「リエル、貴様の本音を聞いてやる。言え!」
「私、王都で自立して幸せになります。さようなら」
灰色の曇り空から大粒の雪が舞い降りる、冬の朝。
王国の北西にある地方都市オルディナの駅のホームで、ネーベルハルト子爵家の養女リエルは元婚約者に別れを告げた。
元婚約者のゲオルグは、尊大な態度で愛人契約書が突き付けてきたが。
「ふん、僕の気を引こうとして家出なんてめんどくさいことしやがって。愛人として囲ってやるから一緒に帰ろう」
「ゲオルグ様……お話を聞くと仰ったのに。結局、何も届いていないのですね」
契約書には『リエルはゲオルグ様好みの女性になるよう努力すること』、『正妻である妹フローリアに子が生まれた際は、その世話を担うこと』など、目を疑う文言が並んでいた。リエルはびりびりと契約書を破り捨てた。
「ゲオルグ様。本当に無理です。心からお断り申し上げます」
「き、貴様! 生意気な!」
はあ、と吐く息が白い。
女遊びが派手で、リエルのことは「つまらない」「地味」と言っていた元婚約者のゲオルグ。
彼は先日、リエルの義妹フローリアと裸で抱き合っているのを発見された。
リエルとは破談になったが、今まで「すまなかった」の一言もない。それどころか、この始末。
もともと親愛の情を抱いた覚えはない。けれど今は、視界に入るだけで胸が冷える相手になっていた。
リエルはきっぱりと拒絶した。
「ゲオルグ様、どうぞ新しい婚約者であるフローリアを大切になさってください」
「お前を思って教えてやるが、お前、他人に陰でなんて言われてるか知ってるか? 地味で陰気な『曇らせ姫』だぞ。僕がお前の妹を気に入ったのだって、妹の方が愛想があるからだ」
「ですから、お気に召した相手と幸せになってください。人には相性というものがありますから」
リエルはゲオルグに別れを告げて汽車に乗り込んだ。
手には、王都ブランビリエ行きの切符がある。ゲオルグも、もうすぐ出発する汽車の中までは追いかけては来なかった。
「気持ちを切り替えよう…… 」
何者にも染まらない雪のように真っ白な髪の三つ編みが、過去を振り切るように背中で揺れる。
蒸気と魔法の力で動く汽車は、魔法使いが集まる『魔塔』という魔法研究組織が実用可能にした移動手段だ。
木製の座席はところどころ艶を失っているものの、長旅の客を受け入れてきた静かな落ち着きがある。
噂に聞いていたし、駅で発着するところを見てきたが、自分が乗るのは初めてだ。
(中はこんな感じなんだ。へえ……)
座席は自由に選ぶことができる。
リエルは新鮮な気分で座席を選び、腰を下ろした。
くすんだ茶色のコートのポケットから使い古したハンカチを取り出し、髪を拭いながら、雪に濡れた長めの前髪を少し気にする。
(王都に着いて落ち着いたら前髪を切りたいかも)
そう思っていると、小さな男の子の声が聞こえてきた。
「ねえ、商人のおじちゃん。オルディナって名前の町に着いてるよ。降りる駅だよね? 起きた方がいいよ」
何気なく視線を向けて、リエルは朝露に煌めく紫の花のような瞳を瞬かせた。
(……また、見えてしまった)
視線の先にいたのは、半透明の男の子。
周囲の誰もが存在自体気づかない、死後の魂だ。
他の誰にも見えない不思議な存在が、リエルには見える。物心ついてから、ずっと。
「おじさーん、起きてよぉ。ぼく、触れないんだからぁ……」
幽霊は、眠っている乗客のおじさんに触ろうとした手がすり抜けて、しょんぼりしている。
害意はない。むしろ、人助けをしたがっている。
……それなら、放置する理由もない。
リエルは他の乗客がいる座席と距離があるのを確認して、おじさんに近づいて小声で呼びかけた。
座席に設置された小さな簡易テーブルには、都市オルディナ行きの切符が置かれている。
オルディナで降りる予定なのは、明らかだ。
「あのう、すみません。オルディナに到着していますが、もしかして、降りる駅ではありませんか?」
汽車は一日に二、三本しか出ていなくて、停車する駅が限られている。
乗り過ごしてしまうと、次の駅で降りてから都市オルディナ方面に戻るための汽車を待たないといけない。
今はオルディナに停車しているが、もうすぐ発車してしまう。リエルは少し焦燥感を覚えながらおじさんの肩に手を置いた。
