クールな(ふりをする)後輩くんと、涙活はじめました

 向かいに座る桜田さんはお茶を一口飲むと「美味しい」と言って微笑む。
 一方私はこの異様な空間に緊張している。
 
「それにしても、樹くんと仕事をすることになるなんて思ってなかったわ」
「俺も、桜田さんは家業には関わらないと思っていたので驚きました」
「ねえ、さっきから桜田さんって他人行儀じゃない? 昔みたいに絵里花さんて呼んでよ」
「ですが、仕事なので……」

 氷山くん、困っている。
 でも名前で呼び合うくらい仲が良かったんだな。

 同席しているものの二人の会話の邪魔にならないように黙っていると、桜田さんは私を見ながらそうそう、と話を続ける。

「別に樹くんが後輩だから契約を結んだわけじゃないのよ。そもそも私は契約したあとから知ったしね」
「そうなのですね」

 氷山くんがコネで契約を取ってきたと勘違いされないように私に伝えたのだろう。
 聞いてもいないのに教えてくれるなんて律儀な人だ。

「今回、ホテルの宿泊者にうちの商品とコラボしたノベルティを配る企画が決まったんです」
「ホテルの部屋に置いてある上品質のティッシュと同じポケットティッシュをプレゼントして、観光中でも使ってもらえるようにするの。『どこにいてもホテル品質の心地良さを』というのがコンセプトなのよ」
「とても良い企画ですね。宿泊者も喜ばれるでしょうし、うちとしても光栄です」

 今後、企画開発部やデザイン部と協力して企画を進めていくそうだ。
 テンダー製紙側の企画リーダーは氷山くんになるだろうとのこと。
 
 仕事、さらに忙しくなりそうだな。

「あの桜田さん、今からでも他の企画メンバーを呼んできましょうか?」
「いいのよ、急に来てしまったし。あとで四年ぶりに婚約者の顔だけ見て帰るから」
「婚約者、ですか?」
「ええ、瀬川陽一さん。最近九州から帰ってきたでしょ?」

 え? 瀬川さんが婚約者?
 どういうこと?

「大学のころから婚約者がいるとは聞いていましたが、瀬川部長だったなんて驚きました」
「祖父たちが勝手に決めたものだけどね。彼は他に好きな人がいるようだし」

 桜田さんはそう言って私を見る。

 ああ、彼女は私と瀬川さんの関係を知っているんだ。
 だから私をこの場に引き止めた。

 というか、婚約者って。
 瀬川さんは婚約者がいながら私と関係を持っていたということ?
 だから付き合うことはしなかったんだ。

 腑に落ちた。
 私とは本気じゃない。遊びだったんだ。
 婚約者がいるから。

 多少の好意はあったのかもしれない。
 だけど庇ってくれることはしなかった。
 結局その程度だったということ。

「桜田さんと瀬川部長は昔から交流があったのですか?」
「祖父同士が友人でね。まだ公表してないだろうけど、陽一さんは天田社長の孫なのよ。まあ、そのうち彼がこの会社を継ぐんじゃないかしら?」

 瀬川さんが社長の孫?
 なにそれ全然知らない。

「名前が違うし知りませんでした」

 私はずっと何も言えないでいるけれど、氷山くんが私の知りたいこともいろいろと聞いてくれる。

「陽一さんのお母さまが社長の娘だからね。結婚して瀬川になったのよ」
「そうだったのですね。社内でも知っている人はほとんどいないと思います」

 社長に娘さんがいることは知っているけれど、この会社で働いてはいない。
 誰が会社を継ぐのだろうと度々社内で話題になったりするけれど、まさか瀬川さんが社長の孫だったなんて。
 でも、それなら若くして部長になったことも頷ける。

 二人の会話を聞きながら、頭でグルグル考えて納得したりモヤモヤしたり。
 桜田さんは何を思ってこんな話をしたのだろう。
 私への牽制?
 でももう私と瀬川さんとの関係は終わっている。
 過去のことを咎められたら何も言えないけど。

「私もね、ずっと気になってる人がいるの。だから婚約に乗り気じゃないのよね。だからこの話はここだけの秘密ね」
「わかりました」

 返事をする氷山くん。
 けれど桜田さんの視線は真っ直ぐに私を向いている。
 彼女、いったい私に何を言いたいのだろう。

「じゃあ樹くん、これからよろしくね。次は正式な打ち合わせをしましょう」

 桜田さんは立ち上がり、私と氷山くんも立ち上がった。
 彼女をロビーまで見送るというので二人と別れ、私はその足で人事部へと向かった。

「翔子!」
「すみれ? どうしたの慌てて」
「瀬川さんが社長の孫だって知ってた?」
「ちょ、そんな大きい声で言わないで」
 
 翔子は私の手を掴み席を立つと、人けのない備品室へと入った。

「瀬川さんが社長の孫ってことは社内で知っている人はほとんどいない。暗黙の箝口令みたいなものなのよ。人事部の人間は書類とか手続きの関係で知ってるけど」
「そうだったんだ……。なんで、教えてくれなかったの? 私には言ってくれてもよかったのに」
「言ってはいけないっていうのもあったけど、これは瀬川さんが直接すみれに言うべきことだと思ってたのよ。それに二人のことに社長の孫だとかそんなの関係ないと私は思ってたから」
「じゃあ、瀬川さんに社長の決めた婚約者がいたことは?」
「婚約者?! そんな話は知らないよ。てか婚約者?! 婚約者がいたの?! どうして今さらそんな情報入ったの?!」

 婚約者と連呼する翔子。
 相当驚いているみたいだ。
 そして怒っている。

「さっき、婚約者の人と会ったんだよね――」

 桜田さんのことを簡単に話すとさらに翔子の怒りが高まったみたいだ。

「婚約者がいながらすみれに手を出してたってこと?! 信じられない! 今からでも怒鳴り込みに行きたい」
「さすがに怒鳴り込まなくていいから……」

 翔子が怒ってくれるから、私はどこか冷静でいられる。
 桜田さんは瀬川さんに好きな人がいると言っていたけど、私のことなのだろうか。
 あの頃の関係はいわゆる浮気、というものになるのかもしれないけど、私はただの浮気相手で本命ではない。
 彼の、私への態度でそうわかる。

 桜田さんも気になる人がいると言っていた。
 私のことを咎める様子はなかったけれど、婚約が続いている限りお互いに気を遣い合っていることは確かだろう。

 二人は思い合わないまま、結婚するのだろうか。

「ここだけの話、社長と娘さん仲が良くないらしいわよ。瀬川さんがこの会社に入るのも反対していたらしい。だから孫だってことを公表してないんだけど」
「いろいろあるんだね。全然知らなかった」
「私も詳しいことは知らないんだけど、もうすみれは知ってしまったし、他にわかったことあったら報告するわ」
「ありがとう。突然押しかけてごめんね」
「ううん。またゆっくり話ししよう」

 まだわからないことはたくさんあるけれど、たしかなことはあの頃瀬川さんは婚約者がいながら私と関係を持っていたということ。
 そんな不誠実なことをするような人じゃないと思っていたのに。

 あの頃、私はなにもかも間違っていた。
 
 やっぱりもう忘れよう。
 瀬川さんとはなるべく関わらないようにしよう。

 そう思いながら総務部へと戻り、いつも通りの業務を始めた。