さよならを言わなかった恋

六月の空は、やけに青かった。
湊が転校する日。
ホームルームは、いつもより早く終わった。
みんなが順番に声をかける中、私は席から動けなかった。
前に行けば、終わる気がしたから。
チャイムが鳴る。
「じゃあな」
クラスメイトに囲まれながら、湊が教室を出る。
扉の前で一度だけ振り返った。
目が合う。
ほんの一瞬だった。
でも、その一瞬で分かった。
――これで、本当に最後だ。
私は立ち上がった。
「結月?」
後ろから颯真の声がしたけれど、振り返らなかった。
廊下を走る。
階段を降りる。
昇降口を抜けて、校門へ。
息が苦しい。
でも止まれない。
校門の外、見慣れた背中があった。
「……湊!」
振り向く。
少し驚いた顔。
そして、すぐに優しく笑う。
「来ると思った」
涙があふれる。
言いたいことが多すぎて、何から言えばいいか分からない。
「……あのね」
息を整える。
「私、ずっと考えてた」
湊は何も言わずに待っている。
「どっちが好きか、とかじゃなかった」
声が震える。
「颯真といる時間も、湊と過ごした時間も、どっちも本当で……消せなかった」
うつむく。
「だから、選べなかった」
静かな時間が流れる。
「でも」
顔を上げる。
「やっと分かった」
涙がこぼれる。
「私が好きだったのは、湊と過ごした“あの時間”だった」
湊の目が、少し揺れる。
「今の湊も大事。でも――」
胸が痛む。
「私は、あの頃の気持ちのまま、止まってた」
言葉にするたび、心が締めつけられる。
「だから」
小さく息を吸う。
「一緒には行けない」
はっきり言った。
涙が止まらない。
「湊といたら、きっと幸せだと思う。
でもそれは、“未来”じゃなくて“続き”になっちゃう」
沈黙。
風が吹く。
校門の横の木の葉が揺れた。
湊は、しばらく何も言わなかった。
そして、ゆっくり笑った。
「そっか」
責める声ではなかった。
「……ありがとう」
「え?」
「ちゃんと、言ってくれて」
胸が痛む。
「俺もさ」
少し空を見上げる。
「やっと終われる」
目を閉じる。
「結月の中に残れたなら、それでいい」
涙があふれる。
「……忘れないよ」
「うん」
優しく頷く。
「俺も忘れない」
少しだけ、距離を詰める。
でも、触れない。
「さよなら、結月」
その一言が、胸の奥に落ちた。
私は泣きながら頷いた。
湊は背を向け、歩き出す。
振り返らない。
だんだん小さくなって、やがて見えなくなった。
その場に立ち尽くす。
終わったのに、
なくなったのに、
不思議と空っぽじゃなかった。
「……結月」
後ろから声がする。
振り向くと、颯真がいた。
少し息を切らしている。
全部、見ていたのかもしれない。
私は何も言えなかった。
颯真は、しばらく黙ってから言った。
「行こう」
それだけだった。
隣に並ぶ。
歩き出す。
夕方の帰り道。
前と同じ道なのに、少しだけ違う。
「……俺、待ってていい?」
不安そうに聞く。
私は少し考えてから答えた。
「うん。でも」
空を見る。
高い青空。
「今度は、“今の気持ち”で向き合いたい」
颯真が小さく笑う。
「それでいい」
並んで歩く。
胸の奥はまだ痛い。
きっと、ずっと忘れない。
あの春のことも、
言えなかった言葉も、
届かなかった想いも。
でも――
あれは確かに、恋だった。
終わった恋じゃない。
人生の中に残り続ける、ひとつの季節。
春の風が、静かに吹いた。