さよならを言わなかった恋

数分後、スマホが震えた。
着信画面に表示された名前を見て、指先が固まる。
――湊。
深呼吸を一つして、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
声が思ったより小さくなる。
少しの沈黙のあと、受話口の向こうから懐かしい声がした。
「結月?」
それだけで、胸の奥がほどけそうになる。
「うん」
「夜にごめん。迷ったんだけど……直接話したくて」
昔と変わらない声だった。
少し低くなったけれど、言葉を選ぶ話し方も、静かな間も同じ。
会っているときより、落ち着いて話せる気がするのが不思議だった。
「……どうしたの?」
そう聞きながら、ベッドの端に座る。
カーテンの隙間から、夜の街灯の光が差し込んでいた。
湊は少し黙ってから言った。
「今日さ、体育館で話しただろ」
「うん」
「結月が、遠くなったって言ったの……あれ」
息を止める。
「……気にしてた?」
「してる」
迷いのない答えだった。
「俺、戻ってきたら普通に話せると思ってた。昔みたいに」
静かな声が続く。
「でも違った。結月、笑ってるのに距離ある」
胸が痛む。
「……私だって分かんないよ」
思わず口をついて出た。
「急にいなくなって、何年も会わなくて、急にまた同じ教室にいて……どうしたらいいか分かんない」
声が少し震える。
受話口の向こうが静かになる。
「……ごめん」
またその言葉。
「謝らないで」
すぐに言った。
「謝られると、ほんとに終わったことみたいになる」
言ってから、自分でも驚く。
こんなことを言うつもりじゃなかったのに。
しばらく沈黙が流れたあと、湊が小さく言った。
「終わってないよ」
心臓が大きく鳴る。
「俺の中では、ずっと終わってない」
息が苦しくなる。
「最後に話した日のこと、覚えてる?」
「……覚えてる」
校門の前。
夕焼け。
他愛もない話。
そして――
“また明日ね”
「次の日、言おうと思ってたことあったんだ」
声が低くなる。
「でも、言えなかった」
手が震える。
「……なに?」
聞いてはいけない気がした。
でも、聞かずにいられなかった。
長い沈黙。
時計の針の音だけが聞こえる。
「――好きだった」
時間が止まる。
「結月のこと」
言葉が出ない。
息の仕方も分からない。
「転校、急に決まってさ。前日に知って……間に合わなかった」
胸がいっぱいになる。
あの日、もし。
あと一日あったら。
違う今になっていたのだろうか。
「……ずるい」
かすれた声が出た。
「今言うの、ずるいよ」
涙がにじむ。
「私は、何も知らないまま……」
声が途切れる。
湊はすぐには何も言わなかった。
そして、静かに言った。
「今は、言わない方がよかった?」
答えられない。
だって――
嬉しいのに、苦しいから。
颯真の顔が浮かぶ。
“今の結月が好き”
胸が締めつけられる。
「……分かんない」
それしか言えなかった。
「ただ」
私は小さく息を吸う。
「会わなかったままの方が、楽だったかも」
言った瞬間、涙がこぼれた。
受話口の向こうで、湊がかすかに息をのむ気配がした。
夜は静かだった。
でも、止まっていた時間だけが、
確実に動き出してしまっていた。