアを開けると、古びたソファの革の匂いと、誰かが置きっぱなしにしたスナック菓子やチョコレートの匂いが鼻をついた。
窓から差し込む西日が、宙を舞う無数の塵をキラキラと照らし出している。
ソファには二日酔いで沈没している先輩が一人。
新調されたばかりの小さなテーブルでは、女子の先輩たちが授業の合間の暇つぶしに花を咲かせている。
古いパイプ椅子に浅く腰掛けると、ミシッ、と頼りない音がした。
僕は自販機で買った、すでにぬるくなったコーヒーを啜った。
「でさあ! 実際どうだったんだよ、中学時代のヨッシーは!」
(……おいおい、『ヨッシー』って……)
向かいの椅子で、正人が身を乗り出してくる。
その瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。
正人は天性の人たらしだ。
無遠慮に距離を詰めるくせに、不思議と相手に合わせる絶妙な加減を知っている。
森さんはサークルの飲み会を何度か重ねても、まだほとんどの奴には人見知りしているようだが、正人は持ち前のスキルで、あっという間に「あだ名呼び」まで辿り着いていた。
あの森美絵を、わずか一か月足らずで『ヨッシー』と呼ぶなんて。
僕には口出しする権利なんてないけれど……正人の対人能力には、もはや尊敬を通り越して呆れてしまう。
「どう、って……言っただろ。高嶺の花だったって」
「いやいや、もっと具体的によ! 告白されたり、彼氏がいたりとかさ」
正人の無遠慮な質問に、僕は苦笑して首を振る。
「……俺の知る限り、森さんにアタックできる中学生男子はいなかったわ」
「マジ? 誰も?」
「ああ。あまりに住む世界が違いすぎて、告白する勇気のある奴なんていなかったんじゃないかな。みんな遠くから見てるだけ。森さん、オーラがありすぎて……同い年と思えなかったし」
廊下で友達と笑っている姿、グラウンドで軽やかに宙を舞う姿。
校内で見かける彼女は、いつも光の中にいた。
男子生徒たちは教室の隅で、「森さんが笑った」「髪を切った」と噂話をするのが精一杯だった。
もしかしたら、玉砕覚悟で挑んだ猛者がいたかもしれないが、その武勇伝が僕の耳に届くことはなかった。
「ふーん。じゃあ、彼氏は?」
「いなかったと思うよ……学校には」
嘘は言っていない。
「学校には」いなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、喉の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走る。
脳裏に蘇るのは、中学二年の冬の光景。
部活帰りの夕暮れ時。
吐く息が白く凍るような寒い日だった。
友達と別れ、商店街のアーケードを抜けた先、駅前のイルミネーションが煌めく雑踏の中で、僕は見てしまったのだ。
手を繋いで歩く、男女の姿を。
(――……彼女だ)
制服の上にベージュのダッフルコートを羽織り、柔らかそうな白いマフラーを巻いて歩いていた彼女は、森美絵だった。
その隣には、背の高い男がいた。
制服のズボンからして、市内の進学校に通う高校生だろうか。
彼女は緊張しているような強張った顔をマフラーに埋め、けれど拒むことなく、彼とと手を繋いでいた。
周囲の雑音が消え、残酷なほどしっくりくる二人の姿が、スローモーションのように視界に焼き付く。
――噂は、残念ながら、本当だった。
『森さんって、年上の彼氏がいるらしいぜ』
『マジかー。それじゃあやっぱり俺らじゃ相手にならねーな』
彼女にはいくつか真偽不明の噂が教室で囁かれていたが、一番真実であってほしくなかったものが、真実として、ずしりと僕の胸にのしかかった瞬間だった。
彼女には、僕たちの知らない世界がある。
大人っぽい彼女に、年上の彼氏。
悲しくも、腑に落ちてしまう感覚もあった。
僕が泥だらけのユニフォーム姿でグラウンドに入り浸る間に、彼女は少し大人の階段を上っている。
その事実は、中学生だった僕に、埋めようのない距離を突きつけた。
「……まあ、森さんは男子にとっては芸能人みたいなものだったわ。リアルな恋愛対象っていうよりは」
僕はコーヒーの残りを飲み干し、過去の映像を振り払うように立ち上がった。
「悪い、今日はもう帰るわ。バイトあるし」
「えー、もうちょい聞かせろよ祥太郎ー!」
