ここはいわゆるきみたちがいうところの、〝天国〟という場所だ。
頭の上に、丸い輪っかを乗せたタマシイたちが暮らしているところ。
天国はとってもきれいで、住みやすく、楽しい場所だ。
だが最近、ある問題をかかえている。
人間界でショーシカというものが、すすんでいる。
子どもの数が、どんどん減っているってことらしい。
そのせいで、タマシイたちがなかなか生まれ変わることができないのだ。
いまだに、この天国では教科書にのっているような、歴史上の人物たちが人間界へ生まれ変われず、じゅんばん待ちをしている状態。
ぼくも、歴史上の人物というやつみたいなのだけれど。
ああ。申し遅れたね。
ぼくの名前は、クロード・モネ。
フランスのパリで生まれ、生きていたころは光の画家などと呼ばれて、風景や花などをたくさん描いたんだ。
もちろん天国でも、絵を描いているよ。
ぼくは今、天国図書館のどこまでも続く本棚の道をてくてくと歩いているところだ。
そこへ、図書館司書がぼくを呼び止めた。
「モネさん、観察官の方がお呼びです」
観察官というのは、天国の警察官みたいなもの。
人間界の人々を見守る、重要な役割を持っているんだ。
司書の隣に、白いパーカーを着た小がらな男が、ニコニコと立っていた。
ぼくはていねいに頭をさげ、あいさつをする。
すると、彼もペコリと頭をさげた。
「はじめまして、クロード・モネ。おれはヘルメス。天国観察官のものです。あなたにお話しがあって、参りました」
「ほう、いったいなんでしょう?」
ヘルメスはニコニコ顔をくずさず、パーカーのポケットを探っている。
「これからお話しするのは、アナタだけではなく、多くの芸術家たちにとって、耳よりなお話だと思います」
「耳よりなお話?」
「ええ」
ヘルメスはポケットから何かをとりだし、ぼくに差し出した。
それはいたって普通の写真で、十歳ほどの少女が笑顔で映っていた。
「この子が、どうかされたのですか?」
「彼女の名前は、宇野さくら。人間界の日本の小学校に通う十一歳の女の子です」
「はあ。それで?」
「まあ、なんといいますか」
なぜか、ヘルメスは言葉をにごした。
「実は……」
「実は?」
「ちょっと大変なことになっておるんです」
「はあ?」
ぼくは、嫌な予感がしてきた。
ヘルメスは何かよからぬことを、ぼくにいおうとしている。
とても面倒くさそうだ。この先を聞きたくない。
「それが、ミューズさまが……」
ああ、やっぱり。嫌な名前だ!
ぼくの苦手な、高貴なるお方。
この世のなによりも美しい、芸術の神。
そして、性格に難ありの、さわがしい〝騒々神〟。
「かのお方が、どうかされたのですか?」
「ええ」
ヘルメスはグッと息をつまらせてから、ゆっくりといった。
「実は、天国側の手違いで……ミューズさまのお力をこの少女に宿らせてしまったようでして」
すぐには理解が追いつかないぼくは、どんな顔をしていいのかわからず、ほほをポリポリとかいた。
「それはまあ、まずいこと、なんでしょうね」
「当たり前でしょう! また、ミューズさまの悪い癖が出たのです! 人間界で芸術の奇跡を見たいという神の気まぐれ! それで人生を狂わされる人間がどれほどいることか! 神の力は人間には扱いきれないとあれほどいっているのに……」
ぶつぶつと神に悪態をついている、ヘルメス。
ヘルメスは自分勝手な神々に、毎日苦労をかけさせられているらしい。
彼のことをよく知らないので、少しも同情する気持ちはわかないけれど。
「まだ宇野さくらは、自分に特別な力が宿ったことに、気づいていません。さくらに宿った力はミューズさまに比べれば、とても小さな力ですが……」
ヘルメスは興奮して、息がハアハアとあがってしまっている。
「大丈夫ですか?」
「お気づかいなく! それであなたに声をかけた理由はですね……!」
ヘルメスは勢いあまってぼくの鼻先にまで近づいて、あわてて離れていった。
「その、さくらの力を狙って、よからぬ企みをくわだてる者が現れているのです」
「いったい、誰なのですか?」
「それは、まだわかっておらぬのですが……」
ヘルメスは、ぎゅ、とこぶしを作る。
下くちびるを噛みしめながら、悔しそうに吐きすてた。
「あのボッティチェリも! ミケランジェロも! フェルメールも! ミューズさまの神の気まぐれによって生まれた最高傑作の人間です。芸術に愛され、芸術で人々を幸せにした。ミューズさまは、素晴らしいお方なのですよ。あなたもそうだ。ミューズに愛された芸術家だ。そうでしょう、モネ?」
「は、はあ」
現世で知らぬものはない有名な芸術家たちの名をつらね、ヘルメスはすごい気迫でつめよってくる。
彼の熱意に、ぼくの温度は急激に冷めていく。
いっしょに盛りあがれるような性格だったらよかったのだろうけれど、あいにくぼくはひとりが好きな芸術家なものでね。
すなおに気のない返事をしてしまい、ヘルメスがキッと、ぼくをにらみつけてきた。
「あなたまさか、ミューズさまへの敬意を抱いていないのでは?」
「まさか」
「こちらはいつでも、天界裁判にかけられるのですよ!」
「落ちついてください、ヘルメス」
ヘルメスの目は、ギンギンと血走っている。
おお、なんという神への忠誠心だ。
さすがは神々から一番の信頼を受けている監察官なだけはある。
「ミューズさまの力なくして、ぼくは存在しておりませんよ。ミューズさまがおられたからこそ、ぼくがあるのです」
取りつくろっているように見られるかもしれないが、ぼくの本心には違いない。
ぼくは、おそるおそるヘルメスを見上げた。
どうやら彼の機嫌が今の言葉で、すっかり直ったようだ。
よかった。とても単純な男だったようだね。
「そうですよね! この世にミューズさまを尊ばない芸術家がいるはずがない。おれとしたことが、なにを当たり前のことを……ハハハ! 忘れてください」
「ははは。当たり前ですよ」
笑顔が引きつりそうになるのを必死でたえる。やれやれ。
「ええと。それでですね」
まだ話は続くのか。もうすでに、肩にぐったりと疲れが乗っかりはじめている。
生きていたころ、大舞台でクソな評論家たちに、ぼくの絵を酷評されたときくらい、しんどいぞ。
「アナタに、指名を与えます」
「ええ……?」
ヘルメスは気取ったふうに、胸をはった。
それにつられて、ぼくも少しだけ緊張する。
「これからあなたは、さくらのもとへ行って、彼女の警護にあたってください」
「いや、ぼくはただの芸術家なんですよ。行くなら監察官であるあなた方が適任でしょう」
「何をばかな。我々は神々の警護をいい渡されているのですよ。人間の警護などしているヒマはないのです」
ごもっともな意見だ。そして、なんとヘルメスがいいそうなことだろうか。
なぜぼくは、彼がこういい返してくることを予想できなかったのだろう。
しばらく、自分を恥じよう。
「わかった。行く、行きますよ」
「おお! さすが光の画家、クロード・モネ! すばらしいお返事だ! だからさくらも、あなたの絵に心を奪われたのでしょうね」
そうか。彼女がぼくのファンだから、ヘルメスはぼくに依頼してきたのか。
ぼくのファンの警護となれば、喜びいさんで承諾すると思ったのだろう。
なんと浅はかな。ぼくのファンは世界中にいるんだから、別に今さらなんとも思わないのに。
「さくらは毎日、学校であなたの睡蓮の絵を見ていますよ。寿命の短い生物だというのにねえ。もっと有効な時間の使い方があるだろうに……おっと、こんなことをいっては、芸術の冒涜だ。ミューズさまにお叱りを受けてしまう」
「まず謝るのはミューズさまではなく、人間の少女にでは?」
「おや、今何かいいましたか? よく聞き取れませんでいた」
「いえ、何も」
こんなことにいちいち引っかかっているほうが、時間のムダだ。
ヘルメスの人間への軽視など、いつものこと。
さっさと、用件を聞いて別れよう。
「それで、ただの芸術家のぼくがどうやって人間の少女を警護すればいいんですか? 今から訓練を受けろとでも?」
「それは、さくらのもとへ行けばわかるでしょう……ただ」
突然、ヘルメスは真剣な声になる。
「ミューズさまは強く、こうおっしゃっていました。〝さくらを警護できるのは、わたくしから青いバラを送られた者だけです〟と」
青いバラ。ぼくは生きているとき、睡蓮の花をたくさん描いた。
天国でもいまだに描き続けているので、学者ほどではないけれど、花には少しくわしい。
青いバラの花言葉は、奇跡。そして、神の祝福だ。
天国に初めて来たとき、ぼくはミューズさまから、青いバラを授かっていた。
青いバラが、何だというのだろう。
何もわからないまま、ヘルメスと別れたぼくは、人間界へ行く準備をはじめた。
ああ、面倒くさい。
いい人のふりをするのは、心が折れるよ。
昨日、カットしたばかりのボブヘアーをゆらし、わたしはゲタバコから、ブラウンのローファーを取った。
セーラーカラーのブラウスに、プリーツスカートの組み合わせは、ここ最近でイチバンのコーディネイト。
友達にも「いいじゃん」と褒められて、わたしは今日一日、ゴキゲンだった。
四月。小学六年生になって、三週間がすぎた。
いよいよ最高学年。
ボブヘアーは、ずっとずっと憧れだった髪形だったんだ。
鏡にうつった自分を見るたびに、五年生だったころの自分よりも、さらにお姉さんになったみたいで、最高の気分。
ふふ。帰って宿題をすませたら、明日の絵本クラブのお話を考えようかな。
うきうきでローファーをはいて、わたしは満面の笑みで顔をあげた。
正面のカベにはられていた、一枚の絵が目に飛びこんでくる。
「あんなところに絵なんて飾ってあったっけ……?」
モノクロの、ヘンテコな絵。
どんよりとした、グレーの空に、ぶきみなものが浮かんでいる。
なんだか、ちょっと怖い。いったい誰が描いたんだろう。
有名な画家って、誰がいたっけ。
たしか、このあいだ見た動画で、小耳にはさんだ名前があった。
「ぽかり、いや、ぴかり……じゃなくて、ピカソ、だったっけ」
でも、ピカソってこんな絵、描いてたっけ。
あと知っているのでは、わたしの好きな画家。
きれいな睡蓮を描く、モネって画家。
目の前の絵は、モネが描く絵とはだいぶフンイキが違うけれど。
光と闇、表と裏ぐらい、正反対だ。
だけど、不思議な魅力がある。怖いけれど、気づいたら、ジッと見ちゃうような絵だな。
その瞬間、わたしは昇降口ではない、どこかに立っていた。
どんよりとした、グレーの空。何もない、砂の地面。生き物の気配も、ない。
音のない、しずかな世界。
わたし、いったいどうしたんだっけ。
下校しようとして、クツをはいて、絵を見て、それから。
「学校は、どこいっちゃったんだろう。ここ……どこ?」
「キサマが宇野さくら、か」
ふりむくと、わたしと同い年くらいの男の子が立っていた。
ぼさっとした髪、だぼだぼの白いトレーナーに、黒いサロペット。足もとは、黒いトレッキングブーツ。
右目には、眼帯をつけていた。ものもらいでも、できてるのかな。
「きみ、この近くに住んでるの? ここって、何番地?」
すると男の子は、左目だけでギロリ、とわたしをにらみつけた。
サロペットの大きなポケットに手をつっこみ、中から何かを取りだす。
それは、手のひらにおさまるていどの、小さな黒い棒。
「これが何かわかるか。宇野さくら」
「え? 何だろう。コンブ、かな。それとも、味のり?」
「ちがう! 本当になにも知らないんだな。さすが、おこぼれ」
おこぼれって、どういうことだろう。
男の子は、ニヤニヤとコンブみたいなものを見せつけてくる。
「これは、デッサン用のモクタンだ」
「デッサン、って聞いたことある。でも、何なのかはよく知らないなあ」
「もののカタチを正確にとらえて描くこと。手癖で自分なりに描いたりせず、描こうとするもののことを、自分の手や目でくわしく知る。絵を描くことにおいて基本となる作業だ」
「この、コンブが?」
「コンブじゃなくて、モクタン。木を燃やして、炭にしたものだ。これで、絵を描くんだ」
「こんな炭で絵を描くの?」
「モクタンは描いたり消したりが簡単にできるうえ、明暗の表現に優れており、画材としてとてもすばらしい……って、そんなことは今はどうでもいい」
男の子が急に近づいてきたので、むにゅ、と鼻の頭同士がぶつかった。
でも、男の子はおかまいなしにいい放つ。
「今から、キサマの神のちからは、ワガハイにうばわれる」
「わたしの、神のちから?」
キョトンとしているわたしを置いて、男の子は犬歯を見せつけ、笑った。
「何をいっているのか、さっぱりわからないんだけど」
「わからなくてけっこう! こちらで進めるだけなのだから」
「いや、変なことをされたら困るよ。まだ、状況を理解してないんだから」
「神のちからをうばうだけ。死ぬわけじゃないから、安心しろ」
その、ご大層なちからのことを知りたいんだけど。
なんでわたしがそんなものを持っているのか、わからないし。
具体的に問いつめたかったけれど、男の子はすでに聞く耳を持っていなかった。
モクタンを忍者のクナイのように、指のあいだにはさみ、かまえる。
待って、待って。何するつもり。
武器なんて持ってない、無抵抗の女の子に。
「さあ、我らがピカソのため、おとなしく神のちからをさしだすのだ!」
「ピカソ!」
聞き覚えのある名前だ。
ついさっき、口に出したような新鮮な聞き覚え。
「さあ! モクタンのチリとなれ!」
男の子が腕をかまえ、モクタンを投げようとしたときだった。
「ピカソですか。その話、くわしく聞かせていただけませんか?」
「えっ?」
わたしはとつぜん後ろから腕を引かれ、そのまま誰かに抱きとめられた。
後ろを見あげると、きれいな顔の男の人が立っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。
鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士だ。
「やっと、見つけましたよ。まさか、オディロンの絵のなかに入っていたとはね。きみが近くにいれば、青いバラをさずかった芸術家は、どこでも神のちからの奇跡を受けられるようですなあ」
「あの、今度は誰ですか」
戸惑いが隠せないわたしは、男の子と男の人を交互に見つめる。
知らない空間に、知らない人たち。
頭はもう、パンク寸前だった。
「ぼくの名は、クロード・モネ。宇野さくらさん。きみが好きな、睡蓮の絵を描いた画家ですよ」
ふんわりと、そよ風のようにほほえむ。
この人、なんてすてきな笑い方をするんだろう。
すっかり見とれていると、チクリと突き刺さるような視線を感じた。
男の子が、刃物のようなするどい瞳でこちらをにらんでいる。
眼帯をつけているから片目だけのはずなのに、まるで四方八方から見られているみたい。
「オディロン・ルドン、久しぶりですね」
モネさんに呼ばれたとたん、男の子はぷいっとそっぽを向いてしまう。
「彼のことは?」
モネさんにたずねられ、わたしは首をふった。
「おやおや」と、モネさんが苦笑いする。
「彼は、オディロン・ルドン。彼もぼくと同じ、画家です。フランスの美しい風景や、幻想的な世界の絵をたくさん描いたんです。まあ、ちょっと不気味で不思議な絵も多く、彼だけの作風を描いた孤高の画家といわれています。しかし、同じフランスの紳士として、女性を前にして名を名のらないとは、マナーがなっていないですねえ」
「って、ちょっと待ってください。あなたたちはいったい……? モネって、あの睡蓮を描いた画家さん?」
ようやく頭が現状に追いつき、やっとわたしは反論ができた。
しかし、そんな素朴な疑問もルドンくんにはねのけられてしまう。
「クロード・モネ! キサマ、天界からヘルメスにいわれてきたようだな!」
爪が黒く塗られた人差し指をモネさんに向ける、ルドンくん。
「指先を人に向けてはいけない。ここは日本だから、日本のマナーにしたがうべきだね。それが、フランス紳士としてのスマートな……」
「うるさい!」
ルドンくんは、顔を真っ赤にして怒っている。
わたしは驚いて、肩をびくりと震わせた。
すると、モネさんが大きな手をわたしの頭の上に乗せ、よしよしとなでてくれる。
「大丈夫ですよ。ぼくが守ります」
そういうとモネさんは、わたしをスマートに自分の後ろへと誘導してくれる。
これが、フランス紳士ってやつ?
