翌日の夜、翔から連絡が来た。
「明日、やります」
時刻は夜の八時だった。美佳はカフェの閉店作業を終えたところだった。エプロンを畳みながら画面を見た。
「核心部分に、手が届きましたか」
「届きました」と翔は返した。「今日の作業で、最後の一層まで来ました。ミオさんが、明日やろうと言いました」
「今日ではなく、明日」
「はい」と翔は書いた。「ミオさんが『一晩置きたい』と言いました。わたしはそれでいいと思いました」
一晩置く。最後の一手を前に、一日待つ。それはミオが自分で決めたことだった。
「分かりました」と美佳は返した。「明日、連絡をください」
「美佳さん」と翔は続けた。「明日、どこにいますか」
「カフェです。午前中はシフトがあります」
「了解しました」と翔は書いた。それから少し間があって「昨夜、有栖川さんと話しました」と来た。
「何を」
「ほどき終わった後のことを」と翔は返した。「Aラインが止まれば、新しい端末を引き込む動きは止まります。ただ、すでに接続されている端末がどうなるか、まだ分からない部分があります」
「接続されたままになりますか」
「根幹が止まれば、接続は維持できないはずです」と翔は書いた。「ただ、久坂さんが加えた機能は別経路で残っている。そこが完全に切れるかどうか、久坂さんの作業次第です」
「久坂さんは消すと言っていました」
「知っています」と翔は返した。「信じています。ただ、タイミングの問題があります。ミオさんがほどいた後、久坂さんが消すまでの間に、何かが起きる可能性がゼロではない」
美佳はエプロンを棚に置いた。
「その何かというのは」
「分かりません」と翔は書いた。二度目だった。翔が分からないと言うとき、それは本当に分からないときだと美佳は知っていた。
「備えておきます」と美佳は返した。
その夜、美佳は珍しく眠れなかった。
眠れないことを、焦らなかった。ただ、暗い天井を見ていた。
明日、ミオがほどく。
ミオが一晩置きたいと言った気持ちが、なんとなく分かる気がした。最後の一手は、勢いでやるものではない。一晩かけて、自分の中で準備する。自分が書いたものに、自分でけじめをつける夜が必要だった。
美佳は自分のことを考えた。
この一連の出来事の中で、自分は何をしてきたか。アンケートを受けた。ログが残った。
設計者適性最高位と書かれたファイルが届いた。それでも引き受けなかった。間に入った。人と人の間に立って、言葉を渡した。
引き受けないことと、向き合わないことは違う、と言ったのは自分だった。
その言葉は、今夜も変わらなかった。
翌朝、美佳はいつも通りに出勤した。
エプロンをつけた。豆を量った。ミルの電源を入れた。
老夫婦が来た。いつもの席に座った。
「今日は曇りね」と老婦人が言った。
「そうですね」と美佳は言った。
「でも、雨にはならないと思うわ」と老婦人は言った。
美佳は「そうだといいですね」と言って、コーヒーを出した。
午前中、翔からの連絡はなかった。
美佳は待ちながら、働いた。待つことと働くことが、今日は同じ速度で流れていた。
連絡が来たのは、昼を少し過ぎてからだった。
翔からではなく、ミオからだった。
「今、やっています」
それだけだった。美佳は厨房の隅でそれを読んだ。
「分かりました」と返した。「ゆっくりやってください」
既読がついた。返信はなかった。
美佳はホールに戻った。テーブルを拭いた。
注文を取った。コーヒーを淹れた。
十五分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
翔からメッセージが来た。
「核心部分、ほどけました」
美佳は手を止めた。
「Aラインは」
「止まっています」と翔は返した。「接続が、全部切れました」
「全部」
「はい」と翔は書いた。「今のところ、静かです」
美佳は厨房の壁を見た。白い壁だった。何もなかった。
静かに止まった。翔が心配していた、最後に何かが起きる可能性は、今のところなかった。
「ミオさんは」と美佳は打った。
少し間があった。
「泣いています」と翔は返した。「声は出ていません。ただ、泣いています」
美佳はしばらく動かなかった。