「ううーん……? このスコーンは美味いですなあ……むにゃ、むにゃ」
「オルディナに到着していますが、大丈夫でしょうか?」
「んがっ」
寝言を繰り返すおじさんにもう一度声をかけて肩を揺らすと、おじさんは目を開けた。
「な、なん……オルディナだと? ほ、本当だ⁉ 教えてくれてありがとう!」
おじさんはハッと飛びあがり、慌てて汽車から降りていった。
幽霊の男の子はほっとした様子でおじさんの背中を見送っている。
「よかったね、おじさん! またねー!」
おじさんの背中が見えなくなり、汽車の扉が閉まると、幽霊の男の子はリエルを見た。
自分が見られていると思っていない顔で、一方的に観察するような目をしている。
当たり前だ。
ほとんどの人間は、幽霊が見えないのだから。
幽霊の側も、存在している時間が長ければ長いほど、それを痛感している。
どうせ見えていない。でも、もしかしたら。
そんな寂しい眼差しに、リエルは弱かった。
それは、リエルにも経験のあること。
どうせ期待しても無駄だ。もうわかっている。
それなのに、心のどこかでどうしようもなく期待してしまうのだ。
そして、期待通りに行かない現実に傷ついてしまう……。
「……よかったね」
リエルは少し迷ってから、男の子と目を合わせてニッコリと笑顔を見せた。男の子はびっくりした顔になる。
「……! ぼくのこと、見えるの?」
驚きから喜びへと感情が変化する様子が、わかりやすくて微笑ましい。
奇跡に出会ったみたいな嬉しそうな笑顔を見て、リエルは「うん」と肯定してあげた。
「おねえちゃん、ありがと……」
はにかむように感謝を告げて、男の子は車掌のように敬礼してみせた。
「ぼく、この汽車のパトロールしてるんだ。みんながきちんと降りられるか見守ってるんだよ……そろそろ次の車両を見てあげなきゃ。えへへ。じゃあね」
男の子は誇らしげに人差し指で鼻の下を擦り、別の車両へと歩いていった。
幽霊は未練を抱えたまま地上に留まり、それが消えたとき、静かに天へ還っていく。
リエルは、そう理解していた。
(あの子は汽車に憑いているんだな……)
幽霊を見たり会話できるのは、希少な能力だ。
幼い頃のリエルはそれを知らず、「幽霊がいる」と知らせて子爵家の家人たちに気味がられてしまった。みだりに「私は幽霊が見えます」と言っても、あまり得をしない。でも、この能力のおかげで情報収集もできるし、他の都市に人脈がある人生経験豊富な幽霊に助言してもらって家を出るための計画を練ることもできた。
能力は、使い方次第だ。
疎まれもするが、役に立てることもできる。
(人の役に立つのは好き。相手が喜んでくれたら嬉しい……もっとも、「この相手を喜ばせたい」と思える相手限定だけど)
聖書を読むと、天界の住人である天使は自分の頬を叩く相手にも無償の愛を捧げるのだという。
もし、オルディナの人間たちが天使に出会えば、「おう、愛を寄越せ」と利用して、感謝どころか「気晴らしに殴らせろ、お前は嫌がらないのだろう?」と言いそうだ。天使がオルディナにいなくてよかった。
汽車は出発の時間を迎えて、ゆったりと動き出している。
「さようなら……」
――やっとオルディナとネーベルハルト子爵家を離れられる。
今までの人生は、散々だった。
物心ついたとき、リエルは吹雪の中で途方に暮れていた。あまり記憶がないが、捨てられたのだろう。
拾ってくれた子爵夫人は優しかったが、すぐに亡くなってしまった。
そこからは地獄だ。
実の両親の形見のペンダントを売られ、政略の駒としていったん婚約相手が決められたものの、義妹に奪われた。
裏切られ、奪われたのはリエルなのに、家族は義妹に味方した。
義父は初老の金満貴族との縁談を新しく検討し、元婚約者は義妹を新しい婚約者にしつつ、悪びれることなく、リエルを愛人にしようと迫ってくる。
そこにいる限り、不幸になる一方だ。
だから、逃げることにした。
自分を守ることができるのは、自分だけ――オルディナを脱出するのを助けてくれた幽霊は、リエルに救いの言葉をくれた。
もう何日も前に地上への未練をなくして天に召された彼女に、リエルは感謝している。
この後は、王都出身の幽霊が教えてくれた通りに王都ブランビリエで手続きをする予定だ。養子の身分を解消して、自分の人生を生きるのだ。