海外の人と話すのは、英語のジェニファー先生ぐらいしかいなかったから、なんだか緊張する。
まあ、モネさんもルドンも日本語を話してくれているから、英語を話す必要もないんだけれど。
「この灰色の世界。見覚えがありますね」
モネさんは、ぐるりとあたりを見渡した。
灰色の空に、灰色の地面。何もかもがグレーで、ちょっぴり心がさみしくなる世界。
「ここは、きみが描いた作品のなかですね。たしか作品名は、『目=気球』。天国図書館で、きみの画集を拝読しましたよ。大変、すばらしいものばかりだった」
モネさんが、やわらかくほほえむ。
すると、ルドンくんは「うげえ」と顔をゆがませた。
「にこにこすんじゃねえーッ!」
ルドンくんの叫びに、灰色の空が震える。
あまりの大声に、モネさんがわたしの両耳をふさいでくれた。
「ワガハイの作品を、わかったような口ぶりで語るなッ!」
のこぎりのようなギザギザの歯を、ギシギシといわせる、ルドンくん。
あまりのかんしゃくに、わたしはモネさんを見あげた。
モネさんは、湖のほとりに咲く花のような優雅さで、ほほえみを浮かべていた。
ルドンくんとモネさんのあまりの対極さに、わたしは混乱した。
このふたり、まるで水と油だ。
ドシン ドシン ドシン……。
見知らぬ灰色の世界に、不審な物音がとどろいた。
「……地震?」
「ヒャハハハハ!」
とたん、ルドンくんが嬉しそうに大笑いし出した。
「きたあ! きたぞお! ワガハイの! すばらしい作品たちがあ!」
「さくらさん。あそこです」
モネさんが指をさす。
そこには見あげるほどの大きな、灰色の崖。
そこに、おそろしく高い背丈の黄色い巨人がいた。
そろりそろり、と足をあげ、崖からはいだそうとしている。
モネさんが、再びわたしを後ろに隠そうとしてくれる。
しかし、わたしは恐怖で足がすくんでしまい、うまく立っていられなくなってしまった。
気づけば、ぷるぷると足が震えている。
あんなもの、初めて見た。
「い、家に帰りたい……っ」
あの巨人にふみつぶされて、死んじゃうのかな、わたし。
まだ、死にたくないよ。
ぽろり、と涙がこぼれた瞬間、わたしは横に抱きあげられた。
至近距離に、モネさんの涼しげな顔がある。
「大丈夫。ぼくが守りますから、安心してくださいね」
巨人が、ドスン、ドスンとおいかけてきている。
すると、巨人の後ろから、何かが飛んできているのが見えた。
風に乗って、ふわふわと不気味にゆれながら、近づいてくる。
あれは、気球だ。
しかも、バルーンの部分が目玉になって、ギョロギョロと動いている!
「オディロンの気球ですよ。彼が、一八七八年に描いた『目=気球』という作品。あれが、その気球です」
目玉気球の上で、ルドンくんがあぐらをかいて座っている。
あいかわらず、不機嫌全開のようで、顔が怒りで真っ赤っかだ。
「気球に、巨人って……どういうつながり?」
「あの巨人も、オディロンの作品です。『キュクロプス』という彼の作品ですよ。あの巨人の名前が、キュクロプスというのです」
モネさんはわたしを抱いたまま、わかりやすく解説してくれるんだけど。
紳士らしく、立ち止まって、ていねいに教えてくれるうえに、後ろをふりむいて、気球や巨人を見ながら教えてくれるもんだから。
お、追いつかれそう!
「も、モネさん! は、はやく逃げよう!」
「おや、申し訳ない。急ぎましょう」
モネさんが走ってくれるけれど、縮まった距離はなかなか開きそうにない。
ルドンくんも必死の形相で追いかけてくる。
うう、もうダメ。踏みつぶされちゃう!
「うーん。戦うのは苦手なんですが、仕方ないですね」
モネさんが、わたしをそっとおろした。
そして、鮮やかな青のジャケットをひらりとはらう。
そのふところから、ハケのようなものを取り出し、くるんと回した。
「も、モネさん! それで戦うのッ?」
こんな道具で、勝てるのかな。
もっと、剣とか弓とかじゃなくて、大丈夫なのかな。
「これは、ヒラハケ。下ぬりのときに使う道具です。絵を描くまえの真っ白なキャンバスに、下ぬりをしておくと、絵の具がよく浸透して色がきれいに出るんですよねー」
「いや、そんなんでどうやって戦うのッ」
「こんな道具でも、ぼくはスマートに勝ちますよ」
ドスーンッ
巨人の大きな足が、わたしたちの目の前に落ちてくる。
地面の振動によろめくわたしを、モネさんが支えてくれた。
巨人の大きな足が、わたしたちをふみつぶそうと、グググッとあがっていく。
「その女をよこせ! クロード!」
「いやです」
「ふん、調子に乗りやがって」
ルドンくんが叫ぶ。
「ぼくは、いつだって冷静ですよ」
さっと、ヒラハケをかまえるモネさん。
それを横にふり、きれいな一線を描く。
するとそこから、ぷくぷくとまるい水の玉があふれだしてきた。
水の玉は、またたくまにあたりに広がり、雨のように地面に降り注ぐ。
そこに、大きな水たまりができはじめた。
巨人が、ジャブン、と水たまりに足をとられた。
ヨロヨロとよろめき、後ろへバランスをくずしていく。
「え、ちょ、おい!」
ルドンくんは、あせりながらもモクタンを巨人に向け、何か指示を出そうとしている。
ぐらり
巨人が倒れていく。
気球のほうへ。モクタンをかまえ、呆然としている、ルドンくんのほうへ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ!」
巨人をよけようと、モクタンをふりまわす、ルドンくん。
ドスーーーーーンッ!
けっきょく、巨人は地面にうつぶせに倒れてしまった。
ルドンくんの気球もそれに巻きこまれ、巨人の下敷きに。
やわらかい目玉気球に救われ、ルドンくんはなんとか無傷だったみたい。
目玉気球からはいだしたルドンくんは、イライラマックスだ。
「クロード! キサマッ! 何だ、今のは!」
「ぼくの愛する花たちですよ」
よく見ると、巨人が足を取られた水たまりに、きれいな睡蓮がいくつも、ぷかぷかと浮かんでいる。
倒れた巨人の足首にも、ぐるぐると何かが巻きついている。
睡蓮のクキだ。
巨人はこれのせいで、バランスをくずし、倒れてしまったんだ。
「宇野さくらの、神のちからを使ったな!」
「ええ、そうですが。それが何か?」
名前を呼ばれるけれど、わたしはあいかわらず、なんのことかわかっていない。
わたしは何もしてないんだけどなあ。
「ぐぬぬぬぬ!」
ルドンくんは、くやしそうに地面をドスドスとふみつけている。
モネさんのせいで、思うようにいかず、そうとう頭にきているみたい。
ルドンくんが復活した気球の上に、飛び乗った。
「気球! モネのヒラハケをうち落とせ!」
すると、気球の下に、ぶら下がっている皿のようなところが、ぐるぐる回り出した。
フリスビーみたいに飛ばすつもり?
あれで、ヒラハケをうち落とす気だ!
「モネさん!」
わたしは飛び出しそうになるけれど、モネさんの手がすっと前に出てきて止められた。
「オディロン。ひと筆、遅かったね。〝ぼくはもう描き終わったよ〟」
モネさんがヒラハケをかかげ、横に一線、ひらりと描く。
すると、毛先からたくさんの光がパアッとあふれだす。
一気に、この灰色の空間を明るく照らしてくれる。
「ワガハイの世界がッ!」
ルドンくんが、絶叫する。
それは、きらきらとまぶしい光だった。
初日の出を、至近距離で見ているのはないのかと思うほどの激しい光。
「美しい朝日をいっしょに拝みましょう」
「まぶしい……目を開けていられない! と、閉じなければ……」
ルドンくんが、眼帯をしていないほうの目を強くおさえている。
あれ。目玉気球のようすが変だよ。
のろのろと、高度が落ちていってる。
ぎょろぎょろとしていた目が、今にも閉じそうだ。
「しまった! 目を閉じるな!」
ぱちん。
目玉気球のまぶたが、完全に閉じた。
視界をうしなったらしい気球は、一気に地面へと落下していく。
何だか、さっきも似たようなシーンを見た気がするよ。
「わあああああ!」
再び、地面に落ちてしまったルドンくん。
今度こそ、ケガとかしちゃったんじゃないかな。
わたしはあわててかけよった。
「大丈夫ですよ。ここは、オディロンの絵のなかなんですから。絵を描いた本人が、ケガをすることはまずありません」
モネさんが、いった。
しゃらん。それは、視界のはしに映った。
青くて、きれいな、見たこともない花。
バラだ。赤いものなら知っているけれど、青いバラなんて初めて見た。
モネさんが、ルドンくんに耳うちをしている。
何をいわれたのか、ルドンくんは顔を真っ青にして、のろのろとモクタンをふった。
すると、まばたきをするわずかのあいだに、目の前の世界が変わった。
学校の昇降口に、戻ってきてる。あの絵も、なくなってる。
わたしは初めて来た場所のように、あたりをキョロキョロと見渡す。
モネさんとルドンくんは、やっぱりいない。
夢だったのかな。白昼夢ってやつ。
でも、すごくリアルだった。
屋上に吹きすさぶ風は、ぼくとオディロンの頬を冷たく吹きつけた。
オディロンは気球から落ちたようだけれど、やはり、キズはひとつもついていない。
だけど、やはり最後に出した、ぼくの絵の影響は大きかったみたいだ。
オディロンは眼帯をしている右目を強くおさえながら、ぼくの胸ぐらにつかみかかってきた。
「くそう。宇野さくらを逃がしたじゃないか! キサマのせいで!」
「いや、ぼくは彼女を守れといわれているからねえ」
「いい子ぶるやつが、ワガハイはいちばんきらいなのだ。キサマ、さっき何をした?」
「気球や巨人に大きな目がついていたので、朝日を浴びてもらいました。さくらさんを守るためです。きみの行動は、ずいぶん乱暴でしたから」
「絵の話をしているんだ。キサマ、睡蓮の画家ではないのか」
「ぼくの描くものは睡蓮だけではないってことです」
「キサマの絵など知らん。ワガハイは孤高の芸術家なのだから」
オディロンは、つまらなさそうにくちびるをとがらせた。
「はあ、そうですか。さっきの光は、ぼくが描いた『印象・日の出』という絵です。港に浮かぶ船、そして淡い赤で描いた太陽。光にあふれた一枚です。きれいだったでしょう」
さくらさんから遠ざけるため、オディロンにモクタンをふってもらったはいいものの。
人間界は久しぶりだ。ここはどこだろう。
近くにさくらさんの気配は感じるから、ひとまずは大丈夫そうだけれど。
「くそっ。ワガハイはまだまだ戦えるが、今日はひとまず退散だ。宇野さくらの神のちからはもうないからなあ」
「え、なぜですか?」
「クロード……キサマ、知らんのか! なんと厚顔無恥なやつなのだ!」
「いいからさっさと教えてください」
ヘルメス。あの自己愛の強い、ファナティック観察官め。
肝心なことをぼくに教えていないようだ。
「宇野さくらの神のちからは、まだまだ未熟なのだ。ゆえに、〝青いバラの芸術家〟の作品を一日三作品にしか、奇跡を起こせない」
奇跡。つまり、さっきのオディロンやぼくのように、絵を現実のものとすることができる。
それが、芸術の神・ミューズの最大の奇跡。
今はなぜかそのちからが、宇野さくらに宿ってしまっているのだ。
「なぜ、キサマに親切に説明せねばならんのだ!」
「いや、助かった。感謝する」
「だまれー! 今に見ていろ。我が主・ピカソは宇野さくらの神のちからを手に入れるため、キサマらに次々と刺客を送りこむだろう!」
一気に、ぼくの顔が引きつった。
そうか。敵はやはり、ピカソか。
また、今回みたいに面倒そうなやつだったら嫌だなあ。
「ふん! せいぜい、あの女のことを守ってやるんだな! ハ-ッハッハッハ!」
オディロンはぼくに背を向け、すたすたと屋上を出て行った。
屋上に、静けさがもどる。
「うーん。パブロ・ピカソか。これは強敵かも知れないなあ……」
戦いは得意じゃない。
ぼくは、のんびりと絵を描いていられればよかったのに。
ああ、面倒だ。
だが、このままさくらを放っておくわけにもいかない。
ぼくは、光の画家と呼ばれている。
ぼくが描いた絵たちに恥じないためにも、いい人でい続けなければ。
さっきの夢が忘れられなくて、わたしはまだ、なんとなく学校に残っていた。
行く当てもなく廊下を歩いていると、図画工作室にたどりついた。
あれ、カギが開いてる。ええい、入っちゃえ。
たくさんの机とイス。使ったことのない道具たちに、画用紙の山。
そして、低学年が作ったらしい作品たちがロッカーの上にならんでいる。
わたしはランドセルをおろし、机の上に置くと、壁に飾られた絵を見上げた。
パステルカラーで描かれた、きれいな睡蓮の花。
光にあふれた池に、白い花が浮かんでいる。
わたしが好きな絵。描いた人の名前は、もちろん知っている。
「クロード・モネ」
今、いおうとした名前を先にいわれ、わたしは驚いた。
ふりむくと、そこに知らない男の人が立っていた。
ショートカットのツーブロックに、ブラウンのベレー帽をかぶっている。
カッターシャツの上から、絵の具まみれにニットベストを着ている。
ベージュのチノパンに、茶色のサンダル。
見るからに図工の先生って感じだけれど、こんな人、知らない。
「この睡蓮の絵は、モネが描いた二百点以上ある睡蓮の絵のうち、一九〇五年に描かれたもののレプリカさ」
「モネさんって、二百点も描いてるんですか。睡蓮の絵を……」
「ずいぶんと、親しげに呼ぶんだね。クロード・モネのことを」
「は、はい。ファンなので、つい」
夢の中で会っただけなのに、仲がよさそうに呼ぶのはおかしいよね。
恥ずかしいことしちゃったな。
でも、あまりにもリアルな夢だったから、つい。
「私は、ツルハシ。明日から、この学校の絵本クラブを教えることになったんだ」
やっぱり先生だったんだ。
しかも、わたしが所属してる絵本クラブの先生だったなんて。
わたしの通う小学校には、科学実験クラブや遺跡発掘クラブなど、個性的なクラブ活動が多いんだ。
だから、学校の先生だけでなく、地域のボランティアで先生をしてくれている人が大勢いる。
ツルハシさんもそのひとりだったみだい。
「わたし、絵本クラブなんです。明日から、よろしくおねがいします!」
元気にあいさつしたつもりだったんだけど、なぜかツルハシさんは悲しそうにまゆをハの字にさげた。
「この絵が好きなの?」
「はい、きれいですよね」
「さっきもいったが、これは本物の絵じゃなく、レプリカ。ニセモノだ。本物は、外国で三十四億円の値段がついたそうだよ」
「お、億!」
芸術ってすごい。そんな買い物、わたしは一生しなさそう。
コンビニのアイスの三百円で、ずっと悩んでる人間なんだもん。
そもそも、三十億が入る財布って、どのくらいの大きさなのかな?
