さよならを言わなかった恋

次の日の放課後、体育館はいつもより騒がしかった。
新学期が始まってまだ数日。
どの部活も一年生の見学でにぎわっている。
女子バスケ部の私は、コートの端でストレッチをしながら視線を上げた。
体育館の半分では男子バスケ部が練習を始めている。
ドリブルの音、シューズのきしむ音、顧問の指示。
慣れたはずの音なのに、今日は妙に落ち着かない。
理由は分かっている。
――隣のコート。
ネットを挟んだ向こう側では、男子バレー部が練習していた。
そして、その中にいた。
湊はまだジャージ姿で、ボール出しをしている。
輪の外側からトスを上げたり、拾ったボールを渡したりしているだけ。
試合形式の練習には入っていない。
「結月ー、ぼーっとしてる!」
先輩の声に慌てて姿勢を戻す。
「すみません!」
パス練習が始まる。
ボールを受け取って返す。単純な動きの繰り返し。
それでも、視界の端にどうしても入る。
湊の姿。
ボールを拾って、後輩に渡して、少し笑っている。
中学の頃、休み時間に見ていた横顔と同じだった。
「……知り合い?」
隣でパスをしていた菜々が小声で聞いた。
「え?」
「さっきから、ずっとあっち見てる」
慌ててボールを落としそうになる。
「見てないよ」
「いや見てる」
即答だった。
菜々は苦笑いする。
「バレー部のあの人でしょ。転校生の」
胸が跳ねる。
「同じクラス?」
「……うん」
「ふーん」
それ以上は聞いてこなかったけど、何かを察したような顔をしていた。
そのとき、男子バスケ部のシュート練習のボールが大きく弾んだ。
コートの外へ転がってくる。
私の足元に止まる。
拾い上げて顔を上げた瞬間、目が合った。
颯真だった。
「悪い、結月!」
走ってきて、私の前で止まる。
「ナイスキャッチ」
軽く笑う。
汗で前髪が少し濡れている。
「ほら」
ボールを渡すと、颯真は受け取りながらふと私の視線の先を見た。
バレー部のコート。
そして、湊。
一瞬だけ、表情が変わる。
「……あいつ、バレー部なんだ」
「うん」
「へぇ」
それだけ言って、颯真はコートへ戻っていった。
でもさっきより少しだけ、シュートが荒くなっていた。
練習が終わりに近づく頃、私は給水のために体育館の外に出た。
夕方の風が火照った体に気持ちいい。
ペットボトルを口に運んだとき、扉が開く音がした。
振り向く。
湊だった。
驚いたように目を丸くする。
「……結月」
「お疲れさま」
それだけの会話なのに、妙に緊張する。
少しの沈黙。
遠くでボールの音が響いている。
「バスケ、続けてたんだな」
「うん。湊も」
「一応な」
苦笑する。
「もう引退したんだけど、たまに手伝いに来てる」
「好きなんだね」
「……うん」
風が吹いて、髪が揺れる。
湊が少しだけ視線を落とした。
「結月、変わったな」
「どこが?」
「ちゃんと笑うようになった」
心臓が静かに痛む。
それは、あの頃笑えなかった時間があったことを、
彼が知っているみたいだったから。
「……湊は」
言いかけて、言葉が止まる。
“どうして転校したの?”
聞きたい。
でも、聞いたら何かが終わる気がする。
代わりに違う言葉が出た。
「前より、遠くなった気がする」
湊が少しだけ驚いた顔をする。
そのとき。
「結月!」
体育館の中から颯真の声が響いた。
「顧問呼んでる!」
振り向くと、入口のところに颯真が立っていた。
こちらを見ている。
そして、湊にも気づく。
ほんの一瞬の沈黙。
「……今行く」
私はそう答えた。
湊の方を見る。
何か言いたそうな表情。
でも、言葉にはならない。
「じゃあ、また」
そう言って体育館に戻る。
背中に視線を感じたまま、扉を閉めた。
胸が少しだけ苦しかった。
同じ場所にいるのに、
三人の距離が、少しずつ変わり始めている気がした。