「私、王都で自立して幸せになります。さようなら」
灰色の曇り空から大粒の雪が舞い降りる、冬の朝。
王国の北西にある地方都市オルディナの駅のホームで、ネーベルハルト子爵家の養女リエルは元婚約者に別れを告げた。
元婚約者のゲオルグは、尊大な態度で愛人契約書が突き付けてきたが。
「ふん、僕の気を引こうとして家出なんてめんどくさいことしやがって。愛人として囲ってやるから一緒に帰ろう」
「ゲオルグ様……お話を聞くと仰ったのに。結局、何も届いていないのですね」
契約書には『リエルはゲオルグ様好みの女性になるよう努力すること』、『正妻である妹フローリアに子が生まれた際は、その世話を担うこと』など、目を疑う文言が並んでいた。リエルはびりびりと契約書を破り捨てた。
「ゲオルグ様。本当に無理です。心からお断り申し上げます」
「き、貴様! 生意気な!」
はあ、と吐く息が白い。
女遊びが派手で、リエルのことは「つまらない」「地味」と言っていた元婚約者のゲオルグ。
彼は先日、リエルの義妹フローリアと裸で抱き合っているのを発見された。
リエルとは破談になったが、今まで「すまなかった」の一言もない。それどころか、この始末。
もともと親愛の情を抱いた覚えはない。けれど今は、視界に入るだけで胸が冷える相手になっていた。
リエルはきっぱりと拒絶した。
「ゲオルグ様、どうぞ新しい婚約者であるフローリアを大切になさってください」
「お前を思って教えてやるが、お前、他人に陰でなんて言われてるか知ってるか? 地味で陰気な『曇らせ姫』だぞ。僕がお前の妹を気に入ったのだって、妹の方が愛想があるからだ」
「ですから、お気に召した相手と幸せになってください。人には相性というものがありますから」
リエルはゲオルグに別れを告げて汽車に乗り込んだ。
手には、王都ブランビリエ行きの切符がある。ゲオルグも、もうすぐ出発する汽車の中までは追いかけては来なかった。
「気持ちを切り替えよう…… 」
何者にも染まらない雪のように真っ白な髪の三つ編みが、過去を振り切るように背中で揺れる。
蒸気と魔法の力で動く汽車は、魔法使いが集まる『魔塔』という魔法研究組織が実用可能にした移動手段だ。
木製の座席はところどころ艶を失っているものの、長旅の客を受け入れてきた静かな落ち着きがある。
噂に聞いていたし、駅で発着するところを見てきたが、自分が乗るのは初めてだ。
(中はこんな感じなんだ。へえ……)
座席は自由に選ぶことができる。
リエルは新鮮な気分で座席を選び、腰を下ろした。
くすんだ茶色のコートのポケットから使い古したハンカチを取り出し、髪を拭いながら、雪に濡れた長めの前髪を少し気にする。
(王都に着いて落ち着いたら前髪を切りたいかも)
そう思っていると、小さな男の子の声が聞こえてきた。
「ねえ、商人のおじちゃん。オルディナって名前の町に着いてるよ。降りる駅だよね? 起きた方がいいよ」
何気なく視線を向けて、リエルは朝露に煌めく紫の花のような瞳を瞬かせた。
(……また、見えてしまった)
視線の先にいたのは、半透明の男の子。
周囲の誰もが存在自体気づかない、死後の魂だ。
他の誰にも見えない不思議な存在が、リエルには見える。物心ついてから、ずっと。
「おじさーん、起きてよぉ。ぼく、触れないんだからぁ……」
幽霊は、眠っている乗客のおじさんに触ろうとした手がすり抜けて、しょんぼりしている。
害意はない。むしろ、人助けをしたがっている。
……それなら、放置する理由もない。
リエルは他の乗客がいる座席と距離があるのを確認して、おじさんに近づいて小声で呼びかけた。
座席に設置された小さな簡易テーブルには、都市オルディナ行きの切符が置かれている。
オルディナで降りる予定なのは、明らかだ。
「あのう、すみません。オルディナに到着していますが、もしかして、降りる駅ではありませんか?」
汽車は一日に二、三本しか出ていなくて、停車する駅が限られている。
乗り過ごしてしまうと、次の駅で降りてから都市オルディナ方面に戻るための汽車を待たないといけない。
今はオルディナに停車しているが、もうすぐ発車してしまう。リエルは少し焦燥感を覚えながらおじさんの肩に手を置いた。