「きみ、名前は?」
「宇野さくらといいます!」
「そうか。きみだったのか」
ツルハシ先生の目が、ひやりとわたしを射抜く。
ぞわり。わたし、また何かいっちゃったのかな。
「これから、よろしく。絵本クラブ、楽しみにしているよ」
あれ。怒らせたかな、と思ったけれど、今は笑顔だ。
何だったんだろう。
「は、はい。わたしも楽しみにしてます」
「宇野さん」
ツルハシ先生に、ジッと見つめられ、わたしの心臓がドキンと高鳴る。
「もっと、色んな経験をするといいよ」
それはまるで、音楽のようにわたしの耳にすっと入ってきた。
「色んな経験?」
「うん。本を読んだり、あと、美術館に行ったり」
「美術館ですか。モネさんの絵、飾ってあるかなあ」
「もちろん。モネだけじゃなく、たくさんの画家の絵があると思う。それじゃあ、また明日。絵本クラブでね」
ツルハシ先生はそのまま、ふりかえることなく教室を出て行った。
「なんだか、ミステリアスな先生だなあ」
でも、とても絵にくわしそうな先生だった。
あの夢を見たせいかな。
もっと絵のことを知りたいと思っていたから、すごい偶然。
ツルハシ先生に、絵のことをたくさん教えてもらいたいな。
わたしは、明日の絵本クラブで描く物語を考えながら、ランドセルを背負った。
クロード・モネ。
オディロン・ルドン。
夢で出会ったふたりのことを思い出すと、胸がドキドキした。
もう一度見たいな。
ハラハラしたけれど、わくわくもする夢だった。
もう一度、夢でモネさんに会えたらいいのに。
そんな妄想をしていたら、いつのまにか家に着いていた。
そういえば、お母さん、今日はお仕事で少し遅くなるっていってたっけ。
お父さんは、いつも夜の九時半ごろに帰ってくる。
家はシーンと静まり返っている。ひとりの家は、いつもさみしい。
リビングのソファにランドセルをおろすと、自分もそこにドカッと沈みこんだ。
「はあ、また会いたいな」
「ほう、誰にですか?」
わたしは、ソファでのけぞった。
聞き覚えのある声、安心するような優しい口調。
そして、頭にのせられた、大きな手。
「おかえりなさい、さくらさん」
ぽんぽんと頭をなでられる。
同じだ。今日見た夢と。
もしかしてわたし、また夢を見ているのかな。
「く、クロード・モネ、さん!」
「覚えてくれていましたか。嬉しいですよ」
嬉しくて、嬉しくて、わたしはなんといっていいのか、わからなかった。
また会えてうれしいです。あれは夢じゃなくて現実だったんですか。これは、夢じゃないですよね。
いいたいことがありすぎて、口をぱくぱくさせていると、モネさんが「そうそう」と思い出したようにいった。
「さくらさん。レディがあのように、はしたなく座るのはいただけませんな。淑女のたしなみは、まだ勉強中でしょう。ぼくがレッスンしてさしあげましょう」
「はいっ?」
「さあ、立って」
「ほあっ?」
無理やり立たされる、わたし。
「さあ、スカートにしわがよらないように、そろえて。足もひざを合わせて、スマートに。そのまま、優雅に腰をおろして。そうそう……」
とすん。ソファにゆっくりと沈んでいく、わたし。
何が起こっているのかわからないけれど、こんなに上品にソファに座ったのは、人生初だよ。
「美しさは、内面からあらわれるもの。心を健やかに、清く正しく。それが、人柄にも、絵にも表れるのです」
うわあ。モネさんってけっこう口うるさい系男子なのかな。
優しい紳士だと思ってたのに。夢が壊れていくう。
「さて。これから、ぼくはきみをよからぬものから守らなければならない。そのためにも、きみには、守られるものとしての礼儀や作法を知ってもらわなければいけない。まずは、ぼくから離れないこと。そして……」
「いやいや、それって夢の話の続き? わたし、何が起こってるのかさっぱりわからなかったよ。なのに、礼儀や作法とかいわれても困るんだけど!」
あの時は、わけもわからず逃げてただけ。
ルドンくんから狙われていることだけはわかったけれど、何で狙われているのかは、はっきりとはわからなかった。
「神のちからってなんなの?」
「覚えていましたか。よろしい。説明いたしましょう」
モネさんは、ていねいにわかりやすく、これまでのことを教えてくれた。
目の前にいるモネさんが、わたしの知っている睡蓮の画家、クロード・モネで間違いないこと。
実は、天国のタマシイで、わたしにしかそのすがたは見えないこと。
そして、ミューズさまのちからがなぜかわたしに宿っていて、それを狙って、ルドンくんがおそってきたこと。
「つまり、ミューズさまから青いバラをもらった芸術家は、わたしに宿っている神のちからで、自分の作品を本物にして、あやつれるようになるってこと?」
「その通り。さくらさんは賢い子ですね」
にこにこと、わたしの頭をなでてくれる、モネさん。
嬉しいけれど、今は喜んでいるばあいじゃない。
これ、まだ夢なんじゃないんだよね。現実、なんだよね。
わたし、これから神のちからをねらう芸術家たちに、おそわれるかもしれないってこと?
「さくらさんはまだ未熟なので、一日三作品にしか、奇跡は起こせないそうですよ。そのへんは助かりました。無限に奇跡を起こされたら、収拾がつかないですから。悪いことに使われたら、大変なことになります。そういう危険な絵も、たくさんありますからね」
「そうなんだ……」
わたしの話なのに、まるで別の人の話みたい。
自分に神のちからが宿っていて、そのせいで狙われているなんて。
「不安そうですね」
「いや、まあ。こんなの初めてだし」
するとモネさんは、きゅ、とわたしの両手をにぎってきた。
ドキン、と心臓が飛びはねる。
「ななななな、なにッ?」
「くもった顔は似合いませんよ。笑ってください」
「ううう、うん。ありがとう……」
ふふふ、フランス紳士、おそるべし。
胸が破裂しそうなほどに、ドキドキしてる。
心臓がいくつあっても足りないよ。
不安だったのが、一気に吹き飛んじゃった。
まるで、モネさんの絵みたい。やっぱり、描いた人に似るのかな。
「あのね」
「はい」
急に、伝えたくなった。
だってまさか、絵を描いた人に会えるなんて、思ってもみなかったから。
「モネさんの睡蓮の絵が、ずっと好きなんだ。あの絵を見ると心がすーって、きれいに洗われていくようで。ちょっと嫌なことがあっても、すぐに立ち直れたの。だから、わたしも絵を描いてみたいなって思って、絵本クラブに入ったんだ。でも、本物のモネさんに会えるなんて夢にも思わなかった。会えて、すごく、すごく嬉しいよ!」
モネさんは驚いた顔をして、少し黙ったあと、長い息を吐いた。
そして、わたしの手をにぎる力を、少しだけ強めた。
「さくらさん」
「はい」
「絵を描きはじめて、何百年たった今でも、自分の絵をほめられるというのは、嬉しいものですね」
わたしを見つめるモネさんの瞳は、睡蓮が浮かぶ池のように透きとおっている。
おだやかな水面を凪ぐように、モネさんがほほえんだ。
「きみのその思い、決して裏切ることはできない。きみが愛する、ぼくの睡蓮のためにも」
絵本クラブの日。
グループで机を四つあわせ、わたしはもくもくと絵を描いていた。
「これが、さくらさんの絵ですか。愛らしいタッチですね」
モネさんが、話しかけてきた。
「そう? ありがとう」
「ええ。このネズミも、なかなかアジがあります」
「ウサギだよ」
「おや、なんと」
「絵がヘタで悪かったわね」
「ヘタならうまくなればいいんですよ」
「練習してるもん。がんばってるもん」
「レディに対して、とんだ失礼を。これは失敬」
モネさんは、そそくさとうしろに下がって、消えてしまった。
もちろん、わたしたちはちょくせつ会話しているわけではないよ。
心のなかで会話しているんだ。
モネさんは、タマシイだから他のみんなには見えない。
声に出してしゃべったら、わたし、おかしな目で見られちゃうもんね。
天国では、心のなかで会話をするのは、当たり前のことなんだってさ。
やってみたら、なぜかわたしにもできちゃったの。
これも、神のちからなのかもね。
黒板の前には、ツルハシ先生が立っている。
ぱち、と先生と目が合った。
はずかしくなって、あわてて目をそらしてしまう。
絵本作りに集中しようと、色えんぴつを手にとった。
その時、ぽんぽんと誰かに肩をたたかれた。モネさんかな。
ふりかえると、ツルハシ先生がいた。シーッと、くちびるに指をあてている。
そして、一冊の本を手渡してきた。何だろう、この本。
本を受け取り、「これは何ですか」と聞こうとしたけれど、先生はさっさと黒板のほうへともどって行ってしまった。
黄色の表紙に、金色のタイトル。
英語だから、なんという意味のタイトルなのかは、わからない。のタイトルだった。
アップルとか、ハローなら知ってるけど、これはさすがに無理。
パラパラとめくってみると、色んな絵が載っていた。
このひまわりの絵、なんだかすごい迫力があるなあ。
あっ。もしかして、これって。
ツルハシ先生がいってた「たくさん、経験しろ」ってやつなのかな。
でも、いきなり英語の本を渡されても、どうしたらいいのかわからないぞ。
学校から帰ってきたわたしは、ランドセルからツルハシ先生から渡された本を取りだした。
とにかく分厚くて、重たかった。肩がちぎれるかと思ったよ。
「さくらさん、この本は?」
わたしの持っている、黄色の本をのぞきこんでくる、モネさん。
タマシイだけだから、足音もないし、気配もない。
これだけだと、なんだかわたし、幽霊にとりつかれているみたい?
「今日、ツルハシ先生にこれを渡されたの」
「ツルハシって、誰ですか?」
「絵本クラブの先生だよ」
本の表紙を見せると、モネさんは嬉しそうに「ああ」と声をあげた。
「オランダの画家。フィンセント・ファン・ゴッホの画集ですよ。二十世紀の美術に大きな影響をあたえた、すごい画家なんですよ。フィンセントが描いた『ひまわり』は、世界的にも有名な絵なんです」
「あの、ひまわりの絵がそうなんだ」
学校でパラパラとページをめくっていたときに見た、ひまわりの絵。
たしかに、すごい迫力だった。ただの花の絵じゃないってかんじ。
「ぼくも天国図書館で、よくフィンセントの画集を見ましたよ。ひまわりや小麦畑、糸杉などのモチーフをよく描いていたみたいですね」
「モチーフって?」
「フランス語では、題材や動機という意味で使われます。美術的にいうと、〝絵でいいたいこと〟ですかね」
「モネさんの絵とは、ぜんぜん違うフンイキ」
「花は、見る人、描く人によって、まったく姿を変えますから」
なんだか、むずかしい話になってきた。
花は、花じゃないのかな。
目で見ても、画面越しに見ても、図鑑で見ても、花はかたちを変えないけれど。
「どういうこと?」
モネさんは「そうですねえ」とアゴに手を添えながら、教えてくれる。
「さくらさんはこのひまわりの絵、ぼくの睡蓮と、どこが違うと思いますか?」
どこがって、ぜんぜん違うよ。
「モネさんの花は、明るくってやわらかいフンイキ。優しいかんじもするし、花がきらきらしてる。このひまわりの絵は、力強くて、パワーにあふれてる。絵具も、ギュギュって塗られていて、色が目に飛びこんでくる感じがあるよ」
「その通り」
「え? 正解?」
「いいえ。でも、正解ですよ」
どういうこと?
「絵を見た感想は、人それぞれ。別の人に、今の質問と同じことを問えば、まったく違う回答が返ってくるかもしれません。花だけじゃなく、人も風景も動物も、描く人によってすがたを変える。そういうことですよ」
そういうか。やっと、意味がわかったよ。
たしかに、友達に「面白いよ」と貸したマンガも「うーん。イマイチだった」って返ってくるときもあるよね。
わたしは「そっかあ」って、ざんねんな気持ちになったこともあるけれど、感じ方は人それぞれ。
花は見る人によって、すがたを変える。
そういえば、ルドンくんも、モネさんとは、ぜんぜん違う絵の世界観だったな。
「色んな絵があるんだ……」
ニョキリ。絵のなかのひまわりのクキが、一瞬、伸びたような気がした。
「ん?」
わたしは目をまばたきしたり、こすったりしてみる。
今、なんか絵がヘンな気がしたけど。
「気のせい?」
とたん、景色がぐるんと一回転。
次の瞬間には、わたしはまた違う場所にいた。
わたしは、うんざりとばかりに「もー」と鳴いた。
「また、ルドンくんの絵のなかに入ったの?」
あたりを見渡すけれど、ルドンくんが描く絵とは、なんだか違うフンイキ。
黄色の絵の具が塗り重ねられたような、風変わりな景色。
ギンナン色の地面が、地平線のかなたまで続いている。
「これは、岩……いや、花びんですね」
後ろで、モネさんがいった。
ふり返ると、クリーム色と黄色のバイカラーがおしゃれな大きな花びんがそびえ立っていた。
ウネウネとうねっているひまわりが、何本も生けられている。
そのなかに、ちょこんと青いバラが一本、混じっていた。
「この絵には、青いバラは生けられていないはずですが」
「ひまわりってことは、もしかしてこの世界って……」
「ええ。ここは間違いなく、フィンセントが描いた絵のなかのようですね」
「どうしてまた、絵のなかに入っちゃったんだろう?」
「どうやら、さくらさんが〝芸術家の作品を目にし、特別な感情をもったとき、その作品に奇跡が起こる〟ようですね。だから、彼らはさくらさんにやたらと絵を見せてくるのでしょう。オディロンのときも、昇降口に絵が飾ってあったでしょう」
そういえば、昇降口の絵を見たとき、「こんなところに絵なんか飾ってあったかな」って思ったんだっけ。
ルドンくんは、わたしに神の奇跡を起こさせるために、あそこに絵を飾ったんだ。
ルドンくんの絵を見たときも、ゴッホさんの絵を見たとき、たしかに色んな感情がわきあがったよ。でも……。
「号泣するほど感動したわけでもないのに、こんなすごい奇跡が起こっちゃうなんてえ」
奇跡のムダづかいじゃない?
