さよならを言わなかった恋

ホームルームが始まっても、先生の話はほとんど耳に入ってこなかった。
黒板の文字を写しているふりをしながら、私は何度も窓際の後ろの席を見てしまう。
視線を向けるたび、胸が落ち着かなくなる。
――いる。
当たり前のことなのに、まだ現実に慣れない。
湊は、静かに前を向いて座っていた。
騒がしい教室の中でも、どこか空気が違う。
昔と同じだ。目立つわけじゃないのに、なぜか目に入ってしまう。
中学のときも、そうだった。
休み時間、私はよく彼の席の近くにいた。
特別な用事があったわけじゃない。
ただ、同じ話をして、同じことで笑っていただけ。
それだけだったのに――
「じゃあ、席替えは後日な」
先生の声で、我に返る。
チャイムが鳴ると同時に教室が一気に騒がしくなる。
周りでは自己紹介や部活の話が始まっていた。
私は立ち上がれなかった。
話しかけたい。
でも、何を言えばいいのか分からない。
“久しぶり”?
それだけじゃ足りない気がする。
“なんでいなくなったの?”?
――聞けるわけがない。
迷っているうちに、先に声がした。
「結月」
名前を呼ばれて、肩が跳ねた。
振り向くと、すぐ後ろに湊が立っていた。
近い。
思っていたより背が高くなっていて、視線が自然と上がる。
昔と同じ顔なのに、少し大人びて見えた。
「……久しぶり」
湊が、困ったように少し笑う。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
言いたいことはたくさんあるのに、声が出ない。
「……うん」
やっとのことで、短く返す。
沈黙が落ちる。
周りはにぎやかなのに、ここだけ静かだった。
「同じクラス、だな」
「……うん」
それしか言えない自分が情けない。
こんな再会を想像していたわけじゃないのに。
本当は、もっと普通に話せると思っていた。
何年も経ってるし、きっと平気だと。
――全然、平気じゃない。
「元気、だった?」
湊の声は、昔と変わらず優しかった。
その優しさが、逆に苦しい。
「……普通」
嘘だった。
でも本当のことも言えない。
“いなくなったあと、しばらく教室に行きづらかった”
“帰り道を一人で歩くのが嫌だった”
“名前を聞くだけで胸が痛かった”
そんなこと、言えるはずがない。
湊は何か言いかけて、少し視線を落とした。
「……ごめん」
小さな声だった。
私は思わず顔を上げる。
「え?」
「急にいなくなって」
空気が、止まった。
ずっと聞けなかった言葉。
でも、欲しかったのはそれじゃない。
謝られると、終わってしまいそうで怖い。
「……ううん」
首を横に振る。
「仕方ないじゃん。転校だったんでしょ」
笑ってみせる。
うまくできたか分からない。
湊は少しだけ困った顔をした。
「……結月、変わらないな」
「どこが?」
「無理して笑うとこ」
心臓が跳ねる。
何も言い返せない。
図星だった。
そのとき。
「おー、もう仲良くなってんじゃん」
明るい声が割って入った。
振り向くと、颯真が机に肘をついてこちらを見ていた。
「転校生、湊だっけ? 俺、颯真。同じクラスだしよろしくな」
人懐っこく笑う。
湊は少し驚いたようだったけど、すぐに頷いた。
「……よろしく」
「結月、知り合いだったの?」
颯真が私に聞く。
一瞬、言葉に詰まる。
「……中学、一緒だった」
それだけ答える。
それ以上の言葉が出てこない。
「へぇー、幼なじみみたいな感じ?」
軽い調子の質問に、胸がざわつく。
違う、と言い切れない。
でも、同じとも言えない。
「……まあ、そんな感じ」
曖昧に答えると、颯真は納得したように笑った。
「そっか。じゃあ湊、分かんないことあったら結月に聞けよ。こいつ学校のことやたら詳しいから」
「余計なこと言わないで」
思わず言い返すと、颯真は楽しそうに笑った。
そのやり取りを見て、湊が少しだけ目を細める。
「……仲いいんだな」
その一言に、なぜか胸が痛くなった。
違うのに。
そうじゃないのに。
うまく説明できないまま、チャイムが鳴る。
次の授業の準備で教室が慌ただしくなる。
湊は自分の席へ戻っていった。
私は席に座りながら、黒板を見つめる。
数メートル先にいるのに、遠い。
昔より近くにいるはずなのに、
あの頃より距離が分からない。
“また明日ね”と言った日の方が、
ずっと隣にいた気がした。
再会したのに、
始まった感じがしない。
むしろ――
止まっていた時間の続きを、
どう進めればいいのか分からなかった。