さよならを言わなかった恋

春は、何もかもを新しくするのが上手だ。
校門をくぐった瞬間、まだ少し冷たい風が頬に触れた。
桜は満開の少し手前で、薄い花びらがちらほらと落ちている。
去年と同じ景色のはずなのに、胸の奥が落ち着かないのは、新しいクラスが貼り出されているからだと分かっていた。
昇降口の前は人でいっぱいだった。
笑い声と、名前を呼ぶ声と、ため息が混ざっている。
「結月、早く見よ!」
友達に腕を引かれながら、私は掲示板の前に立った。
クラス表に視線を向ける。
――二年三組。
自分の名前を探す。
指でなぞりながら、下へ、下へと追っていく。
「……あった」
小さく息を吐いた、その瞬間だった。
すぐ上に書かれていた名前を、視界が勝手に拾った。
 湊 陸
一瞬、音が消えた気がした。
周りの声が遠くなる。
風の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「え……」
口の中が乾いて、言葉が出ない。
見間違いだと思って、もう一度見る。
けれど、何度見てもそこにある。
――同じ名前。
忘れられるわけがない名前。
胸がどくん、と大きく鳴った。
「どうしたの? 結月?」
友達に覗き込まれて、慌てて視線を外す。
「……なんでもない」
うまく笑えたか分からなかった。
中学二年の秋。
何の前触れもなく、突然いなくなった人。
“また明日ね”
そう言って別れた次の日、もう学校にいなかった人。
転校した理由も、最後の言葉も、何も知らないまま。
思い出の中にしまって、触れないようにしてきた名前。
――どうして、ここにいるの。
心臓の音がうるさい。
指先が冷たくなる。
「同じクラスじゃん、よかったね」
軽い声が横から聞こえた。
振り向くと、同じクラス表を見上げていた男子が笑っていた。
見慣れた顔。
「颯真……」
「ん? そんな驚くこと?」
彼は不思議そうに私を見る。
「いや、だって去年も同じクラスだったし。俺、また結月と一緒だわ」
颯真は気楽に言って、肩をすくめた。
その何気なさに、少しだけ呼吸が戻る。
「……そうだね」
「なんか元気ない?」
「ないよ」
そう答えながら、私はもう一度だけクラス表を見た。
 湊 陸
 結月
並んでいるわけでも、近いわけでもない。
ただ同じ紙の上にあるだけなのに、胸が締めつけられる。
会うわけがないと思っていた。
同じ場所に立つことも、同じ時間を過ごすことも、もうないと思っていた。
それなのに。
「結月?」
颯真の声に、はっとする。
「……教室、行こ」
自分の声が少しだけ震えていた。
歩き出す。
廊下の窓から春の光が差し込んでいる。
でも、足取りは軽くならなかった。
教室の扉の前で、私は一度立ち止まる。
理由もなく、深呼吸をした。
――いるかもしれない。
そんなこと、分かりきっているのに。
手が、少しだけ震える。
扉を開けた。
ざわめく教室。
知らない席、知らない空気。
そして。
窓際の後ろの席に、
懐かしい横顔があった。
黒板の方を見て、静かに座っている。
少し伸びた髪。
昔より背が高くなっているのに、表情だけは変わっていない。
間違えようがなかった。
息が止まる。
そのとき、彼がふと顔を上げた。
視線が、まっすぐ合う。
――時間が、止まった。
驚いたように目を見開いて、
そして、ほんのわずかに柔らかく笑った。
「……結月?」
名前を呼ばれた瞬間、
胸の奥に閉じ込めていた何かが、音を立ててほどけた。
何年も前の“また明日”が、
いま、春の教室で続きを始めてしまった。