さよならを言わなかった恋

その日の夜、勉強机に向かっても、シャーペンはほとんど進まなかった。
ノートの同じ行に、意味のない線が何本も重なっている。
颯真は小さく舌打ちをして、ペンを置いた。
「……無理」
椅子の背にもたれる。
天井を見上げると、昼の光景が何度も浮かんできた。
夕焼けの昇降口。
並んで立っていた二人。
――結月と、湊。
分かっていた。
あの距離は、今日できたものじゃない。
再会したその瞬間から、
自分が入り込めない場所があることを、颯真は気づいていた。
スマホを手に取る。
トーク画面を開く。
「結月」
名前を見つめるだけで、胸が少し痛む。
“大丈夫?”
短く打って、消す。
“今日、帰り送る”
打って、また消す。
送ったところで、意味がない気がした。
――俺は、“今”にいる人間だ。
今日、彼女が見ていたのは、過去じゃない。
“過去から続いている気持ち”だった。
それが分かってしまったから、余計に苦しい。
颯真はベッドに倒れ込んだ。
暗い部屋で、スマホの光だけが顔を照らす。
「……怖いな」
ぽつりと声が漏れた。
今まで、バスケも、テストも、勝負事で怖いと思ったことはなかった。
頑張れば追いつけると思っていたから。
でも、これは違う。
どれだけ隣にいても、
どれだけ笑わせても、
埋められない時間がある。
――出会う前の時間。
「勝てないだろ、そんなの……」
苦笑が漏れる。
それでも、諦めたくないと思ってしまう自分がいる。
結月が笑うと嬉しい。
名前を呼ばれると安心する。
帰り道が同じだと、それだけで一日がよかった気がする。
いつの間にか、日常の中心になっていた。
スマホをもう一度見る。
迷って、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。
一回、二回、三回――
「……もしもし?」
小さな声が返ってきた。
胸が大きく鳴る。
「起きてた?」
「うん……颯真?」
少し驚いた声だった。
「ごめん、急に」
沈黙が流れる。
夜の静けさが、そのまま二人の間に落ちる。
「どうしたの?」
優しい声だった。
それだけで、喉が詰まりそうになる。
颯真は、少しだけ息を吐いた。
「……さ」
言葉を探す。
強がるのをやめたら、思っていたより声が震えた。
「俺、いいやつでいるの、やめたい」
電話の向こうが静かになる。
「待つって言ったけどさ、本当は待ちたくない」
本音だった。
「結月が、誰かを選ぶのを待つの、怖い」
手に汗が滲む。
「湊のこと、まだ好きなんだろ」
否定の声は返ってこない。
それが答えだった。
胸が痛むのに、なぜか少しだけ楽だった。
「……それでも」
颯真は続ける。
「俺、結月が好きだよ」
初めて、自分から言った。
「過去があるのも分かってる。忘れられないのも分かる」
声が少し掠れる。
「でも、俺は今ここにいる」
ベッドの上で、拳を握る。
「結月のこれからに、俺もいたい」
沈黙。
長い時間が流れた気がした。
やがて、小さな声が返ってくる。
「……颯真」
その呼び方だけで、胸が締めつけられる。
「ずるいよ」
かすれた声だった。
「そんなこと言われたら、余計分からなくなる」
「分からなくていい」
すぐに言う。
「すぐ答え出さなくていい。でも――」
一度、言葉を止めた。
「俺から逃げないで」
静かな願いだった。
「俺は逃げないから」
電話の向こうで、息を飲む気配がする。
「……うん」
小さな返事。
その一言だけで、胸がいっぱいになる。
通話を切ったあと、颯真は天井を見つめた。
答えはまだ出ていない。
たぶん、すぐには出ない。
それでも思った。
もし負けるとしても、
何も言わずに終わるより、ずっといい。
夜は静かだった。
けれどこの夜は、
三人の関係を、もう後戻りできないところまで進めていた。