「せっかく住ませてくれたんだから、何かお礼したいな」
いつまで続くかわからない同居が始まってからすぐ、犬飼さんがこんなことを言い出した。そして何か思い当たった彼は服装を制服からジャージに着替え、その上からエプロンをつけ始めた。長い前髪を紐で縛ると、綺麗な額があらわになる。
「僕が夕飯作ります」
「え、あ、うん。ありがとう」
わたしはなんとなく返事する。まだ二人の生活に慣れていない……というか、まだ始まったばかりで全然心の準備ができていないのだ。試しに何を作るのか問いかけると、「筑前煮」と一言で済まされた。
筑前煮か。昔よく母方の祖父が作ってくれていたな。優しい味で、どこか不器用な感じがして。
おばあちゃんは早くに死んじゃったし、わたしのこと可愛がってくれてたの、おじいちゃんだけだったんだな。
物思いに耽りながら、わたしはぼーっと天井を眺めた。無機質感の強いLEDライトが優しい光を発している。
「うう……痛い」
調理開始から五分後、すぐに犬飼さんの泣き声が聞こえてきた。わたしは慌てて台所へ向かう。
「たすけて……指切った」
「ええ!?大丈夫?」
確かに左の中指の第二関節あたりが切れている。どうやったらそこが切れるのやら。
涙目の彼もまた新鮮だった。わたしは急いで救急箱の絆創膏を取りに行く。過保護なのはどうやら祖父に似たらしい。
絆創膏を貼ってあげると、犬飼さんは「上手だね」と褒めてくれた。褒められるとなんだか照れくさい。
「ああああああ。にんじん焦げた」
にんじん焦げた?
「え、ちょっと待って。筑前煮のにんじん焼こうとしてた?」
「焼くんじゃないのか?」
「焼かないよ!」
わたしはインターネットで筑前煮の正しい作り方のサイトを検索する。作り方を知っていたはずの筑前煮の作り方ですら、彼をみていると感覚が麻痺してわからなくなってきていた。
「油とか無駄に入れすぎ!しいたけ焼かない、里芋焼かない、れんこん焼かない、玉ねぎいらない!」
どんどんNOを突きつけられて犬飼さんはしょぼんと肩を落とす。そんな彼になんと返せばいいのかわからない。
わたしたちは出来の悪い筑前煮が並んだ食卓で、ただ黙々と夕飯を済ませていた。
「料理苦手なら、料理以外の何かでお礼すればいいじゃない」
わたしは思ったことを彼に告げる。しかし彼は不服そうな顔をした。
「でも、僕は何やってもうまくいかないダメ犬なので……」
「ほら、それ」
わたしはきっぱりいうことにした。
「そうやって気分下げてるからうまくいくこともうまくいかないんだよ」
「そ、そうなの?」
希望があるのかもしれない、と犬飼さんは目を輝かせた。
「今すぐじゃなくていい。犬飼さんが頑張れることをできるだけやるのがいいと思う」
やればいい、と、やるのがいい、じゃ、意味が全然違うと思う。わたしは慎重に言葉を選びながら彼に言った。
「そっか、そうなのかな……」
どこまで行ってもピュアで純粋なのだろう。癖のない彼の黒髪だが、嬉しくなるとぴょこっと立つ毛があるらしい。彼の毛が嬉しそうにゆらゆらと揺れている。あれがアニメでよく見る「アホ毛の可動」のリアル版なのか。
「うん!きっと何か特技の一つや二つあるよ!!」
わたしはリアルアホ毛を見れたことで嬉しくなって、彼にとびきりのスマイルを送ってしまった。やばいぞ。彼に気に入られる気はないし、むしろ「全然好きじゃないですよ」アピールしなくてはいけないのに。
「……」
ひゅーん
ぱたりと犬飼さんは椅子ごと後ろ向きに倒れていった。そして大きなぶちっという音とともに鼻血が噴き出す。
「大丈夫?犬飼さん!?」
わたしが彼に駆け寄って手当てをしてあげると、彼は小声でつぶやいた。
その声はわたしに届いていない。
「やばい、可愛すぎて●んじゃう」

