さよならを言わなかった恋

放課後のチャイムが鳴ると、教室は一気にざわついた。
「部活だー」「だるーい」と声が飛び交う中、私はゆっくりと教科書を鞄にしまう。
視線を上げると、窓際の後ろの席――湊の席が見えた。
もう立っている。
誰かと話しているわけでもなく、静かに鞄を肩にかけていた。
その仕草が、昔と変わっていなくて胸がきゅっとなる。
話しかけるべきだろうか。
でも、用事があるわけじゃない。
迷っているうちに、彼は教室を出ていった。
……行っちゃった。
ほんの少しだけ、肩の力が抜ける。
同時に、よく分からない寂しさが残った。
「結月、帰んないの?」
後ろから声がして振り向くと、颯真が立っていた。
もう部活用のジャージに着替えている。
「うん、今から」
「一緒に行く?」
「え、バスケ部って体育館でしょ」
「そうだけど、途中まで同じだろ」
軽く言われて、頷いた。
昇降口で靴に履き替える。
外に出ると、夕方の光が少しオレンジ色になっていた。
春の空気はまだ冷たいのに、どこか柔らかい。
校門へ向かって歩き出すと、少し前に見覚えのある背中があった。
湊だった。
一人で歩いている。
歩幅も、歩く速さも、昔と同じ。
思わず足が止まる。
「……知り合い、あいつ?」
颯真が小さく聞いた。
「え?」
「転校生。さっきからずっと見てる」
慌てて視線を逸らす。
「……別に」
「ふーん」
納得していない声だった。
少しの沈黙のあと、颯真が口を開く。
「中学のとき、仲良かったんだな」
「……普通だよ」
「普通の顔じゃなかったけど」
足が止まりそうになる。
颯真は前を見たまま言った。
「再会した人の顔っていうより、ずっと会いたかった人見た顔してた」
胸が痛くなる。
言い返せない。
図星すぎて、何も言葉が出てこなかった。
そのとき、前を歩いていた湊がふと振り返った。
目が合う。
一瞬、驚いたような表情。
そして、小さく手を上げた。
「……帰り?」
近づいてくる。
心臓が急に早くなる。
「う、うん」
「途中まで一緒だな」
そう言って、自然に隣に並んだ。
あまりにも普通で、現実感がなくなる。
三人で歩き始める。
沈黙が落ちる。
颯真は少しだけ空気を読んだのか、前に出た。
「俺、ここで曲がるから。部活遅れるし」
「あ、うん」
「結月、また明日な」
軽く手を振って、走っていく。
あっという間に背中が遠くなる。
――二人きりになった。
足音だけが響く。
言葉が出ない。
何を話せばいいのか分からない。
「……家、こっちだったよな」
先に口を開いたのは湊だった。
「覚えてるの?」
「うん」
少し笑う。
「何回も一緒に帰ったし」
その一言で、記憶がよみがえる。
夕焼けの道。
コンビニに寄り道した日。
テストの点数で笑い合った帰り道。
胸が苦しくなる。
「……覚えてる?」
「忘れるわけない」
即答だった。
思わず顔を上げる。
湊は前を見たまま、静かに言った。
「最後の日も」
心臓が大きく鳴る。
――最後の日。
触れないようにしていた記憶。
「……“また明日”って言った」
小さな声だった。
私は何も言えなかった。
あの日、本当に明日が来ると思っていた。
次の日も、その次の日も、同じ帰り道が続くと思っていた。
「次の日、学校来なかったよな」
「……うん」
「結月、怒ってると思ってた」
「怒ってない」
即座に否定する。
少し間が空く。
「……寂しかっただけ」
言った瞬間、しまったと思った。
でももう遅い。
湊の足が一瞬止まる。
風が吹く。
桜の花びらが、二人の間を通り過ぎた。
「……俺も」
小さな声だった。
「ちゃんと、さよなら言えなかったの」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥にしまっていた時間が、静かに動き出した。