「絵を見て、感動するというのは、それだけ素晴らしいことなのですよ? きみが愛する、ぼくの絵のように」
わたしの胸が、きゅんと高鳴る。
フランス紳士って、こういうことを平気でいうのかな。
心臓がいくつあっても、足りないよ。
「わ、わたしも、練習すれば、誰かを感動させられるような絵を描けるのかなあ」
「ぼくといっしょに練習しましょう」
「いいの?」
「もちろん」
ふわりと、あたたかな笑顔を浮かべるモネさん。
それは、モネさんの絵から感じた、光のようなぬくもりで。
こんな先生に絵を教えてもらえるなら百人力だと思った。
モネさんは、鮮やかな青のジャケットのふところから、ヒラハケを取りだした。
「さくらさん。ぼくに、ちからを貸してくださいませんか?」
「うん」
それを、空中でシュっと横にふる。
すると、描いた線がきらきらと輝き、光の線となる。
そこから、一羽の黒い鳥が、翼を広げて飛び出してきた。
カラスに似ているが、おなかの辺りは白い。
広げた翼は、扇子みたいにきれいだ。
「ぼくが若いころに描いた代表作の一つ『かささぎ』です。雪におおわれた田舎の冬景色を描きました。ノルマンディー海岸のエルタトで描いたものですよ」
ノルマンディーもエルタトもよくわからないけれど、モネさんが描いたものなら、見てみたいな。
あとで、画集で探してみよう。
かささぎが、モネさんの肩にふわりと停まった。
「スズメ目カラス科。鳥類のなかでも大きな脳を持ち、そしてほ乳類以外で初めて、鏡に映るすがたを〝自分〟だと理解した鳥です。とても賢いんですよ」
カササギは、空に届きそうな大きさの花ビンをジーッと見つめている。
「このかささぎはね。特別なんですよ。さまざまな絵の具のにおいを教えこんであります」
モネさんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それって、どういうこと?」
「フィンセントの絵は、絵の具をたくさん使う描き方をします。なかでも、この二種類のホワイトを多く使っているようですね」
モネさんが出した二本の絵の具のチューブには、ジンクホワイトとシルバーホワイトと書かれている。
「この絵の具のにおいが一番集中しているところ。そこに、彼はいます。何しろ、画家は一日中、絵の具といっしょにいるのですから」
かささぎは大きな翼を広げると、ばささっと飛び立った。
あっというまに黒い点になったかと思うと、ある場所でぐるぐると回り出す。
「かささぎが、彼を見つけたようだね」
「うん!」
わたしたちは、かささぎが飛び回っているところへと急いだ。
かささぎのとこへ追いつくと、そこにも花びんがあって、うねうねとしたひまわりが咲いていた。
かささぎが、カチカチと鳴きながら、ひまわりのなかで暴れてる。
「ワアーーーッ! やめろお! なにするんだよう!」
大変だよ。誰かが、かささぎに襲われているみたい。
花びんの後ろから、男の子が飛びだして来た。
はちみつ色の天然パーマをふり乱し、涙目になっている。
新緑色の作業服に重ねた、ガーデニングエプロンには、たくさんの絵筆や絵の具が入れられている。
けれど、かささぎに追いかけられているからか、そこかしこに、ぽろぽろと絵の具や絵筆を落としてしまっているみたい。
「おい、お前の鳥なんだろ! どうにかしろお!」
ゴッホさんが、必死で叫ぶ。
「おかしいですね。ぼくのかささぎは、とても賢いので、誰かを突くなんてことはしないはずですが」
ゴッホさんは、おすもうさんにハリ手でもされたかのようなリアクションで、ゴロゴロと地面を転がっている。
しかし、かささぎはゴッホさんの近くを飛んでいるだけで、攻撃しているようには見えない。
「かささぎ、ゴッホさんに何かしたのかな。ケガをしているようには見えないけど」
「面倒くさそうな人かもしれませんねえ」
モネさんはおだやかにそういうと、かささぎを指笛で呼びもどした。
「ありがとう。もどりたまえ」
そっと、ヒラハケで体をなぜると、かささぎのすがたは霧のように消えてしまった。
ゴッホさんが涙でぐしょぐしょの顔を、袖でぐいぐいとぬぐっている。
かささぎがいなくなって、安心したのかな。よかった。
黒のショートブーツをはいているからか、よろよろと歩きにくそうにしている、ゴッホさん。
すると、モネさんがいつのも調子で演説をはじめた。
「フィンセント。ヒールは男女問わず、美意識の象徴といわれるものです。ヒールの練習は、人知れずするもの。ゆえに、そのようなすがたは人前で見せるものではありません」
「モネさんってば、そんなふうにいわなくても……ゴッホさんの絵のこと、ほめてたじゃん」
「ぼくは美しいものは、手ばなしで称賛します。みにくいものには、伸びしろもこみで、厳しく。それが優しさというもの」
そういうものなのかな。
いっていることはわからなくもないけれど。
ゴッホさん、モネさんのいいたいこと、わかってくれたかな。
「許さない……」
「え?」
ゴッホさんが、ものすごい顔で、わたしたちをにらんでいる。
これは、怒ってる……よね。
ゴッホさんは、目じりに涙をじんわりとため、低い声で叫んだ。
「よくも、よくもよくもよくも! ぼくに! 怖い思いをさせたなあーっ!」
「え、そこを怒ってるの?」
ついツッコんじゃったけれど、ゴッホさんの耳には届いていないみたい。
「宇野さくら! ピカソさまにお前を連れて来いといわれていたけれど、もうそんなことどうでもいいっ!」
ゴッホさんが人差し指で、空を指した。
すると、花びんのひまわりたちが、いっせいにピンッと、姿勢を正す。
ひまわりの花が、まるで扇風機のように、ぎゅるぎゅると回りだした。
「やっつけてやる! あんたたち、みんなっ!」
いきおいよく回っていたひまわりの花びらが一枚はずれ、わたし目がけて、ビュンっと飛んできた。
わたしは反射的に、ぎゅ、と目をつむる。
キインッ、という何かをはじき返した音が、耳に響いた。
おそるおそる目を開けると、モネさんがヒラハケで花びらを打ち落としてくれていた。
「フィンセント特製の、絵の具で塗り固めた、鉛製のひまわりですね。フィンセントの絵は、その描き方により、厚みがあり、かたくて丈夫。攻撃力もばつぐんです」
「のんきに解説してるばあいじゃないよ!」
「油絵の具ってのはねえ、手につくとなかなか落ちないんですよ。それぐらい強力だ。ああ、さくらさんも、パレットを放置したままにしたことくらいあるでしょう? 固まった絵の具はとてもかたい。フィンセントはそれを芸術にまで昇華した天才なんです」
「ねえー! モネさん! 二枚目の花びらが飛んできた!」
弾丸のように発射された花びらは、ドスドスッと地面に突き刺さっていく。
「ううーん、これは足でも撃ちぬかれた大変だ」
「冷静に、怖いこといわないで!」
「おや、失敬」
ひまわりは四方八方へ、どかどかと花びらを撃ち、黄色い物騒な花道を地面に作ると、一気に静かになった。
花びらを撃ちおえたのだ。
はあ。からだに穴が開かなくて、本当によかった。
「宇野さくらっ」
ゴッホさんは、すっかり泣き止んだようだけれど、まゆ毛はあいかわらず、ハの字になっている。
エプロンの左ポケットをもぞもぞと探りながら、キッとわたしを見すえる。
「きみの奇跡、もっとぼくに見せて」
ゴッホさんがポケットから取りだしたのは、青色の絵の具だった。
早撃ちのガンマンのように、ピンッとチューブのフタを外す。
すると、チューブの口から、噴水のように絵の具が噴き出した。
絵の具の噴水。
それは、黄色の世界をいきおいよく流れ、青は一本の川となった。
じょじょに水量を増し、わたしたちの元へと流れてきている。
「宇野さくら。ぼくには、きみの奇跡が必要だ。フィンセント・ファン・ゴッホとして、ぼくというタマシイのまま、人間界に永遠に、ぼくの新作を届けるために……」
ゴッホさんが、ぶつぶつと何かをつぶやいているけれど、よく聞こえない。
それよりも、ゴッホさん。
もしかして、わたしたちをおぼれさせようとしてる?
「あの川は、フィンセントの作品である『ローヌ川の星月夜』でしょう」
ゴッホさんはぶつぶつと何かをつぶやきながら、川の行くすえを見つめている。
ざばざばと、川が近づいてきている。
モネさんはわたしの肩を抱いて、ヒラハケをかまえた。
「『ローヌ川の星月夜』は、タイトルのとおり、フランスのローヌ川の夜景を描いた作品です。鮮やかな街灯を映し出したローヌ川。そして、コバルトブルーの夜空にまたたく、北斗七星」
「コバルトブルー?」
ゴッホさんが、低くうめく。
「ぼくの青には、ひとつとして、おなじ青はない」
エプロンからあふれだしそうなほどの絵の具を、ゴッホさんは両手でつかんだ。
チューブには、アクアマリン、ラピスラズリ、ターコイズブルー。
インディゴ、シアン、サックスブルー。
わたしの知らないような青の絵の具をばらばらと川に流した。
ゴッホさんの絵の、そびえ立つようなキャンバスの厚みを思い出す。
絵の具の層が、川となって、わたしたちに襲いかかってくる。
モネさんが、わたしに聞こえるか聞こえないかほどの声でいった。
「まずいことになりましたねえ……」
「モネさん! そんなことより、ゴッホさんの川が!」
「おや。さくらさん。聞こえていましたか。ぼくの弱音が」
わたしたちに絵の具の川が、おおいかぶさってくる。
モネさんが、ヒラハケでゴッホさんの青をなでつけた。
一瞬、川は真っ二つになったけれど、それでも勢いは止まらない。
このまま続けてたら、モネさんが疲れて、二人とも溺れちゃう!
「フィンセントとぼくでは、相性が悪すぎますね」
「どうして?」
「思いの強さですよ。ぼくは、天国でのんびり絵を描き続けられればいい。順番が来ればモネのタマシイを捨て、新しいタマシイで人生を歩みなおしてもいいと思っています。しかし、フィンセントは違う」
モネさんは長い息をつき、気だるそうに腕を組んだ。
「彼は、フィンセント・ファン・ゴッホであることに執着しています。だからこそ、この世界をかたちづくるパワーが違う。このままでは、ぼくはあなたを守ることができず、負けてしまうでしょう」
「そ、そんな……」
モネさんの細いあごを、汗がつたっていく。
ヒラハケをにぎる手にも、ちからがこもらなくなっているみたい。
ゴッホさんのパワーに押されてるんだ。
わたしに、できること……ないのかな。
「フィンセント。炎の画家と呼ばれる絵画への思いはすばらしいですが……今回ばかりはその情熱が、腹立たしい――」
とたん、ゴッホさんの青い絵の具が、わたしたちに降り注ぐ。
モネさんが押し負けたんだ。
わたしのからだに、モネさんがおおいかぶさる。
一気に視界が青色に染まる。
息が苦しい。まるで、海のなかにいるみたい。冷たくで、こごえそう。
モネさんが、わたしのからだを抱きしめてくれてる。
でも、さっきの絵の具の勢いで、意識を失ってしまっているみたい。
このままじゃ、わたしたち……。
モネさんのヒラハケが、青色のなかでたゆたっている。
わたしはそれへと手を伸ばし、握った。
モネさんのマネをして、横にふる。
しかし、何も出てこない。やっぱり、モネさんじゃないとダメなんだ。
さらに、わたしは思い出す。
神の奇跡をもう三つ、使ってしまっていることに。
ゴッホさんの『ひまわり』に、『ローヌ川の星月夜』。そして、モネさんの『かささぎ』。
今日はもう、ミューズさまのちからは使えない。
そんな、このままわたしたち、沈んでいくしかないの?
せっかく平凡なわたしに、神さまのちからが宿ったのに、肝心なときに使えないなんて。
せっかく美術館に、モネさんの絵を見に行こうとしていたのに。
そうだよ。諦めない。
わたしのちからは未熟だから、三つしか使えないんだっていってた。
じゃあ今、四つ目を使えるようになればいい!
わたし……モネさんと約束したんだ。
モネさんといっしょに、絵の練習をするって。
だから、お願い。モネさんのヒラハケ、ちからを貸して!
わたしは思いっきり、ヒラハケをふった。
きらり、と光の粒が、わたしの目の前を落ちていく。
出た。ヒラハケで描いた一線から、たくさんの光が!
そこから、大きな木の舟がザブウンッ、とあらわれた。
舟はわたしたちを乗せ、絵の具の海の上へと連れて行ってくれた。
「た、助かった……」
絵の具まみれのからだもそのままに、わたしは酸素を思いっきり吸った。
そうだ。モネさんッ!
舟に横たわっているモネさんを見ると、ちょうど薄く目を開けかけているところだった。
よかった。意識が戻ったんだ。
「モネさん。大丈夫?」
「ここは……」
「舟の上ですよ。モネさんのヒラハケから出てきたんです」
「ぼくの……?」
からだを起こそうとするモネさんを、あわてて支える。
きょろきょろと舟のなかを観察し、モネさんはフッと笑った。
「まさか、四つ目の奇跡を起こしたんですか。さくらさん」
「た、たぶん……?」
「これは、ぼくの作品『舟遊び』ですね。ぼくのヒラハケで、自分で奇跡を起こしてしまうとは。きみの願いのちからも、フィンセントに引けを取らない」
モネさんがわたしの頭に手を乗せてくれた。
がんばって、奇跡を起こしてよかった。
モネさんに守ってばかりのわたしのままじゃ、いられないもんね。
「このまま、フィンセントのもとへと向かいましょう」
「もう大丈夫なの?」
「ええ。きみの奇跡のおかげでね」
真っ青な絵の具の海に、巨大な黄色い花びんがぷかぷかと浮かんでいる。
それはあまりにも目立っていて、ゴッホさんの居場所はここですよ、と教えてくれているようなものだった。
うーん。ゴッホさんのセンスは個性的できらびやかだからなあ。
ゴッホさんは花びんのふちに立っていた。
わたしたちのすがたをとらえると、ニヤリと笑い、エプロンの右ポケットに手を入れた。
「さっき、ピカソさまから連絡があったよ。〝まずは宇野さくらにまとわりつく、光の画家を消しされ〟とね」
ポケットから引きぬかれたゴッホさんの手には、大きめのナイフがにぎられていた。
ナイフがきらりと光り、わたしは思わず叫んだ。
「じゅ、銃刀法違反!」
「あれは、キャンバススクレイパーです。キャンパスやパレットをキズつけずに、表面だけをそぎ落としたりするときに使うナイフですよ」
「なあんだ、絵の道具なのか」
そんなの武器にならないよー、と思ったけれど、この人たちには関係ないんだった。
画家の武器は、画材道具。
モネさんはヒラハケ、ルドンくんはモクタン、そしてゴッホさんはさっきの絵の具に、キャンバスクレイパー。
攻撃力なんて、いらない。
この人たちは、思いのちからで戦っている。
モネさんが、ヒラハケをにぎりしめた。
「星月夜よ、落ちろ!」
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを振り下ろした。
すると、頭上でちかちかと光っていた星たちが、べろりとはがれた。
ピンクや、グリーンの星が、キャンバスクレイパーによって、そぎ落とされたのだ。
「ふふ、落ちろ……落ちろ……クロード・モネの上に、星よ落ちろお!」
どぼおん!
青い絵の具の海に、星が落ちた。
黄色い光の輪っかを作り、海底へと沈んでいく。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ」
ゴッホさんが、キャンパスクレイパーを振り下ろすたび、星が落ちる。
「モネさん。舟を出しましょう。早く逃げないと」
「さくらさん!」
どぼおん!
星じゃない。これは、わたしが海に落ちた音。
モネさんに背中を押されたのだ。
海のなかを、いくつものカラフルな星が、落ちていってるのが見えた。
いけない。モネさんに、なにかあったんだろう!
わたしは急いで、海面にあがる。
海面にあがり、さっきまで乗っていた舟を見て、わたしは声が出なくなる。
『舟遊び』はぼろぼろになっていた。
星がぶつかり、大きな穴が開いている。
あのまま、舟に乗っていたら、わたしにぶつかっていたんだろう。
モネさんが助けてくれたんだ。
「も、モネさんは……?」
舟は空っぽだ。誰も乗っていない……。
あふれてくる涙をこらえる。
もぐって、モネさんを探そう。
大きく息を吸いこんだ。
「もう、クロード・モネはいない」
ゴッホさんが花びんのふちに座り、得意げにキャンバススクレイパーをくるくる回している。
「どういうこと」
「この世界は、ぼくの世界なんだよ」
「だから、何」
「あれ。あんた、知らないの? じゃあ、モネのやつも知らなかったのかな。〝長い時間、他の芸術家の作品のなかにい続けると、相手の作品の一部になってしまう〟ってこと」
何それ。そんな話、知らない。
モネさんも、知らなかったって……うそでしょ。
涙が、じわじわとあふれていく。
モネさんはもう、いないってこと?
「宇野さくら。あんたはもちろん、これには当てはまらない。あんたのちからで成立する奇跡なんだから」
ゴッホさんが、ひまわりのクキをわたしに伸ばしてくる。
「さあ、つかまって。ピカソのもとへ、連れていってあげるよ」
「いや、行かない」
「うわ、ナマイキなやつだなあ。さっさというとおりにしてくれる? 星を落とされたいの?」
ゴッホさんは面倒くさそうに、くちびるととがらせている。
モネさんなら、こんな態度、ぜったいにしないのに。
わたしはあふれてくる涙をぬぐいもせず、仕方なく、ゴッホさんのひまわりのクキをつかんだ。
すると、ゴッホさんは嬉しそうに、両手を上げた。
「ふふふ。やったー! 宇野さくらを捕まえたぞ。この、ぼくが!」
わたしは無心で、ゆらゆらとゆれている青色の水面をながめた。
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを一振りすると、『ひまわり』の世界がどろりと溶けていく。
ころん。
何かが、はいているクツのつま先に当たった。
ドングリのような、黒い種が落ちている。
「なんだろう、これ」
すると、種がかたかたと振動しだす。
まるで生きているみたいに、ぴょーんと飛びあがり、ゴッホさんの頭にぽこんと当たった。
「ウワーーー! いたいーーーッ!」
ゴッホさんが、大げさにのけぞり、悲鳴をあげた。
ちょこっと、当たったぐらいなんだけどなあ……。
「クロード・モネ! まさか、絵になっていないのかッ?」
「え?」
「宇野さくらのそばに、睡蓮の種を落としているなんて! 往生際の悪いやつ!」
「今、何ていったのっ?」
わたしは嬉しくて、その場で飛びあがった。
モネさんが、生きてる!
