久坂から「消しました」という一行が届いたのは、夜の十一時を過ぎてからだった。
美佳はもう布団の中にいた。画面の光が暗い部屋に広がった。
「ありがとうございます」と返した。
「終わりました」と久坂は書いた。それから少し間があって「美佳さん、一つだけ言っていいですか」
「はい」
「あなたに設計者適性があると書いたのは、本当のことです。ただ」と久坂は続けた。
「あなたが引き受けなかったことも、正しかったと思っています。今は」
美佳はその言葉を読んで、少し考えた。
「久坂さんが今そう思えることの方が、大事だと思います」と返した。
既読がついた。返信はなかった。
美佳はスマートフォンを置いて、目を閉じた。
終わった。たぶん、本当に終わった。
そう思いながら、思ったより早く眠れた。
翌朝、目が覚めたとき、空が晴れていた。
カーテンの隙間から光が入っていた。美佳はしばらくそのまま天井を見ていた。
特別な感慨はなかった。
それが少し不思議だった。LAPISのアンケートを受けてから二年以上が経った。その間に多くのことがあった。廃施設、ミオ、久坂、ユリ、Aライン。それが昨夜終わった。なのに今朝は、ただの朝だった。
ただの朝が来ることが、たぶん終わりの形だった。
起き上がって、顔を洗って、コーヒーを淹れた。
午前中、翔から連絡が来た。
「昨夜から今朝にかけて、Aラインの反応はゼロです」
「久坂さんが消した後も」
「はい」と翔は返した。「完全に静かです。念のため今日も監視しますが、動きはないと思います」
「翔さん、ありがとうございました」
「わたしはコードを読んでいただけです」と翔は書いた。「ほどいたのはミオさんです」
「翔さんがいたからほどけたと思います」
少し間があった。
「そうだといいです」と翔は返した。珍しく、素直な言葉だった。
「ミオさんは今日どうですか」
「朝、有栖川さんと近所を散歩したそうです」と翔は書いた。「連絡が来ました。短い文章でしたが」
「それだけで十分ですね」
「十分だと思います」と翔は返した。
昼前に、彩音から連絡が来た。
「終わったこと、久坂さんから聞きました」
「はい」と美佳は返した。
「@LAPIS_echoのことを、相談していいですか」と彩音は続けた。「久坂さんの機能が消えた今、残っているのはわたしが最初に始めた部分だけになりました」
美佳は少し考えた。
「彩音さんはどうしたいですか」
「続けるかどうか、まだ決めていません」と彩音は書いた。「ただ、続けるなら断れる形にしたい。美佳さんが言ってくれたように」
「断れる形というのを、彩音さん自身はどう考えていますか」
しばらく間があった。
「問いを押しつけない形」と彩音は返した。
「受け取るかどうかを、受け取る人が決められる形。共感ボタンみたいな、数で引っ張る仕組みを持たない形」
「それは彩音さんが最初に@LAPIS_echoを始めたときの形に近いですか」
「近いと思います」と彩音は書いた。「最初は本当にそれだけでした。問いを置いて、見た人が持って帰るかどうかを決める。それだけだった」
「それなら、続けることができると思います」と美佳は言った。「ただ、一つだけ」
「はい」
「久坂さんの機能が消えた今、彩音さんのアカウントを見ている人たちの中に、それでも問いへの依存が残っている人がいるかもしれない。その人たちのことを、頭の隅に置いておいてほしい」
「置いておきます」と彩音はすぐに返した。
「ユリさんのこと、覚えているから」
美佳は「それで十分だと思います」と返した。
午後のシフトが終わって、美佳はカフェの外に出た。
空がまだ明るかった。
ベンチに少し座った。スマートフォンを開いて、グループの通知を確認した。翔、朝倉、有栖川、それぞれから短い近況が入っていた。
翔「今日も静かです」
有栖川「ミオが夕方もう一度外に出ると言っています」
朝倉「美佳さん、今日のシフト終わりましたか」
美佳は朝倉に「終わりました」と返した。
すぐに朝倉から返信が来た。
「少し歩きませんか」
美佳は空を見た。明るかった。風が少しあった。悪くなかった。
「どこに」と返した。
「どこでも」と朝倉は書いた。「終わった日の夕方を、どこかで過ごした方がいい気がしました」
美佳は少し笑った。
「では、川の方に」と返した。
「十分後に、カフェの前で」と朝倉は書いた。
朝倉は九分後に来た。
いつものジャケットを着ていた。特に着飾ってはいなかった。それでいいと美佳は思った。