正人の声を背中で受け止めながら、僕は逃げるように部室を後にした。
狭い部室のドアを開けると、古びたソファの革の匂いと、誰かが置きっぱなしにしたスナック菓子やチョコレートの匂いが鼻をついた。
窓から差し込む西日が、宙を舞う無数の塵をキラキラと照らし出している。
ソファには二日酔いで沈没している先輩が一人。
新調されたばかりの小さなテーブルでは、女子の先輩たちが授業の合間の暇つぶしに花を咲かせている。
古いパイプ椅子に浅く腰掛けると、ミシッ、と頼りない音がした。
僕は自販機で買った、すでにぬるくなったコーヒーを啜った。
「でさあ! 実際どうだったんだよ、中学時代のヨッシーは!」
(……おいおい、『ヨッシー』って……)
向かいの椅子で、正人が身を乗り出してくる。
その瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のように輝いていた。
正人は天性の人たらしだ。
無遠慮に距離を詰めるくせに、不思議と相手に合わせる絶妙な加減を知っている。
森さんはサークルの飲み会を何度か重ねても、まだほとんどの奴には人見知りしているようだが、正人は持ち前のスキルで、あっという間に「あだ名呼び」まで辿り着いていた。
あの森美絵を、わずか一か月足らずで『ヨッシー』と呼ぶなんて。
僕には口出しする権利なんてないけれど……正人の対人能力には、もはや尊敬を通り越して呆れてしまう。
「どう、って……言っただろ。高嶺の花だったって」
「いやいや、もっと具体的によ! 告白されたり、彼氏がいたりとかさ」
正人の無遠慮な質問に、僕は苦笑して首を振る。
「……俺の知る限り、森さんにアタックできる中学生男子はいなかったわ」
「マジ? 誰も?」
「ああ。あまりに住む世界が違いすぎて、告白する勇気のある奴なんていなかったんじゃないかな。みんな遠くから見てるだけ。森さん、オーラがありすぎて……同い年と思えなかったし」
廊下で友達と笑っている姿、グラウンドで軽やかに宙を舞う姿。
校内で見かける彼女は、いつも光の中にいた。
男子生徒たちは教室の隅で、「森さんが笑った」「髪を切った」と噂話をするのが精一杯だった。
もしかしたら、玉砕覚悟で挑んだ猛者がいたかもしれないが、その武勇伝が僕の耳に届くことはなかった。
「ふーん。じゃあ、彼氏は?」
「いなかったと思うよ……学校には」
嘘は言っていない。
「学校には」いなかった。
けれど、その言葉を口にした瞬間、喉の奥に小さな棘が刺さったような痛みが走る。
脳裏に蘇るのは、中学二年の冬の光景。
部活帰りの夕暮れ時。
吐く息が白く凍るような寒い日だった。
友達と別れ、商店街のアーケードを抜けた先、駅前のイルミネーションが煌めく雑踏の中で、僕は見てしまったのだ。
手を繋いで歩く、男女の姿を。
(――……彼女だ)
制服の上にベージュのダッフルコートを羽織り、柔らかそうな白いマフラーを巻いて歩いていた彼女は、森美絵だった。
その隣には、背の高い男がいた。
制服のズボンからして、市内の進学校に通う高校生だろうか。
彼女は緊張しているような強張った顔をマフラーに埋め、けれど拒むことなく、彼とと手を繋いでいた。
周囲の雑音が消え、残酷なほどしっくりくる二人の姿が、スローモーションのように視界に焼き付く。
――噂は、残念ながら、本当だった。
『森さんって、年上の彼氏がいるらしいぜ』
『マジかー。それじゃあやっぱり俺らじゃ相手にならねーな』
彼女にはいくつか真偽不明の噂が教室で囁かれていたが、一番真実であってほしくなかったものが、真実として、ずしりと僕の胸にのしかかった瞬間だった。
彼女には、僕たちの知らない世界がある。
大人っぽい彼女に、年上の彼氏。
悲しくも、腑に落ちてしまう感覚もあった。
僕が泥だらけのユニフォーム姿でグラウンドに入り浸る間に、彼女は少し大人の階段を上っている。
その事実は、中学生だった僕に、埋めようのない距離を突きつけた。
「……まあ、森さんは男子にとっては芸能人みたいなものだったわ。リアルな恋愛対象っていうよりは」
僕はコーヒーの残りを飲み干し、過去の映像を振り払うように立ち上がった。
「悪い、今日はもう帰るわ。バイトあるし」
「えー、もうちょい聞かせろよ祥太郎ー!」
正人の声を背中で受け止めながら、僕は逃げるように部室を後にした。