これが、睡蓮の種なら、間違いなくモネさんのものだよ。
だって、睡蓮といったら、モネさんだもん。
「ふん。こんな種、今すぐ踏みつぶしてやる!」
ゴッホさんが足を上げ、種に狙いをさだめた。
「だめ!」
わたしはゴッホさんを止めようと、身を乗り出す。
その時、睡蓮の種から青い芽がいきおいよく飛びだした。
すぐに大きな葉が広がって、あっというまにピンクの花が咲く。
見たことのないほどのスピードで、成長していく睡蓮。
みるみるうちに通常の大きさを超え、むくむくと巨大化していく。
わたしと同じくらいの身長になったとき、パカッと花びらが開いた。
「え?」
バクリ。
え? わたし、睡蓮の花に食べられちゃったんだけど。
暗い花のなか。
外でゴッホさんが、ギャーギャーと何かをいっている。
「モネさん、どこ?」
睡蓮の花が、フワッと開いた。
ここ、わたしの部屋だ。
ゴッホさんが、ひまわりの世界を消したから、戻ってきたんだ。
でも、モネさんはやっぱりいない。
睡蓮の花が、霧のように消えていく。ぽとん、と黒い種が落ちてきた。
モネさんが睡蓮の花で、わたしを守ってくれたんだ。
その後のわたしは、何も手がつかないまま、ずっとその種を見つめていた。
授業が終わると、すぐにランドセルを背負った。
「さくら。いっしょに帰ろう」
「今日はごめん。また誘って!」
通学路にそって、一直線に家へと帰る。
お風呂に入り、家族と夕ごはんを食べて、歯をみがくと、すぐにベッドに入り、目を閉じた。
ゴッホさんの『ひまわり』の世界から戻ったわたしは、なるべく目を開けないように過ごしていた。
お母さんに「何してるの?」なんて聞かれたから、「目の良くなるトレーニングだって」なんていってごまかした。
だって、またどこかにゴッホさんたちの絵がはられているかもしれないでしょ。
絵のなかに入っても、もうモネさんはいない。
あの睡蓮の種は、お守りに入れて、つねに首からさげてる。
わたしはベッドのなかで、それをギュとにぎりしめた。
モネさん。もう会えないの? いっしょに絵を描くっていったのに。
また、じんわりと涙がにじんできた。
神のちからがあっても、肝心な時に役に立たないんじゃ、奇跡でもなんでもない。
モネさんを助けられる方法、ないのかな。
『さくら』
「え?」
ぱあああ。
光だ。モネさんの光とは、比べ物にならないほどの、まぶしい光。
さっきの声がしたほうから、降り注いでくる。
手で作ったひさしのわずかなすき間からのぞくと、人影が立っている。
「だれ?」
『芸術の神、ミューズですー』
光が強すぎて、顔もすがたもまったく見えない。
ミューズさまって、わたしに神のちからをよこした人だよね。
神さまのわりに、なんだか軽そうな口調だけど、本当にミューズさまなのかな。
『さくらっち。まさか、あてぃしのこと、疑ってる?』
「え、いや」
『マジだから。マジのミューズだから』
「は、はあ」
女神さまと話してるのに、友達と話してるみたいなテンションで、なんだか調子がくるうなあ。
「あの、なんでここに?」
『さくらっちと話したいなーと思ってさ! てか、さくらっちに渡した、あてぃしのちからのことだけどー』
「あ。そうだ。なんで、わたしなんかにミューズさまのちからを?」
『なんかとか、よくなーい。さくらっちは十分、すごいよ。自力で、四つの奇跡を起こしたじゃん! 自信持ちなって!』
きらきらした光を背負いながら、ミューズさまはほがらかに褒めてくれる。
なんか、イメージしてた女神さまとだいぶ違う。
距離の近い女神さまだなあ。
めちゃくちゃ光がまぶしいけれど。両手で目をほとんど隠しながら、話してるよ。
『んでね。まあ、順を追って説明すんね。さくらっちは、モネっちから、天国が少子化のせいで、生まれ変わりの順番待ちがあふれかえっていることは、聞いたと思うんだけど』
「はい。聞きました」
『ぶっちゃけいうと、さくらっちにあてぃしのちからをあげた理由は、モネっちと仲よくなれそうだったから! だって、さくらっちって、モネっちの大ファンじゃーん?』
わたしはコントみたいに、その場にズッコけそうになった。
「そ、そんな理由?」
『うん。だって、あてぃし。すげー困ってんだよ。ピカソちゃんには。あ、ピカソちゃん、知ってるよね? パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』
何、今の、早口言葉?
『ピカソちゃんって、すげー名前、長いよね』
あれ、名前だったんだ。
『これまでにもっとも多く芸術作品を作り、ギネスブックに登録されている、〝二十世紀最大の画家〟といわれている画家。それが、ピカソちゃんね』
「ピカソさんに困ってるっていうのは……?」
『あてぃし、今、牢屋に閉じこめられてんだよねー。ピカソちゃんのせいで』
「ええ?」
『今、ここにいるのはまあ、人間界でいうリモート通話みたいな感じかな』
女神さまが牢屋にいれられるなんてこと、あるのっ?
『ピカソちゃんは、まったく生まれ変われない現状に怒ってるんだよ。平和な天国では刺激が少なくて、いい作品が作れないってさ』
「でも、待っていれば、必ず順番は来るんだし……」
『ピカソちゃんはねえ。普通に生まれ変わろうとしているんじゃないんだよ。〝自分に生まれ変わろうとして〟んのさ』
自分にって、そんなことできるの?
『そんなことはできないよ。神さまはみんなに平等だからさ。でも、ピカソちゃんは聞かなかった。自分に生まれ変わらなければ、制作を続けられないっていってね』
天国にいっても、まだ作品を生み出し続けているなんて。
さすが、二十世紀最大の画家だよ。
『ふーん。あてぃしが才能を授けたから、すごい作品を作れたっていうのに、えらそうすぎない? しかも、自力で生まれ変わろうとして、あてぃしのちからを奪おうとしてくるしさ!』
えー! それはさすがに、やりすぎなんじゃ。
「それで、ピカソさんはどうなったの?」
『なぜかあてぃしが、天国の牢屋に閉じこめられた』
「いや、本当になんでっ?」
『マジでムカついてさあ。こんなやつに芸術の神の一番大事なちからをやってたまるか、って思ってね。んで、人間界でモネっちの絵にうっとりしてた、さくらっちのほうへ、放り投げたんだよ。そしたら、お偉い神さまがたが怒っちゃって……』
それが理由っ?
『今までも、自分の趣味で芸術家たちに才能をあげてて、さんざん怒られてたんだけどね。今回ばかりは軽率すぎ、って神さまたちの火山大爆発。この牢屋のなかでは、このぐらいしかちからは使えないのさー。むりやり、人間界につなげてるんだよ。いつ、この会話が途切れるかもわからないから、急がないと』
ミューズさまは、ぷりぷり怒っているけれど。
つまりはわたし、完全なるとばっちりってことだよね。
いや、わかってたけれど。
『経緯は以上かな。つまり、ピカソちゃんは自分自身に生まれ変わるちからを手に入れるために、さくらっちを狙ってるんだ。ゴッホちゃんやルドンちゃんも、ピカソちゃんの意見に同意して、従ってるって感じだよ。でも、ピカソちゃんたちをそのままにしておくわけにはいかないんだ。神のちからをむりやり奪い取って使うってのは、天界の法律違反だからね』
ミューズさまは、真剣な口調でいう。
『下手したら、この世から芸術というものが消えてなくなるかもしれないよ』
「そんな!」
それって、図工の時間がなくなるとか、そういうことだよね。
美術館もなくだろうし、絵本クラブも……。
絵だけが芸術じゃない。演劇や、ダンス、彫刻に、写真。
色々なものが、この世界からなくなっちゃうっ?
「このこと、ピカソさんは?」
『知ってるけどさ、あてぃしのいうことは、信じてくれないんだよ。何か、信用ないんだよねえ。あてぃしの何が悪いんだよー』
ミューズさまの影が、手を後ろに組んで、伸びをしているのが見える。
わたしは首からさげている、お守りをにぎりしめた。
「あの、ミューズさま。モネさんが……もう、助けられないんですか?」
『モネっちはね、その睡蓮の種のなかにいるよ』
わたしのお守りを指さし、ミューズさまは続けた。
『まだ助けられる。急がないといけないけれど』
「どうすればいいんですかっ?」
『モネっちは、ゴッホちゃんの絵に取りこまれて、動けなくなってる。助けるには、ゴッホちゃんが持っている絵の具の青がいるよ。それを、種に塗って中和させればいいのさー。炎に油を注いで、燃やしつくすわけ。芸術は爆発だーってね!』
うそみたいな方法だけど、ミューズさまがいうんだから、本当なんだろうな。
いや、でも待って。
あの人、青っていっても、色んな青を持ってたよね……?
「どんな青ですか?」
『それは……』
とたん、ミューズさまの声がどんどん遠ざかる。
わたしはあせって耳を澄ますけれど、結局ミューズさまがなんといったのかは聞きとれなかった。
「うそでしょ……」
ミューズさまは、むりやり会話をつなげてるっていってた。
でもまさか、こんな重要なところで切れちゃうなんて!
「ゴッホさんの青……」
ローヌ川の星月夜には、色んな青が使われていた。
ミューズさまがいっていたのは、あのなかの青のどれかだとは思う。
いや、その前にゴッホさんから絵の具を取れるのかな。
あの人が分けてくれるはずないし。
これは、困ったぞ。
次の日の朝。
早くに登校したわたしは、図画工作室に来ていた。
睡蓮を見に来たんだ。モネさんの絵なら、見ても大丈夫だし。
ずっとそわそわして落ち着かなかった。
でも、この絵を見ると、ホッとするんだ。モネさん、本当に睡蓮が好きなんだな、って伝わるの。
モネさんの好きが、つまってる。
だからわたしは、この絵が好きなのかも。
ゴッホさんの青のこととか、どうやって絵の具を手に入れようとか、ぜんぜん決まってない。
不安でおしつぶされそう。
ひとりで、どうやってモネさんを助けよう。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
ガラッとドアが開けられた音に振り向くと、ツルハシ先生が立っていた。
でも、なんだかおかしい。
革グツで歩いている学校の先生なんて、聞いたコトがない。
「ツルハシ先生。学校の廊下を革グツで歩いちゃ、ダメなんじゃないですか?」
「いや、問題ないよ。きみ以外に、私のすがたは見えていないんだから」
「え……」
今思えば、少しヘンだったのかもしれない。
先生がわたし以外の絵本クラブの子たちと、話しているところを見たことがなかった。
絵本クラブの活動も、よく思い出すと他の先生が仕切っていた気がする。
いつも、気づいたらそばにいた、ツルハシ先生。
「あなたは、いったい……?」
頭のなかで、ごちゃごちゃになっている。
すると、ツルハシ先生は、唇のはしをつりあげた。
「本当の名をいうよ」
「え」
「はじめまして、宇野さくら。私の名前はパブロ・ピカソ。あなたのちからを、これから頂戴する者だ」
ピカソさんの笑顔は、モネさんの笑顔とは、まったく違う種類の笑顔だった。
思いやりも、やさしさも入っていない、まるで氷のような笑顔。
ピカソさんの視線から、目が離せない。
その時、一枚の絵が視界に飛びこんできた。
それは、ポストカードだ。
白黒で、パズルのような不思議なかたちの絵。
これは、何を描いた絵なんだろう。わたしには、それすらわからない。
むずかしい。それに、なんだか暗い雰囲気の絵だった。少し、怖い。
ハッ、と考えを止めた。
ピカソさんが、目を細めて、わたしにその絵を見せてきている。
「いけない。わたし、絵を……!」
時、すでに遅し。世界がぐるん、と入れかわる。
図画工作室から、あの青いバラが咲く、絵の世界へ。
わたしは黒の地面に、足をついた。
ツルハシ先生。いや、ピカソさんが青いバラのそばで、わたしを見おろしている。
「この絵は『ゲルニカ』。戦いを描いた絵だよ。怖い、と感じたようだね。さくら」
パチパチと、拍手をするピカソさん。
「なんで、そんなことを」
「これでまた、ぼくの絵は生き続ける。ぼくの絵を見た人が増えるたびに、ぼくの絵はその人のなかで生き続ける。すてきなことじゃないか。ところで……」
流れる冷水のような声で、ピカソさんはいった。
「モネの睡蓮は、いつ咲くのかな?」
わたしは首にぶらさげたお守りに触れる。
「モネを、元のすがたに戻そうとしているだろう」
「それは……」
「さくら。きみは、これがほしいんじゃないかな」
ピカソさんが、右手をそっと開く。
手のひらの上に転がる、絵の具のチューブ。
「それって、まさか」
「フィンセントの、青の絵の具だ」
「でも、ほしい青は……」
「これだよ。フィンセントが、最愛の弟に子どもが生まれたことを祝して送った、大切な絵『花咲くアーモンドの木の枝』に使われたターコイズブルー」
そうか。わたしは勝手に『ローヌ川の星月夜』に使われた青だと思いこんでいたけれど、そうじゃなかったんだ。
ゴッホさんにとっても大切な一枚に使われた、思い出の青。
それが、カギだったんだ。
でもまさか、ピカソさんがゴッホさんの絵の具をくれるなんて、思ってもみなかった。
ミューズさまの話を聞いたあとだったから、よけいに。
実はいい人だったんだ。
わたしは、嬉しさでいっぱいになった。
「ありがとうございます。ピカソさん」
絵の具を受け取ろうと、手を伸ばす。
すると、ピカソさんの手がにぎりこまれ、絵の具が取れなくなった。
え? どういうこと?