二人で川の方に向かって歩いた。
しばらく黙って歩いた。それが朝倉との距離感だった。話さなくても、歩けた。
川沿いの道に出ると、風が少し強くなった。水面が光を反射していた。
「終わった感じがしますか」と朝倉が言った。
「少し」と美佳は言った。「ただ、昨日と今日で、空の色が変わったわけじゃない。それが終わりの感じがするような、しないような」
「大きなことが終わるとき、案外そういうものかもしれません」と朝倉は言った。
「朝倉さんはどうですか」
「わたしは」と朝倉は少し考えた。「美佳さんが今日も歩いているのを見て、終わった気がしました」
美佳は朝倉を見た。朝倉は川を見ていた。
「わたしが歩いているから」
「美佳さんが普通に歩いていれば、たいていのことは終わっていると思うようにしています」と朝倉は言った。冗談のような、本気のような言い方だった。
美佳は「それは責任が重いですね」と言った。
「軽くていいです」と朝倉は言った。「ただ歩くだけでいいので」
二人は川沿いをしばらく歩いた。
夕方の光が水面に伸びていた。どこかで鳥が鳴いた。対岸に自転車が走っていった。
何もない夕方だった。
それが今日の終わりに、一番合っていると美佳は思った。
家に帰って、夕飯を作って、食べた。
食べながら、ミオのことを少し思った。今夜ミオは何を食べているだろう。有栖川と一緒かもしれない。あるいは一人かもしれない。どちらでもいいと思った。ミオが今夜ご飯を食べていれば、それで十分だった。
久坂のことも思った。消した後の夜を、久坂は今どこで過ごしているか。一人だろうと思った。久坂はたぶん、一人でいることを選ぶ人だった。それもいいと思った。
食器を洗いながら、美佳は明日のことを考えた。
明日もシフトがある。豆を量る。ミルの電源を入れる。老夫婦が来る。知らない誰かが来る。
Aラインのない朝が来る。
それが明日だった。
特別なことは何もなかった。それが一番、今の美佳に合っていた。
電気を消す前に、翔に一行送った。
「今日もありがとうございました」
翔から返信が来た。
「おやすみなさい」
美佳は「おやすみなさい」と返した。
電気を消した。
暗い部屋に、街の音だけがあった。
終わった夜は、終わった夜の音がした。それはいつもの夜の音と、ほとんど同じだった。
美佳はもう布団の中にいた。画面の光が暗い部屋に広がった。
「ありがとうございます」と返した。
「終わりました」と久坂は書いた。それから少し間があって「美佳さん、一つだけ言っていいですか」
「はい」
「あなたに設計者適性があると書いたのは、本当のことです。ただ」と久坂は続けた。
「あなたが引き受けなかったことも、正しかったと思っています。今は」
美佳はその言葉を読んで、少し考えた。
「久坂さんが今そう思えることの方が、大事だと思います」と返した。
既読がついた。返信はなかった。
美佳はスマートフォンを置いて、目を閉じた。
終わった。たぶん、本当に終わった。
そう思いながら、思ったより早く眠れた。
翌朝、目が覚めたとき、空が晴れていた。
カーテンの隙間から光が入っていた。美佳はしばらくそのまま天井を見ていた。
特別な感慨はなかった。
それが少し不思議だった。LAPISのアンケートを受けてから二年以上が経った。その間に多くのことがあった。廃施設、ミオ、久坂、ユリ、Aライン。それが昨夜終わった。なのに今朝は、ただの朝だった。
ただの朝が来ることが、たぶん終わりの形だった。
起き上がって、顔を洗って、コーヒーを淹れた。
午前中、翔から連絡が来た。
「昨夜から今朝にかけて、Aラインの反応はゼロです」
「久坂さんが消した後も」
「はい」と翔は返した。「完全に静かです。念のため今日も監視しますが、動きはないと思います」
「翔さん、ありがとうございました」
「わたしはコードを読んでいただけです」と翔は書いた。「ほどいたのはミオさんです」
「翔さんがいたからほどけたと思います」
少し間があった。
「そうだといいです」と翔は返した。珍しく、素直な言葉だった。
「ミオさんは今日どうですか」
「朝、有栖川さんと近所を散歩したそうです」と翔は書いた。「連絡が来ました。短い文章でしたが」
「それだけで十分ですね」
「十分だと思います」と翔は返した。
昼前に、彩音から連絡が来た。
「終わったこと、久坂さんから聞きました」
「はい」と美佳は返した。
「@LAPIS_echoのことを、相談していいですか」と彩音は続けた。「久坂さんの機能が消えた今、残っているのはわたしが最初に始めた部分だけになりました」
