その名前を、呼べたなら

 ひよりが母の異変に気づいたのは、もっとずっと前からだった。

 大人たちが思っているよりも、ずっと前から。

 母が病院に通い始めたのは、去年の夏。

 最初は「ちょっと検査に行ってくる」と言って、午前中だけ出かけていた。

 でも、秋になると週に二回になり、冬には週に三回になった。

 そして今──母は入院している。

 ひよりは、すべてを知っていた。

 母が何も言わないことも。

 病気が重いことも。

 そして、もしかしたら──母がいなくなってしまうかもしれないことも。

 ある日の放課後。

 ひよりは学校から帰る途中、いつもの公園で少しだけ立ち止まった。

 ブランコに座り、ぼんやりと空を見上げる。

 冬の空は、どこまでも青い。

 ひよりは、母のことを考えていた。

 お母さんは、わたしに何も言わない。

 わたしも、お母さんに何も聞かない。

 それが、二人の約束みたいになっていた。
 
でも──それでいいのか。

 ひよりは、わからなかった。

 ブランコを揺らしながら、ひよりは小さく呟いた。

「お母さん……」

 その言葉は、風に溶けた。

 ひよりは最近、母の名前を呼べなくなっていた。

 「お母さん」と呼ぶことすら、怖かった。

 呼んだら、終わってしまう気がした。

 呼ばなければ、まだ続く気がした。

 でも、それは間違っているのかもしれない。

 ひよりは立ち上がり、ランドセルを背負い直した。

 そして、病院へ向かって歩き始めた。

 病院に着くと、受付で篠原さんを呼んでもらった。

 篠原さんはすぐに出てきてくれた。

「ひよりちゃん、今日も来てくれたんだ」

「うん」

 ひよりは頷いた。

「お母さん、今日は元気?」

「うん、今日は調子いいみたいよ」

 篠原さんは優しく笑った。

「じゃあ、行こうか」

 二人は廊下を歩いた。

 病室まであと少し、というところで、ひよりは立ち止まった。

「篠原さん」

「なに?」

「佐倉さんと、うまくいった?」

 篠原さんは少し驚いた顔をした。

「……どうして?」

「だって、篠原さん、最近ちょっと元気ないもん」

 ひよりはまっすぐに篠原さんを見つめた。

「佐倉さんのこと、好きなんでしょ?」

 篠原さんは、少しだけ困ったように笑った。

「……ひよりちゃんには、敵わないね」

「で、どうだったの?」

「うーん……難しいかな」

 篠原さんは少し寂しそうに笑った。

「佐倉さん、怖がってるの。誰かを好きになることが」

「どうして?」

「昔、大切な人を失ったことがあるみたい。だから、また失うのが怖いんだって」

 ひよりは、少しだけ考えた。

「お母さんと同じだね」

「……え?」

「お母さんも、わたしのこと失いたくないから、名前呼ばないんだと思う」

 ひよりの声は、驚くほど冷静だった。

「呼んだら、別れが近づく気がするから」

 篠原さんは、何も言えなかった。

 ひよりは続けた。

「でも、それって逆だよね。呼ばなかったら、もっと後悔する」

「……ひよりちゃん」

「わたしね、決めたの。ちゃんとお母さんの名前、呼ぶって」

 ひよりは病室のドアを見つめた。

「怖いけど、呼ぶ。だって、呼ばなかったら、絶対後悔するもん」

 篠原さんは、ひよりの肩を抱いた。

「ひよりちゃんは、強いね」

「強くないよ。すごく怖い」

 ひよりは小さく笑った。

「でも、佐倉さんが言ってた。『名前は、届く』って。だから、信じてみる」

 篠原さんは、涙をこらえるように目を伏せた。

「……そうだね」

 二人は病室のドアを開けた。

 母・美和は、ベッドに座って窓の外を見ていた。

 ひよりが入ってくると、振り返って微笑んだ。

「ひより、おかえり」

「ただいま」

 ひよりはベッドの横に座った。

 篠原さんは「じゃあ、また後でね」と言って、病室を出ていった。

 二人きりになった。

 母は、ひよりの頭を撫でた。

「今日、学校どうだった?」

「うん、楽しかった」

「そっか」

 母は優しく笑った。

 でも、その笑顔はどこか疲れているように見えた。

 ひよりは、母の手を握った。

「ねえ、お母さん」

「なに?」

「わたし、ちゃんとわかってるよ」

 母の表情が、少しだけ変わった。

「……何が?」

「お母さんが、病気なこと。すごく大変なこと」

 ひよりはまっすぐに母を見つめた。

「でも、お母さんは何も言わない。わたしも、聞かないようにしてた」

「ひより……」

「でもね、それって間違ってる気がする」

 ひよりの目に、涙が浮かんだ。

「だから、ちゃんと聞く。お母さん、どれくらい大変なの?」

 母は、少しだけ困ったように笑った。

「……ひよりには、まだ早いかなって思ってた」

「早くないよ。わたしもう九歳だもん」

「そうだね」

 母は深く息をついた。

「お母さんの病気ね、すぐには治らないの。でも、先生たちがちゃんと治療してくれてる」

「……治る?」

 母は少しだけ黙った。

 それから、静かに答えた。

「わからない。でも、お母さんは頑張るよ」
 ひよりは、涙をこらえた。

「わたしも、頑張る」

「ありがとう」

 母は、ひよりを抱きしめた。

 ひよりは母の胸の中で、小さく震えた。

 そして──初めて、母の名前を呼んだ。

「……美和さん」

 母の体が、わずかに硬くなった。

「お母さんじゃなくて、美和さんって呼んでもいい?」

「……どうして?」

「だって、お母さんって呼ぶと、なんか遠い気がするから」

 ひよりは顔を上げた。

「美和さんって呼んだら、もっと近い気がする」

 母は、涙を流していた。

「……ひより」

「うん」

「ありがとう」

 母は、ひよりをもう一度抱きしめた。

 そして──初めて、ひよりの名前を呼んだ。

「ひより、大好きだよ」

 ひよりも、泣いた。

「わたしも、美和さん、大好き」

 二人は、しばらくそのまま抱き合っていた。

 窓の外では、冬の夕日が静かに沈んでいく。

 名前を呼び合うことで、二人の距離は少しだけ近づいた。

 それは、別れの予感を伴うものだったけれど──

 それでも、呼ぶことができてよかった、とひよりは思った。

 その夜。

 ひよりは病院の待合室で、篠原さんを待っていた。

 篠原さんは仕事を終えて、ひよりを家まで送ってくれることになっていた。

「お待たせ、ひよりちゃん」

 篠原さんが現れた。

「ううん」

 ひよりは立ち上がった。

 二人は病院を出て、夜道を歩いた。

 しばらく黙って歩いていたが、ひよりが口を開いた。

「篠原さん、佐倉さんにちゃんと伝えた方がいいよ」

「……え?」

「好きって。ちゃんと言った方がいい」
 ひよりは篠原さんを見上げた。

「わたし、今日お母さんの名前呼んだの。すごく怖かったけど、呼んでよかった」

「……そっか」

「篠原さんも、佐倉さんの名前呼んであげて」

「佐倉さんの……名前?」

「うん。『佐倉さん』じゃなくて、『恒一さん』って」

 篠原さんは、少しだけ驚いた顔をした。

「……そうだね」

「呼んだら、きっと届くよ。佐倉さんが言ってたもん」

 ひよりは笑った。

 篠原さんも、少しだけ笑った。

「ありがとう、ひよりちゃん」

「どういたしまして」

 二人は、静かに夜道を歩いていった。