「絵の具。ほしいんだろう」
「は、はい」
「じゃあ、きみのミューズのちからと交換しよう」
一気に、ピカソさんへの信頼が崩れていく。
そういうつもりだったんだ。
一瞬でも信じたわたしが、ばかだった。
「いや」
「交換すれば、モネは助かるんだろう」
「そうだけど……」
「宇野さくら。きみに、神のちからなど、宝の持ちぐされだろう」
そんなこと、わかってる。
わたしが持っていたって、何の役にも立たないちからだよ。
「でも、やっちゃいけないことに使われるよりは、ましでしょ」
「きみが勝手に決めつけるのか? 私にとっては、とても大事なことだ」
ピカソさんのいうとおりだ。
わたしは、わたしの信じることをいっているだけ。
それは、ピカソさんも同じ。
ピカソさんは、絵が好きでしょうがないんだよね。
人間の寿命だけでは、描き切れないものが、たくさんあったんだよ。
だから、生まれ変わっても、自分でいたい。
だけど……。
「この世から、芸術がなくなっちゃうんだよ! それでもいいの?」
「きみも、ミューズのたわごとを信じるのか」
ドスッ、ドスッ。
地面に何かが、突き刺さる。
見ると、地面にグッサリと、ナイフが一本立っている。
「パレットナイフ。パレットのそうじや、キャンバスの下塗りなどに使う。美しい画材道具だ」
ピカソさんの手に、新たなナイフがかまえられた。
「これはペンチングナイフ。フラットな面で、描いたところを残さず塗り……」
ピカソさんはそのナイフを横にふる。
そのダンスのような動きは、次の行動がまるで予測できなかった。
「エッジのきいたところで、線もひける」
ズドドドドッ。
ペンチングナイフは次々と、ダーツのように地面に突き刺さっていく。
「ちょっと、聞いてました? わたしの話!」
「聞いていたよ」
「じゃあ、もうわかったでしょ? こんなことは止めてください」
「信じられないんだ」
手に持っていたナイフを、ピカソさんはバラバラと地面に落とした。
「自分が、こんなふうになってしまったのが」
ピカソさんは、ぽつぽつとしゃべりはじめる。
「天国は、とても美しい。天国へ来た当初の私は、スケッチの毎日だった。人間界にいたころよりも、多くの風景を描いた……」
ピカソさん。生きていたころも、毎日絵を描いていたんだもんね。
ギネスブックにも載るほどに。
「絵を描いて絵を描いて、わたしは待ちつづけた。生まれ変われるときを。しかし、まったくそんな話はこない。聞けば、人間界では少子化で、天国では多くのタマシイが生まれかわる時を順番待ちしているというじゃあないか」
ピカソさんは、くやしそうに手をにぎりしめてる。
声もぶるぶると震えていた。
「もう天国の風景は描きつくした。私はもっと、違う絵が描きたいんだ。心の底からにじみでるような、深い思いを。美しいだけの天国では、そういう絵は描けないんだ。心が穏やかなままでは、すべての人の心をうつようなものは永遠に描けないんだ!」
大粒の涙をこぼしながら、ピカソさんは絵の具を持っていないほうの手で、わたしのほほをつつみこんだ。
「さくら。きみは、私のことを理解してくれるよね……?」
平凡なわたしでは、ピカソさんのいっていることは、わからないよ。
でも、そんなことはいえない。
わたしが考えていることは、ふたつだけ。
芸術を救うこと。そして、モネさんを助けること。
「さあ、さくら。この絵の具と引き換えに、ミューズのちからをよこすんだ」
「ごめんなさい。いやです」
わたしは、こっそりと隠し持っていたものを、取りだした。
「さくら。それは……!」
ピカソさんが、目を見開く。
わたしはキャンバススクレイパーをにぎりしめ、ゲルニカのまっ黒の地面をガッと削いだ。
ピカソさんは、明らかに動揺してる。
まさか、わたしがこんなことをするなんて、思ってもみなかったんだと思う。
図画工作室に入ったとき、ふと目に入ったんだ。
まさかと思って、持って来ておいてよかった。
ピカソさんが、パレットナイフをかまえた。
何か、他の絵を出そうとしてるんだ。
「そんなこと、させないっ!」
わたしはモネさんのヒラハケを出し、一線を描いた。
「お願い! 出て!」
輝く光の線。そこから、一羽のかささぎが飛び出し、ピカソさんにおそいかかった。
ピカソさんの手から、ターコイズブルーのチューブがこぼれ落ちた。
わたしはそれを拾いあげ、お守りとともに強くにぎりしめた。
「モネさん!」
お守りぶくろが、光る。
なかに入っていた睡蓮のタネを取りだし、ターコイズブルーの絵の具をたらした。
すると、一気に芽が出た。
それは、どんどん大きくなり、巨大化する。
ふっくらとしたつぼみが、ぱかりと咲いていく。
咲いた睡蓮の真ん中で、男の人が眠っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。
鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士。
「モネさん!」
わたしが呼ぶと、その人はゆっくりと目を覚ました。
「ああ、さくらさん……?」
モネさんは、ねむけまなこを猫のように細めた。
そのとたん、一気に色んな感情がわきあがってくる。
モネさんがいなくて、とっても不安だったし、とってもさみしかった。
少しのあいだのはずなのに、とても長く離れていたみたいで。
わたしは、モネさんの胸に飛びこんで、ぎゅうと抱きつく。
「もー! ひとりで大変だったんだからね!」
「すみません……。助けてくださって、ありがとうございます。さくらさん」
「どういたしまして!」
にじんだ涙をモネさんにぬぐわれる。
さっそく、フランス紳士ムーブをされて、わたしの顔は真っ赤になっちゃった。
「油断したよ。作戦、失敗か」
ピカソさんが、くやしそうにくちびるを噛みしめている。
「でも、まだまだゲルニカの世界は生きている。ここは私の世界だ。削ぎ落された部分も修復されている。ゲルニカと戦え、クロード。宇野さくらを守りながらね。また睡蓮の種にならないよう、せいぜいがんばるがいいさ」
「ふん。さくらさんは成長している。神の奇跡も三つ以上起こせるようになっているようだしね。そろそろ、悪だくみはおしまいの時間なんじゃないのかな、パブロ?」
優雅にあごに手を添え、ピカソさんを見下すようにいう、モネさん。
なんだか、いつもの優しいモネさんとフンイキが違う。
寝起きだからかな。
「モネ。今の嫌味は、光の画家にふさわしくなかったのではないかな」
「……何だって」
「さくらが戸惑っているよ。訂正したほうがいいんじゃないのかな」
モネさんが、不安そうにわたしを見つめている。
どうしたんだろう。
「私は二十世紀最大の画家として、いつだってファンの期待に応えてきた。死してなお、作品を作り続けている。これからも、止まることはないだろう。さくらはきみのファンなんだろう。光の画家として、ファンの期待には応えるものだ。そうだろう、クロード」
ピカソさんの言葉に、モネさんが戸惑っているのがわかる。
モネさんが、苦しそうだ。
「さくら。きみは、クロードをどういう画家だと思っている? あふれる光が美しく、見るものの心をあたため、華やがせる。心が落ちこんでいても、クロードの絵を見ると、励まされる。そんな絵を描く画家だと思っているんじゃないかな?」
「え、それは……」
もちろん、そう思っていた。
図画工作室で見るモネさんの睡蓮は、これまで見たどんな絵のなかでも一番に好きだよ。
「だが、きみが信じるクロードは、生まれ変わろうとしている。クロード・モネを捨て、新たな人生を歩んでもいいと思っているんだ。きみが好きな画家は、きみが好きな絵を捨てようとしているんだ。許していいのかな?」
ピカソさんは、甘くねっとりとした砂糖菓子のような声で、わたしに問いかける。
モネさんは、無表情だった。
何を考えているのか、わからない。
でも、わたしの答えは決まっていた。
「わたしは、モネさんの絵が好きだよ。光じゃなくても」
すると、ピカソさんは不満げに息をついた。
「クロードは光の画家だ。絵には決して、黒色を使わない。自分から、闇を一切排除する徹底ぶり。それほどに光に固執した。自分で自分を光で縛っていったんだ。フランス紳士? 大変面白い冗談だ。本当の彼は、自分のことしか考えていないわがままで傲慢な男さ」
モネさんを見あげると、諦めたような顔をして、笑っていた。
「わがままで傲慢。その通りです。本当のぼくは、フランス紳士なんかじゃない。光という肩書きにとらわれた、哀れな画家です。さくらさんを守るだなんて、かっこうをつけておいて、結局あなたに助けられている。情けない男ですよ」
「情けなくなんかない!」
わたしが叫ぶと、モネさんが目を丸くする。
「モネさん。忘れてないよね?」
「え?」
「あー! 忘れてる! わたしと絵を練習するって、いってくれたじゃん」
「あ……」
モネさんの目に、きらりと光るものが見えた。
わたしは、「ふふっ」と口もとをおさえる。
「モネさんがどんな人かなんて、関係ない。だって、モネさんの絵に描かれているのは、モネさんの心だもん。わたし、好きだから、わかっちゃうんだ!」
すると、わたしの頭に、ポンと大きな手が乗せられた。
「こんなに優しい評論家は、初めてです。ぼくの専属にしたいくらいですよ」
「評論なんてしたっけ、わたし……」
ぽんぽんと頭をなでられる。
すると、ぴこんとアイデアがひらめいた。
ピカソさんが、つまらなさそうに何かを考えている。
たぶん、わたしからどうやってミューズさまのちからを奪おうかと思っているんだ。
「ピカソさん」
「……なんだ」
にらむような目つきで、顔をあげるピカソさん。
「さっき、人間界じゃないと、いい絵は描けないっていってたよね」
ピカソさんは、しぶい顔で、だまっている。
「あのさ、だったらいっそのこと天国に帰らなければいいんじゃないの?」
「は?」
「人間界に住めばいいんだよ」
すごくいいアイデアじゃない? はっきりいって、ノーベル賞もの!
わたしは真剣にそう思ったんだけど、ピカソさんに「はあ」と重苦しいため息をつかれちゃった。
「宇野さくら。それを人間界では幽霊というんだ」
「あっ」
「観察官のヘルメスに、すぐに連れもどされてしまうだろうな」
「そんなの、ヘルメスさんとかいう人に説明してさ。納得してもらえばいいんだよ」
ピカソさんは、かたくなに首をふる。
「そもそも、わたしはもう罪をおかしたタマシイだ。ミューズに不敬を働き、きみを襲った。わたしには、道は一本しかない。きみから、神のちからを奪い、目的を果たす」
「一本なんかじゃないよ!」
わたしは、まっすぐにピカソさんを見つめた。
「いっしょに謝りに行くよ」
「ばかな」
あざ笑うかのようなピカソさんに、モネさんが続いた。
「さくら、それは無茶です」
「なんで? わたし、本気だよ!」
「謝って許されるのは、子どものあいだだけなのです。ぼくたちは、もうおとなだ。謝って許されるほど、神という存在は、甘いものではないのです」
モネさんはそういうけれど、わたしはかまわずピカソさんの手をにぎった。
「絵を描きたいんでしょ! 本気じゃないのっ?」
ピカソさんは、わたしの手を振りほどかなかった。
そして、小さな声でつぶやいた。
「どうなっても、知らないぞ」
わたしは、大きくうなずいた。
「仕方ありません。ぼくも行きます。きみを守るのが、役目ですから」
モネさんが、わたしのもう片方の手を取った。
これで、ぜったい大丈夫。
だってわたしは、未熟だから使えないっていわれていた、四つ目の奇跡を起こしたんだもん。
以前のわたしよりも、成長しているんだよ。
自分を、みんなを信じよう。そうすれば、道は開けるよ。
でも、ひとつ重大なことをことを忘れていたみたい。
「どうやって、ミューズさまのところへ行けばいいんだろう?」
すると、モネさんが「ぷっ」と吹き出した。
「さくらさん。あなたが持っているちからは、どんなちからでしたっけ」
「奇跡のちから?」
「そう。天国へ行くことぐらい、なんの造作もありませんよ」
モネさんはきれいなウインクをして、ほほえんだ。
天国への行きかたは、本当に簡単だった。
「ミューズさま。天国に連れて行ってください」
そうつぶやくだけで、一瞬でわたしの視界は、見たこともないような美しい花畑が広がった。
花びらが舞い、金色の蝶がひらひらと飛んでいる。
ぬけるような青空には、大きな虹がかかり、遠くに真っ白な神殿がいくつか建っていた。
「ここが、天国。ミューズさまがわたしの声を聞いて、ここに連れてきてくれたんだ」
つぶやくようにいうと、隣に立っていたモネさんが「ええ」と返してくれた。
「さくらさんとミューズさまは、神のちからでつながっていますから」
後ろには、ピカソさんもいる。
どこかつまらなさそうに、天国の風景をながめている。
「やはり、ここはわたしの居場所じゃない」
誰にいうでもなく、ピカソさんはそういった。
「ミューズさまはどこにいるんだろう」
「牢屋ですね。天界裁判所の地下です」
モネさんが案内してくれる。
せっかく天国に来たのに、まさかまっさきに牢屋に行くなんてね。
ミューズさま、やっと直接会える。
いったい、どんな人なんだろう。
天国の牢屋の前で、白いパーカーを着た小がらな男の人が厳しい顔をして立っていた。
この人が、ヘルメスさんというかたらしい。
「モネ。いったい、なんの事態ですか。これは」
「ミューズさまに面会の機会を頂きたいのです。パブロ・ピカソのほうから話があるそうなので」
「ピカソッ?」
わたしたちの後ろに立っているピカソさんを確認して、ヘルメスさんは一気にきびしい顔になる。
「そんなことを許すはずがないでしょう。観察官として、この場ですぐ捕らさせていただきます」
ポケットから、スマホのようなものを取りだして(天国にもあるんだ)、どこかに連絡する気だ。
「ま、待ってください。わたし、ピカソさんにあることを提案したんです。そうしたら、きちんと話を聞いてくれました。まずはミューズさまのところへ行かせてください」
「宇野さくら! 人間のような下位互換の存在で、このおれに口をきこうなど……はじめにひざをつき、こうべを垂れ、ヘルメスさま話を聞いて下さい、と確認してから放しはじめ……」
ドカーンッ
突然の爆音。ヘルメスさんがしゃべり終わらないうちに、奥の牢屋はこっぱみじんに吹っ飛んでいた。
ヘルメスさんは、ぽかーんと口を開けながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
舞いあがった砂ぼこりのなか、うっすらとした影が浮かびあがった。
そこから、身長がすらりと高い、女の人が現れる。
ウェーブがかった金色の長い髪、緑色のひとみ。
ニコニコとした笑顔を浮かべ、真っ白なワンピースに、カラフルな宝石がついた黄金のアクセサリーをたくさんつけている。
まさか、この人がミューズさまっ!
あの時は、ほとんどが光でよく見えなかったけれど、実際に見てみたら、びっくり。
なんてきれいな人なんだろう。
この人が、芸術の神・ミューズさまなんだ。
「ヘルメース。さくらっちに対して、ひどいんじゃないのお?」
ミューズさまがヘルメスさんの顔をのぞきこむ。
すると、ヘルメスさまは熟したトマトみたいに顔を真っ赤にして、「あ、いえ、あの」ともごもごいっている。
ヘルメスさん。ミューズさまに弱いんだ。
「さくらっち。ごめんねえ。うちの観察官がつまんないやつでー」
「あ、いえ。そんなそんな」
モネさんとピカソさんから、神さまはそんなに甘くないっていってたから、覚悟はしてたんだ。
だから、ヘルメスさんのいったことなんて、気にしてないよ。
すると、顔をてかてかにしながら、ヘルメスさんが叫んだ。
「みゅ、ミューズさま! 牢屋から勝手に出ては、異端者として、天界裁判にかけられてしまいますぞ!」
「え! さ、裁判っ?」
テレビや動画とかでしか聞かないような、その重々しい響き。
そうか。牢屋から勝手に出たってことは、脱獄したってことになっちゃうのか。
「ミューズさま。戻ったほうがいいんじゃ」
「でももう、あてぃしのちからで、牢屋なんて粉々だよ。本当は、こんな牢屋に入れられたって、すぐに出られたんだけどね。今日まで大人しく入っててあげたんだから、感謝してほしいよ」
あいかわらず、フリーダムな女神さまなんだな……。
「あてぃしのことは心配しないで。それよりも、ピカソちゃんを連れてきてくれて、ありがとね。さくらっち、モネっち」
とってもきれいな、ミューズさまのほほえみ。
ピカソさんが、ミューズさまの前に進み出て、ひざまずいた。
あの、ピカソさんが。
「宇野さくらにいわれ、気づかされました。だから、お許しをいただきたく、ここに参上しました」
ミューズさまは、じっくりとピカソさんの言葉に耳を傾けている。
わたしは心臓がバクバクいいっぱなしだ。
モネさんは黙って、ヘルメスさんは不服そうにしながら、目の前のゆくえを見届けようとしていた。
「もう、私を私のまま、生まれ変わらせろとはいいません。私を幽霊として、人間界にいさせてください」
ミューズさまの目が、わずかに見開かれた。
そして、ヘルメスさんの「はああっ?」という叫びが、地下に響き渡る。
「なんと不敬な! 天国にいさせてもらった身分の分際で、幽霊になりたいなどとっ。せっかく生まれ変わらせてもらえるというのに!」
「大量の順番待ちをさせている観察官側の言い分など、聞く耳もたん。私は、女神ミューズと話がしたいんだ」
ピカソさんの早口に、ヘルメスさんの勢いがおとろえた。
「女神ミューズ。数々の無礼、申し訳なかった。しかし、私には私なりの主張があった。私は、私自身の芸術を愛している。私は私でい続けられる方法があるのなら、そちらを取る。それがどんな方法であってもだ」
ピカソさんは、熱い視線でミューズさまを見あげている。
芸術のことがほとんどわからないわたしでも、ピカソさんの思い、伝わってくる。
「ミューズさま。この男は、ルドンやゴッホまでたぶらかし、おのれの欲望を満たそうとしました。宇野さくらやモネまで危険にさらし、のうのうとこんなことをいっているのですよ。許されますか? いいや、許されない! 今すぐ、天界裁判の開廷を!」
ヘルメスさんの主張に、わたしはあせった。
たしかに、モネさんは大変な目にあったよ。
タマシイが消えそうになりかけた。
でも、わたしは大変な目にあったけど、許さないなんて思わない。
ピカソさんのことを危険な人だなんて、思わない。
「見てください」
わたしは、ピカソさんの手をつかんだ。
そして、ミューズさまの前に突き出す。
「絵が、好きで好きで仕方ない。そんな手です」
絵の具のまみれの手。
洗っても洗っても、汚れてるんだ。
昨日、ついた絵の具が取り切れないうちに、また絵の具がつくんだよね。
いつかに、油絵の具って、かなりがっつり洗わないと落ちないって、ゴッホさんがいってたのを覚えてる。
「ピカソさんのこと、わたしは許します」
「宇野さくら、人間ごときの許しなど、この男を許す理由にはならん。この男を裁くのは、神だ。なぜならこの男が犯したのは神をも恐れぬ不敬罪だか……」
ポンッ ポンッ ポンッ
突然、ヘルメスさんのからだが、カラフルな花に埋もれていく。
アネモネ、コスモス、チューリップ。
ヒマワリ、ザクロ、アマリリス。
ポンッ ポンッ ポンッ
音が鳴るたび、ヘルメスさんはふわりふわり、と花の海へと沈んでいく。
「ミューズさまっ? 何をなさるのですか!」
「ちょっと、うるさすぎー。ピカソちゃんの話が聞こえないから、そこで眠っててくれる?」
「ばかなっ。おれの意見を聞き流すというのですか!」
「だってさあ」
ミューズさまが、ひまわりのような華やかさで、にっこりと笑う。
「あてぃしがちからを与えて、りっぱな芸術家にしたピカソちゃんを、ヘルメスがいじめてるんだもん。親として、許しておけないよねえ」
「そんな……!」
ポポポンッ
ヘルメスさんのすがたは、花に隠れて、完全に見えなくなってしまった。
わたしたちのなかに、おかしな花のオブジェが生まれた。
「ヘルメスは、花の香りにつつまれて、いい夢を見ているはずだよ。心配しないでね。それよりも、さくらっち。すごいじゃん! あのヘルメスにたんかを切っちゃってさ。あてぃし、まるで天界裁判を見ているようだったよお」
「いや、そんな、大げさなっ」
すると、モネさんも、わたしの肩にそっと手を置いた。
「すてきでしたよ。さくらさん」
モネさんにいわれると、今度はわたしが、トマトみたいな顔になっちゃうよ。
わたし、ただただ必死で、あんなこといっちゃったけど。
ピカソさんは……どう思ったかな。よけいなお世話しちゃってたかな。
はた、とピカソさんと目が合うと、ぷいっと視線をそらされちゃった。
や、やっぱりおせっかいだったのかな、と思ったら、
「きみのおかげで、いけ好かない観察官が花のオブジェになった。その……」
そっぽを向いたまま、ピカソさんは照れたようにいう。
「宇野さくら。さすが、神に選ばれるだけの人間だ。あらためて、称賛するよ」
なんだか、よくわからないけれど、褒められたっぽい。
喜んでいい、んだよね……?