美佳は少し考えた。
「彩音さんはどうしたいですか」
「続けるかどうか、まだ決めていません」と彩音は書いた。「ただ、続けるなら断れる形にしたい。美佳さんが言ってくれたように」
「断れる形というのを、彩音さん自身はどう考えていますか」
しばらく間があった。
「問いを押しつけない形」と彩音は返した。
「受け取るかどうかを、受け取る人が決められる形。共感ボタンみたいな、数で引っ張る仕組みを持たない形」
「それは彩音さんが最初に@LAPIS_echoを始めたときの形に近いですか」
「近いと思います」と彩音は書いた。「最初は本当にそれだけでした。問いを置いて、見た人が持って帰るかどうかを決める。それだけだった」
「それなら、続けることができると思います」と美佳は言った。「ただ、一つだけ」
「はい」
「久坂さんの機能が消えた今、彩音さんのアカウントを見ている人たちの中に、それでも問いへの依存が残っている人がいるかもしれない。その人たちのことを、頭の隅に置いておいてほしい」
「置いておきます」と彩音はすぐに返した。
「ユリさんのこと、覚えているから」
美佳は「それで十分だと思います」と返した。
午後のシフトが終わって、美佳はカフェの外に出た。
空がまだ明るかった。
ベンチに少し座った。スマートフォンを開いて、グループの通知を確認した。翔、朝倉、有栖川、それぞれから短い近況が入っていた。
翔「今日も静かです」
有栖川「ミオが夕方もう一度外に出ると言っています」
朝倉「美佳さん、今日のシフト終わりましたか」
美佳は朝倉に「終わりました」と返した。
すぐに朝倉から返信が来た。
「少し歩きませんか」
美佳は空を見た。明るかった。風が少しあった。悪くなかった。
「どこに」と返した。
「どこでも」と朝倉は書いた。「終わった日の夕方を、どこかで過ごした方がいい気がしました」
美佳は少し笑った。
「では、川の方に」と返した。
「十分後に、カフェの前で」と朝倉は書いた。
朝倉は九分後に来た。
いつものジャケットを着ていた。特に着飾ってはいなかった。それでいいと美佳は思った。
二人で川の方に向かって歩いた。
しばらく黙って歩いた。それが朝倉との距離感だった。話さなくても、歩けた。
川沿いの道に出ると、風が少し強くなった。水面が光を反射していた。
「終わった感じがしますか」と朝倉が言った。
「少し」と美佳は言った。「ただ、昨日と今日で、空の色が変わったわけじゃない。それが終わりの感じがするような、しないような」
「大きなことが終わるとき、案外そういうものかもしれません」と朝倉は言った。
「朝倉さんはどうですか」
「わたしは」と朝倉は少し考えた。「美佳さんが今日も歩いているのを見て、終わった気がしました」
美佳は朝倉を見た。朝倉は川を見ていた。
「わたしが歩いているから」
「美佳さんが普通に歩いていれば、たいていのことは終わっていると思うようにしています」と朝倉は言った。冗談のような、本気のような言い方だった。
美佳は「それは責任が重いですね」と言った。
「軽くていいです」と朝倉は言った。「ただ歩くだけでいいので」
二人は川沿いをしばらく歩いた。
夕方の光が水面に伸びていた。どこかで鳥が鳴いた。対岸に自転車が走っていった。
何もない夕方だった。
それが今日の終わりに、一番合っていると美佳は思った。
家に帰って、夕飯を作って、食べた。
食べながら、ミオのことを少し思った。今夜ミオは何を食べているだろう。有栖川と一緒かもしれない。あるいは一人かもしれない。どちらでもいいと思った。ミオが今夜ご飯を食べていれば、それで十分だった。
久坂のことも思った。消した後の夜を、久坂は今どこで過ごしているか。一人だろうと思った。久坂はたぶん、一人でいることを選ぶ人だった。それもいいと思った。
食器を洗いながら、美佳は明日のことを考えた。
明日もシフトがある。豆を量る。ミルの電源を入れる。老夫婦が来る。知らない誰かが来る。
Aラインのない朝が来る。
それが明日だった。
特別なことは何もなかった。それが一番、今の美佳に合っていた。
電気を消す前に、翔に一行送った。
「今日もありがとうございました」
翔から返信が来た。
「おやすみなさい」
美佳は「おやすみなさい」と返した。
電気を消した。
暗い部屋に、街の音だけがあった。
終わった夜は、終わった夜の音がした。それはいつもの夜の音と、ほとんど同じだった。