ミオが泣いている。自分が書いたものをほどき終わって、泣いている。それが悲しみなのか、安堵なのか、あるいはどちらでもない何かなのか、翔には分からないと思った。ミオ自身にも、今は分からないかもしれなかった。
「そばにいてあげてください」と美佳は送った。
「います」と翔は返した。
閉店間際、久坂からメッセージが来た。
「翔くんから連絡をもらいました。わたしの方も、今夜中に消します」
「よろしくお願いします」と美佳は返した。
「美佳さん」と久坂は続けた。
「はい」
「終わりますね」
美佳はその三文字を見た。
終わりますね。それは確認なのか、実感なのか、あるいは誰かに言わずにいられなかった言葉なのか。
「終わります」と美佳は返した。「久坂さんが消した後で」
「そうですね」と久坂は書いた。「最後まで、わたしの仕事です」
返信はそれきりだった。
エプロンを畳んで棚に置いた。
店の電気を消した。鍵をかけた。
外に出ると、空が思ったより明るかった。
曇っていたのに、西の端だけ雲が切れて、夕方の光が横から差していた。老婦人の言った通り、雨にはならなかった。
美佳は少し立ち止まった。
LAPISが始まったのは、二年以上前だった。アンケートを受けたとき、美佳はただ答えていた。問いの意味も、設計の意図も、知らなかった。それでも選んだことは、選んだことだった。
今夜、Aラインが止まった。
久坂が消した後、本当に終わる。
終わった後に何が残るかは、まだ分からなかった。久坂の後悔かもしれなかった。ミオの涙かもしれなかった。彩音の次の何かかもしれなかった。翔が廃施設で聞いた静寂かもしれなかった。
あるいは、昨日カフェに来た見知らぬ誰かの、まだ名前のついていない問いかもしれなかった。
美佳は歩き始めた。
夕方の光の中を、いつもの道を、家に向かって歩いた。
スマートフォンが振動した。
朝倉からだった。
「終わりましたね」
美佳は歩きながら返信を打った。
「終わりました。たぶん」
「たぶん、でいいと思います」と朝倉は返した。
美佳は少し笑った。
そうだ、たぶんでいい。全部が確かになるまで待たなくていい。今夜この光の中を歩いていることが、今日の終わりだった。
家まで、あと五分だった。
「明日、やります」
時刻は夜の八時だった。美佳はカフェの閉店作業を終えたところだった。エプロンを畳みながら画面を見た。
「核心部分に、手が届きましたか」
「届きました」と翔は返した。「今日の作業で、最後の一層まで来ました。ミオさんが、明日やろうと言いました」
「今日ではなく、明日」
「はい」と翔は書いた。「ミオさんが『一晩置きたい』と言いました。わたしはそれでいいと思いました」
一晩置く。最後の一手を前に、一日待つ。それはミオが自分で決めたことだった。
「分かりました」と美佳は返した。「明日、連絡をください」
「美佳さん」と翔は続けた。「明日、どこにいますか」
「カフェです。午前中はシフトがあります」
「了解しました」と翔は書いた。それから少し間があって「昨夜、有栖川さんと話しました」と来た。
「何を」
「ほどき終わった後のことを」と翔は返した。「Aラインが止まれば、新しい端末を引き込む動きは止まります。ただ、すでに接続されている端末がどうなるか、まだ分からない部分があります」
「接続されたままになりますか」
「根幹が止まれば、接続は維持できないはずです」と翔は書いた。「ただ、久坂さんが加えた機能は別経路で残っている。そこが完全に切れるかどうか、久坂さんの作業次第です」
「久坂さんは消すと言っていました」
「知っています」と翔は返した。「信じています。ただ、タイミングの問題があります。ミオさんがほどいた後、久坂さんが消すまでの間に、何かが起きる可能性がゼロではない」
美佳はエプロンを棚に置いた。
「その何かというのは」
「分かりません」と翔は書いた。二度目だった。翔が分からないと言うとき、それは本当に分からないときだと美佳は知っていた。
「備えておきます」と美佳は返した。
その夜、美佳は珍しく眠れなかった。
眠れないことを、焦らなかった。ただ、暗い天井を見ていた。
明日、ミオがほどく。
ミオが一晩置きたいと言った気持ちが、なんとなく分かる気がした。最後の一手は、勢いでやるものではない。一晩かけて、自分の中で準備する。自分が書いたものに、自分でけじめをつける夜が必要だった。