「さくらっちってば、ピカソちゃんといい感じじゃん」
このこの、とミューズさまにひじで突かれる、わたし。
あいかわらず、距離が近い女神さまだなあ。
「ピカソちゃん」
ミューズさまの表情が、ふっ、と落ち着く。
細めた目に金色のまつ毛がおりて、薄いくちびるにほほえみが生まれる。
ああ、やっぱりこのかたは女神さまなんだなあ。
「自分のカラのなかにこもってこそ、面白い芸術は生まれてくる。〝芸術は日々の生活のほこりを、タマシイから洗い流してくれる〟。ピカソちゃん、これはきみの言葉だったよね」
ピカソさんは、「はい」とうなずいた。
ミューズさまが自分の胸の前で、両手をきゅ、とこすりあわせた。
そして、ゆっくりと花咲くように手を開いていく。
すると、青いバラの花束がぶわりと現れた。
そのなかの一本を、ミューズさまはピカソさんに差し出した。
「ピカソちゃん。そして、ルドンちゃん、ゴッホちゃん。天国にいる、すべての芸術家たちにもう一度、このバラを授けるよ。あてぃしからの、愛のしるしに。自由な芸術をこれからも創造できるよう、願いをこめて」
「ミューズさま、それじゃあ……」
ピカソさんが、ゆっくりとそれを受け取る。
目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「うん。ピカソちゃん、人間界でのタマシイ活動、応援してるよ。観察官たちには、あてぃしのほうから、うまいこといっておくからさー。ルドンちゃんも、ゴッホちゃんにも、伝えるといいよ」
「ありがとうございます……」
祈るように青いバラを掲げ、ピカソさんはミューズさまに頭をさげた。
「お礼は、宇野さくらっちにね。この子のおかげで、きみは芸術を続けられるんだよ。あてぃしが選んだ女の子だよ! さっすが、芸術の女神・ミューズ!」
ふふん、と鼻高々にミューズさまはいった。
ピカソさんは苦笑しながらも、わたしに向き合った。
「そうだな。改めて、きみのことを称賛させてくれ。宇野さくら。きみはすばらしい」
何度もいわれると照れるなあ。
すると、モネさんがわたしとピカソさんのあいだに入ってきた。
「さあ、これから忙しくなりますよ。さくらさん」
「え。どうして?」
「パブロたちに、いろいろ教えないといけないからですよ。幽霊としてのルールをね」
「そんなものあるの?」
「幽霊のことを、見えるものもいるのですよ?」
「あ!」
「さくらさんは、〝幽霊となって創作活動を続ければいい〟と、パブロに提案しました。ならば、最後まで責任を持たねばなりません。芸術の神のちからを持つもの、人間として」
その後、わたしはモネさんといっしょに天国図書館にいた。
お城のような図書館は、天井まで吹き抜けになっている。
階段が壁にそうようにぐるりと回り、上に向かってどこまでも続いていくようだ。
壁や通路の本棚にはびっしりと、本がつまっている。
わたしが見ても、なんて書かれているのかはわからない本がほとんどだ。
階段を登り、二階まできたところで、日本語の本も見つけた。
ええと、『ももたろう』。子ども向けの本みたいだ。
「さくらさん。その本が気になりますか?」
モネさんが、かがんで本の背表紙に指をかけた。
「え、ううん。そういうわけじゃないんだけど」
「おや、そうですか」
本棚から手を引くモネさんの後ろで、ぎゃあぎゃあと誰かがさわいでいる。
「幽霊になるなんて、フィンセントにはムリだろう。 キサマは、臆病者だからなあ」
「オディロンこそ、他の幽霊を見てビビるんじゃないのお?」
「ちょっとふたりとも、なにケンカして……」
ふわり。図書館の窓から、ピンク色の花びらが舞いこんでくる。
そういえば、図書館の庭にも桜が咲いていたっけ。
人間界といっしょで、天国の景色も春めいていたな。
花びらは、わたしたちのあいだに、ひらり、ひらりと飛んできて。
わたしの肩に、ちょん、と乗った。
これは、桜の花びら?
「宇野さくら、そこを動くな!」
「え?」
ルドンさんが、そばにあったスケッチブックと鉛筆を手に取った。
「いいアングルに、いいシチュエーションだ! これは絵になる!」
ゴッホさんの目の色が変わっている。
手には、ルドンさんと同じ。スケッチブック、そして、鉛筆。
「「動くなよ!」」
この二人のモデルなんて、無理だよ。
こだわり強そうだし……。
それに、二人とも。
今から、予定あるんだけど。
外で、ピカソさんが待ってるんだけど……。
「今ですよ」
モネさんが、耳打ちをしてきた。
「二人の視線がスケッチブックに向いているうちに、出ましょう。パブロに叱ってもらえばいいですよ」
「そ、そうだね」
わたしとモネさんは、コッソリと二人の前から逃げ出した。
階段を降りている途中、画集が並んだ棚を見つけた。
「ヨハネス・フェルメール、葛飾北斎、東洲斎写楽、アンディ・ウォーホル……」
モネさんたち以外にも、いろんな芸術家さんがいるんだなあ。当然だけど。
いつか、会えたりしないかな。
その一冊を手に取る。
『クロード・モネ』
「ふふ」
モネさんが笑う。
「さくらさん。その画家が気になりますか?」
「うん。かささぎも、印象・日の出も、きちんと見たことがなかったし……」
本人のいる前で、作品集を開くことができるだなんて、なんだか贅沢。
ぱら、とページをめくろうとした時、
「宇野さくら! どこに行ったあ!」
「モデルが……ぼくのモデルがいなくなった……!」
あらら、まずい。
わたしは、モネさんの画集を持って走り出した。
これからの未来のことを考えながら、今ある景色のなかへと飛びこむように。
わくわくする気持ちで、キャンバスをいろどるように。
おわり
頭の上に、丸い輪っかを乗せたタマシイたちが暮らしているところ。
天国はとってもきれいで、住みやすく、楽しい場所だ。
だが最近、ある問題をかかえている。
人間界でショーシカというものが、すすんでいる。
子どもの数が、どんどん減っているってことらしい。
そのせいで、タマシイたちがなかなか生まれ変わることができないのだ。
いまだに、この天国では教科書にのっているような、歴史上の人物たちが人間界へ生まれ変われず、じゅんばん待ちをしている状態。
ぼくも、歴史上の人物というやつみたいなのだけれど。
ああ。申し遅れたね。
ぼくの名前は、クロード・モネ。
フランスのパリで生まれ、生きていたころは光の画家などと呼ばれて、風景や花などをたくさん描いたんだ。
もちろん天国でも、絵を描いているよ。
ぼくは今、天国図書館のどこまでも続く本棚の道をてくてくと歩いているところだ。
そこへ、図書館司書がぼくを呼び止めた。
「モネさん、観察官の方がお呼びです」
観察官というのは、天国の警察官みたいなもの。
人間界の人々を見守る、重要な役割を持っているんだ。
司書の隣に、白いパーカーを着た小がらな男が、ニコニコと立っていた。
ぼくはていねいに頭をさげ、あいさつをする。
すると、彼もペコリと頭をさげた。
「はじめまして、クロード・モネ。おれはヘルメス。天国観察官のものです。あなたにお話しがあって、参りました」
「ほう、いったいなんでしょう?」
ヘルメスはニコニコ顔をくずさず、パーカーのポケットを探っている。
「これからお話しするのは、アナタだけではなく、多くの芸術家たちにとって、耳よりなお話だと思います」
「耳よりなお話?」
「ええ」
ヘルメスはポケットから何かをとりだし、ぼくに差し出した。
それはいたって普通の写真で、十歳ほどの少女が笑顔で映っていた。
「この子が、どうかされたのですか?」
「彼女の名前は、宇野さくら。人間界の日本の小学校に通う十一歳の女の子です」
「はあ。それで?」
「まあ、なんといいますか」
なぜか、ヘルメスは言葉をにごした。
「実は……」
「実は?」
「ちょっと大変なことになっておるんです」
「はあ?」
ぼくは、嫌な予感がしてきた。
ヘルメスは何かよからぬことを、ぼくにいおうとしている。
とても面倒くさそうだ。この先を聞きたくない。
「それが、ミューズさまが……」
ああ、やっぱり。嫌な名前だ!
ぼくの苦手な、高貴なるお方。
この世のなによりも美しい、芸術の神。
そして、性格に難ありの、さわがしい〝騒々神〟。
「かのお方が、どうかされたのですか?」
「ええ」
ヘルメスはグッと息をつまらせてから、ゆっくりといった。
「実は、天国側の手違いで……ミューズさまのお力をこの少女に宿らせてしまったようでして」
すぐには理解が追いつかないぼくは、どんな顔をしていいのかわからず、ほほをポリポリとかいた。
「それはまあ、まずいこと、なんでしょうね」
「当たり前でしょう! また、ミューズさまの悪い癖が出たのです! 人間界で芸術の奇跡を見たいという神の気まぐれ! それで人生を狂わされる人間がどれほどいることか! 神の力は人間には扱いきれないとあれほどいっているのに……」
ぶつぶつと神に悪態をついている、ヘルメス。
ヘルメスは自分勝手な神々に、毎日苦労をかけさせられているらしい。
彼のことをよく知らないので、少しも同情する気持ちはわかないけれど。
「まだ宇野さくらは、自分に特別な力が宿ったことに、気づいていません。さくらに宿った力はミューズさまに比べれば、とても小さな力ですが……」
ヘルメスは興奮して、息がハアハアとあがってしまっている。
「大丈夫ですか?」
「お気づかいなく! それであなたに声をかけた理由はですね……!」
ヘルメスは勢いあまってぼくの鼻先にまで近づいて、あわてて離れていった。
「その、さくらの力を狙って、よからぬ企みをくわだてる者が現れているのです」
「いったい、誰なのですか?」
「それは、まだわかっておらぬのですが……」
ヘルメスは、ぎゅ、とこぶしを作る。
下くちびるを噛みしめながら、悔しそうに吐きすてた。
「あのボッティチェリも! ミケランジェロも! フェルメールも! ミューズさまの神の気まぐれによって生まれた最高傑作の人間です。芸術に愛され、芸術で人々を幸せにした。ミューズさまは、素晴らしいお方なのですよ。あなたもそうだ。ミューズに愛された芸術家だ。そうでしょう、モネ?」
「は、はあ」
現世で知らぬものはない有名な芸術家たちの名をつらね、ヘルメスはすごい気迫でつめよってくる。
彼の熱意に、ぼくの温度は急激に冷めていく。
いっしょに盛りあがれるような性格だったらよかったのだろうけれど、あいにくぼくはひとりが好きな芸術家なものでね。
すなおに気のない返事をしてしまい、ヘルメスがキッと、ぼくをにらみつけてきた。
「あなたまさか、ミューズさまへの敬意を抱いていないのでは?」
「まさか」
「こちらはいつでも、天界裁判にかけられるのですよ!」
「落ちついてください、ヘルメス」
ヘルメスの目は、ギンギンと血走っている。
おお、なんという神への忠誠心だ。
さすがは神々から一番の信頼を受けている監察官なだけはある。
「ミューズさまの力なくして、ぼくは存在しておりませんよ。ミューズさまがおられたからこそ、ぼくがあるのです」
取りつくろっているように見られるかもしれないが、ぼくの本心には違いない。
ぼくは、おそるおそるヘルメスを見上げた。
どうやら彼の機嫌が今の言葉で、すっかり直ったようだ。
よかった。とても単純な男だったようだね。
「そうですよね! この世にミューズさまを尊ばない芸術家がいるはずがない。おれとしたことが、なにを当たり前のことを……ハハハ! 忘れてください」
「ははは。当たり前ですよ」
笑顔が引きつりそうになるのを必死でたえる。やれやれ。
「ええと。それでですね」
まだ話は続くのか。もうすでに、肩にぐったりと疲れが乗っかりはじめている。
生きていたころ、大舞台でクソな評論家たちに、ぼくの絵を酷評されたときくらい、しんどいぞ。
「アナタに、指名を与えます」
「ええ……?」
ヘルメスは気取ったふうに、胸をはった。
それにつられて、ぼくも少しだけ緊張する。
「これからあなたは、さくらのもとへ行って、彼女の警護にあたってください」
「いや、ぼくはただの芸術家なんですよ。行くなら監察官であるあなた方が適任でしょう」
「何をばかな。我々は神々の警護をいい渡されているのですよ。人間の警護などしているヒマはないのです」
ごもっともな意見だ。そして、なんとヘルメスがいいそうなことだろうか。
なぜぼくは、彼がこういい返してくることを予想できなかったのだろう。
しばらく、自分を恥じよう。
「わかった。行く、行きますよ」
「おお! さすが光の画家、クロード・モネ! すばらしいお返事だ! だからさくらも、あなたの絵に心を奪われたのでしょうね」
そうか。彼女がぼくのファンだから、ヘルメスはぼくに依頼してきたのか。
ぼくのファンの警護となれば、喜びいさんで承諾すると思ったのだろう。
なんと浅はかな。ぼくのファンは世界中にいるんだから、別に今さらなんとも思わないのに。
「さくらは毎日、学校であなたの睡蓮の絵を見ていますよ。寿命の短い生物だというのにねえ。もっと有効な時間の使い方があるだろうに……おっと、こんなことをいっては、芸術の冒涜だ。ミューズさまにお叱りを受けてしまう」
「まず謝るのはミューズさまではなく、人間の少女にでは?」
「おや、今何かいいましたか? よく聞き取れませんでいた」
「いえ、何も」
こんなことにいちいち引っかかっているほうが、時間のムダだ。
ヘルメスの人間への軽視など、いつものこと。
さっさと、用件を聞いて別れよう。
「それで、ただの芸術家のぼくがどうやって人間の少女を警護すればいいんですか? 今から訓練を受けろとでも?」
「それは、さくらのもとへ行けばわかるでしょう……ただ」
突然、ヘルメスは真剣な声になる。
「ミューズさまは強く、こうおっしゃっていました。〝さくらを警護できるのは、わたくしから青いバラを送られた者だけです〟と」
青いバラ。ぼくは生きているとき、睡蓮の花をたくさん描いた。
天国でもいまだに描き続けているので、学者ほどではないけれど、花には少しくわしい。
青いバラの花言葉は、奇跡。そして、神の祝福だ。
天国に初めて来たとき、ぼくはミューズさまから、青いバラを授かっていた。
青いバラが、何だというのだろう。
何もわからないまま、ヘルメスと別れたぼくは、人間界へ行く準備をはじめた。
ああ、面倒くさい。
いい人のふりをするのは、心が折れるよ。
昨日、カットしたばかりのボブヘアーをゆらし、わたしはゲタバコから、ブラウンのローファーを取った。
セーラーカラーのブラウスに、プリーツスカートの組み合わせは、ここ最近でイチバンのコーディネイト。
友達にも「いいじゃん」と褒められて、わたしは今日一日、ゴキゲンだった。
四月。小学六年生になって、三週間がすぎた。
いよいよ最高学年。
ボブヘアーは、ずっとずっと憧れだった髪形だったんだ。
鏡にうつった自分を見るたびに、五年生だったころの自分よりも、さらにお姉さんになったみたいで、最高の気分。
ふふ。帰って宿題をすませたら、明日の絵本クラブのお話を考えようかな。
うきうきでローファーをはいて、わたしは満面の笑みで顔をあげた。
正面のカベにはられていた、一枚の絵が目に飛びこんでくる。
「あんなところに絵なんて飾ってあったっけ……?」
モノクロの、ヘンテコな絵。
どんよりとした、グレーの空に、ぶきみなものが浮かんでいる。
なんだか、ちょっと怖い。いったい誰が描いたんだろう。
有名な画家って、誰がいたっけ。
