さよならを言わなかった恋

五月の終わり、風はもう春というより初夏の匂いになっていた。
その日のホームルームは、いつもより静かだった。
担任がプリントを配り終えたあと、何気ない調子で言った。
「湊、来月から転校な」
一瞬、教室の空気が止まる。
「親の仕事の都合で、前の学校に戻ることになった。残りはあと三週間だ。仲良くしてやれよ」
ざわめきが広がる。
周りの生徒が湊に声をかけている。
私は、何も聞こえなかった。
――決まった。
分かっていたはずなのに、
胸の奥が真っ白になる。
気づいたら、湊の方を見ていた。
湊も、私を見ていた。
少しだけ、困ったように笑う。
それが、余計に苦しかった。
放課後、私は体育館にも行かず、校舎裏にいた。
落ち着かないまま、ただ時間が過ぎるのを待っていた。
足音が近づく。
「結月」
振り向かなくても分かった。
「……聞いた」
「うん」
それだけで、言葉が途切れる。
沈黙が続く。
遠くで部活の掛け声が聞こえるのに、ここだけ時間が止まっているみたいだった。
「また、だな」
湊が苦笑する。
「今度はちゃんと、最後までいるけど」
胸が痛む。
「あと三週間」
口にすると、急に現実になる。
「短いな」
「……短いね」
風が吹いて、桜の葉が揺れる。
もう花は残っていない。
「結月」
名前を呼ばれる。
顔を上げると、真っ直ぐ見られていた。
「俺さ、今回戻ってきたの、偶然じゃないんだ」
「え?」
「前に転校したあと、ずっと後悔してた」
静かな声だった。
「言えなかったことも、会えなかったことも」
胸が締めつけられる。
「もう一回だけ会えたらいいなって思ってた」
少し笑う。
「そしたら、本当に同じ学校になった」
信じられない気持ちで聞いていた。
「だから、今度こそ逃げたくなかった」
一歩近づく。
「結月」
距離が近い。
息が浅くなる。
「好きだよ」
はっきりした声だった。
「前の続きじゃない。
 今の結月が好き」
涙がにじむ。
嬉しいのに、苦しい。
「……遅いよ」
声が震える。
「もっと早く、言ってくれたらよかったのに」
「うん」
否定しなかった。
「俺もそう思う」
静かに続ける。
「でも、今しか言えなかった」
言葉が出ない。
胸がいっぱいで、息がうまくできない。
「付き合ってほしい、って言いたいけど」
湊は少し笑った。
「それは言わない」
「……どうして」
「結月が、選べなくなるから」
驚いて顔を見る。
「俺、結月に残るのが“後悔”だけになるの嫌なんだ」
夕暮れの光が差し込む。
「俺のこと、忘れなくていい。
 でも、縛りたくない」
涙がこぼれる。
「……優しすぎる」
「優しくないよ」
少し困ったように笑う。
「本当は、連れていきたい」
心臓が強く鳴る。
「でも、それは結月の未来じゃない」
沈黙が落ちる。
「だから、約束して」
小さく息を吸う。
「俺がいなくなったあとも、ちゃんと前に進んで」
涙が止まらない。
「……無理だよ」
「無理じゃない」
優しく言う。
「結月は、ちゃんと笑えるから」
そのとき、足音が聞こえた。
振り向くと、少し離れたところに颯真が立っていた。
気づいていたのか、黙っていたのか。
表情は分からない。
数秒の沈黙。
颯真は、何も言わずに近づいてくる。
そして私の隣に立った。
「……迎えにきた」
それだけ言う。
湊を見る。
まっすぐ視線を返す。
敵意も、怒りもなかった。
ただ、静かな決意があった。
夕暮れの校舎裏で、三人が並ぶ。
これが――
きっと、最後の放課後になると、
なぜか分かってしまった。