美佳は自分のことを考えた。
この一連の出来事の中で、自分は何をしてきたか。アンケートを受けた。ログが残った。
設計者適性最高位と書かれたファイルが届いた。それでも引き受けなかった。間に入った。人と人の間に立って、言葉を渡した。
引き受けないことと、向き合わないことは違う、と言ったのは自分だった。
その言葉は、今夜も変わらなかった。
翌朝、美佳はいつも通りに出勤した。
エプロンをつけた。豆を量った。ミルの電源を入れた。
老夫婦が来た。いつもの席に座った。
「今日は曇りね」と老婦人が言った。
「そうですね」と美佳は言った。
「でも、雨にはならないと思うわ」と老婦人は言った。
美佳は「そうだといいですね」と言って、コーヒーを出した。
午前中、翔からの連絡はなかった。
美佳は待ちながら、働いた。待つことと働くことが、今日は同じ速度で流れていた。
連絡が来たのは、昼を少し過ぎてからだった。
翔からではなく、ミオからだった。
「今、やっています」
それだけだった。美佳は厨房の隅でそれを読んだ。
「分かりました」と返した。「ゆっくりやってください」
既読がついた。返信はなかった。
美佳はホールに戻った。テーブルを拭いた。
注文を取った。コーヒーを淹れた。
十五分が過ぎた。
三十分が過ぎた。
翔からメッセージが来た。
「核心部分、ほどけました」
美佳は手を止めた。
「Aラインは」
「止まっています」と翔は返した。「接続が、全部切れました」
「全部」
「はい」と翔は書いた。「今のところ、静かです」
美佳は厨房の壁を見た。白い壁だった。何もなかった。
静かに止まった。翔が心配していた、最後に何かが起きる可能性は、今のところなかった。
「ミオさんは」と美佳は打った。
少し間があった。
「泣いています」と翔は返した。「声は出ていません。ただ、泣いています」
美佳はしばらく動かなかった。
ミオが泣いている。自分が書いたものをほどき終わって、泣いている。それが悲しみなのか、安堵なのか、あるいはどちらでもない何かなのか、翔には分からないと思った。ミオ自身にも、今は分からないかもしれなかった。
「そばにいてあげてください」と美佳は送った。
「います」と翔は返した。
閉店間際、久坂からメッセージが来た。
「翔くんから連絡をもらいました。わたしの方も、今夜中に消します」
「よろしくお願いします」と美佳は返した。
「美佳さん」と久坂は続けた。
「はい」
「終わりますね」
美佳はその三文字を見た。
終わりますね。それは確認なのか、実感なのか、あるいは誰かに言わずにいられなかった言葉なのか。
「終わります」と美佳は返した。「久坂さんが消した後で」
「そうですね」と久坂は書いた。「最後まで、わたしの仕事です」
返信はそれきりだった。
エプロンを畳んで棚に置いた。
店の電気を消した。鍵をかけた。
外に出ると、空が思ったより明るかった。
曇っていたのに、西の端だけ雲が切れて、夕方の光が横から差していた。老婦人の言った通り、雨にはならなかった。
美佳は少し立ち止まった。
LAPISが始まったのは、二年以上前だった。アンケートを受けたとき、美佳はただ答えていた。問いの意味も、設計の意図も、知らなかった。それでも選んだことは、選んだことだった。
今夜、Aラインが止まった。
久坂が消した後、本当に終わる。
終わった後に何が残るかは、まだ分からなかった。久坂の後悔かもしれなかった。ミオの涙かもしれなかった。彩音の次の何かかもしれなかった。翔が廃施設で聞いた静寂かもしれなかった。
あるいは、昨日カフェに来た見知らぬ誰かの、まだ名前のついていない問いかもしれなかった。
美佳は歩き始めた。
夕方の光の中を、いつもの道を、家に向かって歩いた。
スマートフォンが振動した。
朝倉からだった。
「終わりましたね」
美佳は歩きながら返信を打った。
「終わりました。たぶん」
「たぶん、でいいと思います」と朝倉は返した。
美佳は少し笑った。
そうだ、たぶんでいい。全部が確かになるまで待たなくていい。今夜この光の中を歩いていることが、今日の終わりだった。
家まで、あと五分だった。