「ううーん……? このスコーンは美味いですなあ……むにゃ、むにゃ」
「オルディナに到着していますが、大丈夫でしょうか?」
「んがっ」
寝言を繰り返すおじさんにもう一度声をかけて肩を揺らすと、おじさんは目を開けた。
「な、なん……オルディナだと? ほ、本当だ⁉ 教えてくれてありがとう!」
おじさんはハッと飛びあがり、慌てて汽車から降りていった。
幽霊の男の子はほっとした様子でおじさんの背中を見送っている。
「よかったね、おじさん! またねー!」
おじさんの背中が見えなくなり、汽車の扉が閉まると、幽霊の男の子はリエルを見た。
自分が見られていると思っていない顔で、一方的に観察するような目をしている。
当たり前だ。
ほとんどの人間は、幽霊が見えないのだから。
幽霊の側も、存在している時間が長ければ長いほど、それを痛感している。
どうせ見えていない。でも、もしかしたら。
そんな寂しい眼差しに、リエルは弱かった。
それは、リエルにも経験のあること。
どうせ期待しても無駄だ。もうわかっている。
それなのに、心のどこかでどうしようもなく期待してしまうのだ。
そして、期待通りに行かない現実に傷ついてしまう……。
「……よかったね」
リエルは少し迷ってから、男の子と目を合わせてニッコリと笑顔を見せた。男の子はびっくりした顔になる。
「……! ぼくのこと、見えるの?」
驚きから喜びへと感情が変化する様子が、わかりやすくて微笑ましい。
奇跡に出会ったみたいな嬉しそうな笑顔を見て、リエルは「うん」と肯定してあげた。
「おねえちゃん、ありがと……」
はにかむように感謝を告げて、男の子は車掌のように敬礼してみせた。
「ぼく、この汽車のパトロールしてるんだ。みんながきちんと降りられるか見守ってるんだよ……そろそろ次の車両を見てあげなきゃ。えへへ。じゃあね」
男の子は誇らしげに人差し指で鼻の下を擦り、別の車両へと歩いていった。
幽霊は未練を抱えたまま地上に留まり、それが消えたとき、静かに天へ還っていく。
リエルは、そう理解していた。
(あの子は汽車に憑いているんだな……)
幽霊を見たり会話できるのは、希少な能力だ。
幼い頃のリエルはそれを知らず、「幽霊がいる」と知らせて子爵家の家人たちに気味がられてしまった。みだりに「私は幽霊が見えます」と言っても、あまり得をしない。でも、この能力のおかげで情報収集もできるし、他の都市に人脈がある人生経験豊富な幽霊に助言してもらって家を出るための計画を練ることもできた。
能力は、使い方次第だ。
疎まれもするが、役に立てることもできる。
(人の役に立つのは好き。相手が喜んでくれたら嬉しい……もっとも、「この相手を喜ばせたい」と思える相手限定だけど)
聖書を読むと、天界の住人である天使は自分の頬を叩く相手にも無償の愛を捧げるのだという。
もし、オルディナの人間たちが天使に出会えば、「おう、愛を寄越せ」と利用して、感謝どころか「気晴らしに殴らせろ、お前は嫌がらないのだろう?」と言いそうだ。天使がオルディナにいなくてよかった。
汽車は出発の時間を迎えて、ゆったりと動き出している。
「さようなら……」
――やっとオルディナとネーベルハルト子爵家を離れられる。
今までの人生は、散々だった。
物心ついたとき、リエルは吹雪の中で途方に暮れていた。あまり記憶がないが、捨てられたのだろう。
拾ってくれた子爵夫人は優しかったが、すぐに亡くなってしまった。
そこからは地獄だ。
実の両親の形見のペンダントを売られ、政略の駒としていったん婚約相手が決められたものの、義妹に奪われた。
裏切られ、奪われたのはリエルなのに、家族は義妹に味方した。
義父は初老の金満貴族との縁談を新しく検討し、元婚約者は義妹を新しい婚約者にしつつ、悪びれることなく、リエルを愛人にしようと迫ってくる。
そこにいる限り、不幸になる一方だ。
だから、逃げることにした。
自分を守ることができるのは、自分だけ――オルディナを脱出するのを助けてくれた幽霊は、リエルに救いの言葉をくれた。
もう何日も前に地上への未練をなくして天に召された彼女に、リエルは感謝している。
この後は、王都出身の幽霊が教えてくれた通りに王都ブランビリエで手続きをする予定だ。養子の身分を解消して、自分の人生を生きるのだ。