たしか、このあいだ見た動画で、小耳にはさんだ名前があった。
「ぽかり、いや、ぴかり……じゃなくて、ピカソ、だったっけ」
でも、ピカソってこんな絵、描いてたっけ。
あと知っているのでは、わたしの好きな画家。
きれいな睡蓮を描く、モネって画家。
目の前の絵は、モネが描く絵とはだいぶフンイキが違うけれど。
光と闇、表と裏ぐらい、正反対だ。
だけど、不思議な魅力がある。怖いけれど、気づいたら、ジッと見ちゃうような絵だな。
その瞬間、わたしは昇降口ではない、どこかに立っていた。
どんよりとした、グレーの空。何もない、砂の地面。生き物の気配も、ない。
音のない、しずかな世界。
わたし、いったいどうしたんだっけ。
下校しようとして、クツをはいて、絵を見て、それから。
「学校は、どこいっちゃったんだろう。ここ……どこ?」
「キサマが宇野さくら、か」
ふりむくと、わたしと同い年くらいの男の子が立っていた。
ぼさっとした髪、だぼだぼの白いトレーナーに、黒いサロペット。足もとは、黒いトレッキングブーツ。
右目には、眼帯をつけていた。ものもらいでも、できてるのかな。
「きみ、この近くに住んでるの? ここって、何番地?」
すると男の子は、左目だけでギロリ、とわたしをにらみつけた。
サロペットの大きなポケットに手をつっこみ、中から何かを取りだす。
それは、手のひらにおさまるていどの、小さな黒い棒。
「これが何かわかるか。宇野さくら」
「え? 何だろう。コンブ、かな。それとも、味のり?」
「ちがう! 本当になにも知らないんだな。さすが、おこぼれ」
おこぼれって、どういうことだろう。
男の子は、ニヤニヤとコンブみたいなものを見せつけてくる。
「これは、デッサン用のモクタンだ」
「デッサン、って聞いたことある。でも、何なのかはよく知らないなあ」
「もののカタチを正確にとらえて描くこと。手癖で自分なりに描いたりせず、描こうとするもののことを、自分の手や目でくわしく知る。絵を描くことにおいて基本となる作業だ」
「この、コンブが?」
「コンブじゃなくて、モクタン。木を燃やして、炭にしたものだ。これで、絵を描くんだ」
「こんな炭で絵を描くの?」
「モクタンは描いたり消したりが簡単にできるうえ、明暗の表現に優れており、画材としてとてもすばらしい……って、そんなことは今はどうでもいい」
男の子が急に近づいてきたので、むにゅ、と鼻の頭同士がぶつかった。
でも、男の子はおかまいなしにいい放つ。
「今から、キサマの神のちからは、ワガハイにうばわれる」
「わたしの、神のちから?」
キョトンとしているわたしを置いて、男の子は犬歯を見せつけ、笑った。
「何をいっているのか、さっぱりわからないんだけど」
「わからなくてけっこう! こちらで進めるだけなのだから」
「いや、変なことをされたら困るよ。まだ、状況を理解してないんだから」
「神のちからをうばうだけ。死ぬわけじゃないから、安心しろ」
その、ご大層なちからのことを知りたいんだけど。
なんでわたしがそんなものを持っているのか、わからないし。
具体的に問いつめたかったけれど、男の子はすでに聞く耳を持っていなかった。
モクタンを忍者のクナイのように、指のあいだにはさみ、かまえる。
待って、待って。何するつもり。
武器なんて持ってない、無抵抗の女の子に。
「さあ、我らがピカソのため、おとなしく神のちからをさしだすのだ!」
「ピカソ!」
聞き覚えのある名前だ。
ついさっき、口に出したような新鮮な聞き覚え。
「さあ! モクタンのチリとなれ!」
男の子が腕をかまえ、モクタンを投げようとしたときだった。
「ピカソですか。その話、くわしく聞かせていただけませんか?」
「えっ?」
わたしはとつぜん後ろから腕を引かれ、そのまま誰かに抱きとめられた。
後ろを見あげると、きれいな顔の男の人が立っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。
鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士だ。
「やっと、見つけましたよ。まさか、オディロンの絵のなかに入っていたとはね。きみが近くにいれば、青いバラをさずかった芸術家は、どこでも神のちからの奇跡を受けられるようですなあ」
「あの、今度は誰ですか」
戸惑いが隠せないわたしは、男の子と男の人を交互に見つめる。
知らない空間に、知らない人たち。
頭はもう、パンク寸前だった。
「ぼくの名は、クロード・モネ。宇野さくらさん。きみが好きな、睡蓮の絵を描いた画家ですよ」
ふんわりと、そよ風のようにほほえむ。
この人、なんてすてきな笑い方をするんだろう。
すっかり見とれていると、チクリと突き刺さるような視線を感じた。
男の子が、刃物のようなするどい瞳でこちらをにらんでいる。
眼帯をつけているから片目だけのはずなのに、まるで四方八方から見られているみたい。
「オディロン・ルドン、久しぶりですね」
モネさんに呼ばれたとたん、男の子はぷいっとそっぽを向いてしまう。
「彼のことは?」
モネさんにたずねられ、わたしは首をふった。
「おやおや」と、モネさんが苦笑いする。
「彼は、オディロン・ルドン。彼もぼくと同じ、画家です。フランスの美しい風景や、幻想的な世界の絵をたくさん描いたんです。まあ、ちょっと不気味で不思議な絵も多く、彼だけの作風を描いた孤高の画家といわれています。しかし、同じフランスの紳士として、女性を前にして名を名のらないとは、マナーがなっていないですねえ」
「って、ちょっと待ってください。あなたたちはいったい……? モネって、あの睡蓮を描いた画家さん?」
ようやく頭が現状に追いつき、やっとわたしは反論ができた。
しかし、そんな素朴な疑問もルドンくんにはねのけられてしまう。
「クロード・モネ! キサマ、天界からヘルメスにいわれてきたようだな!」
爪が黒く塗られた人差し指をモネさんに向ける、ルドンくん。
「指先を人に向けてはいけない。ここは日本だから、日本のマナーにしたがうべきだね。それが、フランス紳士としてのスマートな……」
「うるさい!」
ルドンくんは、顔を真っ赤にして怒っている。
わたしは驚いて、肩をびくりと震わせた。
すると、モネさんが大きな手をわたしの頭の上に乗せ、よしよしとなでてくれる。
「大丈夫ですよ。ぼくが守ります」
そういうとモネさんは、わたしをスマートに自分の後ろへと誘導してくれる。
これが、フランス紳士ってやつ?
海外の人と話すのは、英語のジェニファー先生ぐらいしかいなかったから、なんだか緊張する。
まあ、モネさんもルドンも日本語を話してくれているから、英語を話す必要もないんだけれど。
「この灰色の世界。見覚えがありますね」
モネさんは、ぐるりとあたりを見渡した。
灰色の空に、灰色の地面。何もかもがグレーで、ちょっぴり心がさみしくなる世界。
「ここは、きみが描いた作品のなかですね。たしか作品名は、『目=気球』。天国図書館で、きみの画集を拝読しましたよ。大変、すばらしいものばかりだった」
モネさんが、やわらかくほほえむ。
すると、ルドンくんは「うげえ」と顔をゆがませた。
「にこにこすんじゃねえーッ!」
ルドンくんの叫びに、灰色の空が震える。
あまりの大声に、モネさんがわたしの両耳をふさいでくれた。
「ワガハイの作品を、わかったような口ぶりで語るなッ!」
のこぎりのようなギザギザの歯を、ギシギシといわせる、ルドンくん。
あまりのかんしゃくに、わたしはモネさんを見あげた。
モネさんは、湖のほとりに咲く花のような優雅さで、ほほえみを浮かべていた。
ルドンくんとモネさんのあまりの対極さに、わたしは混乱した。
このふたり、まるで水と油だ。
ドシン ドシン ドシン……。
見知らぬ灰色の世界に、不審な物音がとどろいた。
「……地震?」
「ヒャハハハハ!」
とたん、ルドンくんが嬉しそうに大笑いし出した。
「きたあ! きたぞお! ワガハイの! すばらしい作品たちがあ!」
「さくらさん。あそこです」
モネさんが指をさす。
そこには見あげるほどの大きな、灰色の崖。
そこに、おそろしく高い背丈の黄色い巨人がいた。
そろりそろり、と足をあげ、崖からはいだそうとしている。
モネさんが、再びわたしを後ろに隠そうとしてくれる。
しかし、わたしは恐怖で足がすくんでしまい、うまく立っていられなくなってしまった。
気づけば、ぷるぷると足が震えている。
あんなもの、初めて見た。
「い、家に帰りたい……っ」
あの巨人にふみつぶされて、死んじゃうのかな、わたし。
まだ、死にたくないよ。
ぽろり、と涙がこぼれた瞬間、わたしは横に抱きあげられた。
至近距離に、モネさんの涼しげな顔がある。
「大丈夫。ぼくが守りますから、安心してくださいね」
巨人が、ドスン、ドスンとおいかけてきている。
すると、巨人の後ろから、何かが飛んできているのが見えた。
風に乗って、ふわふわと不気味にゆれながら、近づいてくる。
あれは、気球だ。
しかも、バルーンの部分が目玉になって、ギョロギョロと動いている!
「オディロンの気球ですよ。彼が、一八七八年に描いた『目=気球』という作品。あれが、その気球です」
目玉気球の上で、ルドンくんがあぐらをかいて座っている。
あいかわらず、不機嫌全開のようで、顔が怒りで真っ赤っかだ。
「気球に、巨人って……どういうつながり?」
「あの巨人も、オディロンの作品です。『キュクロプス』という彼の作品ですよ。あの巨人の名前が、キュクロプスというのです」
モネさんはわたしを抱いたまま、わかりやすく解説してくれるんだけど。
紳士らしく、立ち止まって、ていねいに教えてくれるうえに、後ろをふりむいて、気球や巨人を見ながら教えてくれるもんだから。
お、追いつかれそう!
「も、モネさん! は、はやく逃げよう!」
「おや、申し訳ない。急ぎましょう」
モネさんが走ってくれるけれど、縮まった距離はなかなか開きそうにない。
ルドンくんも必死の形相で追いかけてくる。
うう、もうダメ。踏みつぶされちゃう!
「うーん。戦うのは苦手なんですが、仕方ないですね」
モネさんが、わたしをそっとおろした。
そして、鮮やかな青のジャケットをひらりとはらう。
そのふところから、ハケのようなものを取り出し、くるんと回した。
「も、モネさん! それで戦うのッ?」
こんな道具で、勝てるのかな。
もっと、剣とか弓とかじゃなくて、大丈夫なのかな。
「これは、ヒラハケ。下ぬりのときに使う道具です。絵を描くまえの真っ白なキャンバスに、下ぬりをしておくと、絵の具がよく浸透して色がきれいに出るんですよねー」
「いや、そんなんでどうやって戦うのッ」
「こんな道具でも、ぼくはスマートに勝ちますよ」
ドスーンッ
巨人の大きな足が、わたしたちの目の前に落ちてくる。
地面の振動によろめくわたしを、モネさんが支えてくれた。
巨人の大きな足が、わたしたちをふみつぶそうと、グググッとあがっていく。
「その女をよこせ! クロード!」
「いやです」
「ふん、調子に乗りやがって」
ルドンくんが叫ぶ。
「ぼくは、いつだって冷静ですよ」
さっと、ヒラハケをかまえるモネさん。
それを横にふり、きれいな一線を描く。
するとそこから、ぷくぷくとまるい水の玉があふれだしてきた。
水の玉は、またたくまにあたりに広がり、雨のように地面に降り注ぐ。
そこに、大きな水たまりができはじめた。
巨人が、ジャブン、と水たまりに足をとられた。
ヨロヨロとよろめき、後ろへバランスをくずしていく。
「え、ちょ、おい!」
ルドンくんは、あせりながらもモクタンを巨人に向け、何か指示を出そうとしている。
ぐらり
巨人が倒れていく。
気球のほうへ。モクタンをかまえ、呆然としている、ルドンくんのほうへ。
「ちょ、ちょ、ちょ、ちょッ!」
巨人をよけようと、モクタンをふりまわす、ルドンくん。
ドスーーーーーンッ!
けっきょく、巨人は地面にうつぶせに倒れてしまった。
ルドンくんの気球もそれに巻きこまれ、巨人の下敷きに。
やわらかい目玉気球に救われ、ルドンくんはなんとか無傷だったみたい。
目玉気球からはいだしたルドンくんは、イライラマックスだ。
「クロード! キサマッ! 何だ、今のは!」
「ぼくの愛する花たちですよ」
よく見ると、巨人が足を取られた水たまりに、きれいな睡蓮がいくつも、ぷかぷかと浮かんでいる。
倒れた巨人の足首にも、ぐるぐると何かが巻きついている。
睡蓮のクキだ。
巨人はこれのせいで、バランスをくずし、倒れてしまったんだ。
「宇野さくらの、神のちからを使ったな!」
「ええ、そうですが。それが何か?」
名前を呼ばれるけれど、わたしはあいかわらず、なんのことかわかっていない。
わたしは何もしてないんだけどなあ。
「ぐぬぬぬぬ!」
ルドンくんは、くやしそうに地面をドスドスとふみつけている。
モネさんのせいで、思うようにいかず、そうとう頭にきているみたい。
ルドンくんが復活した気球の上に、飛び乗った。
「気球! モネのヒラハケをうち落とせ!」
すると、気球の下に、ぶら下がっている皿のようなところが、ぐるぐる回り出した。
フリスビーみたいに飛ばすつもり?
あれで、ヒラハケをうち落とす気だ!
「モネさん!」
わたしは飛び出しそうになるけれど、モネさんの手がすっと前に出てきて止められた。
「オディロン。ひと筆、遅かったね。〝ぼくはもう描き終わったよ〟」
モネさんがヒラハケをかかげ、横に一線、ひらりと描く。
すると、毛先からたくさんの光がパアッとあふれだす。
一気に、この灰色の空間を明るく照らしてくれる。
「ワガハイの世界がッ!」
ルドンくんが、絶叫する。
それは、きらきらとまぶしい光だった。
初日の出を、至近距離で見ているのはないのかと思うほどの激しい光。
「美しい朝日をいっしょに拝みましょう」
「まぶしい……目を開けていられない! と、閉じなければ……」
ルドンくんが、眼帯をしていないほうの目を強くおさえている。
あれ。目玉気球のようすが変だよ。
のろのろと、高度が落ちていってる。
ぎょろぎょろとしていた目が、今にも閉じそうだ。
「しまった! 目を閉じるな!」
ぱちん。
目玉気球のまぶたが、完全に閉じた。
視界をうしなったらしい気球は、一気に地面へと落下していく。
何だか、さっきも似たようなシーンを見た気がするよ。
「わあああああ!」
再び、地面に落ちてしまったルドンくん。
今度こそ、ケガとかしちゃったんじゃないかな。
わたしはあわててかけよった。
「大丈夫ですよ。ここは、オディロンの絵のなかなんですから。絵を描いた本人が、ケガをすることはまずありません」
モネさんが、いった。
しゃらん。それは、視界のはしに映った。
青くて、きれいな、見たこともない花。
バラだ。赤いものなら知っているけれど、青いバラなんて初めて見た。
モネさんが、ルドンくんに耳うちをしている。
何をいわれたのか、ルドンくんは顔を真っ青にして、のろのろとモクタンをふった。
すると、まばたきをするわずかのあいだに、目の前の世界が変わった。
学校の昇降口に、戻ってきてる。あの絵も、なくなってる。
わたしは初めて来た場所のように、あたりをキョロキョロと見渡す。
モネさんとルドンくんは、やっぱりいない。
夢だったのかな。白昼夢ってやつ。
でも、すごくリアルだった。
屋上に吹きすさぶ風は、ぼくとオディロンの頬を冷たく吹きつけた。
オディロンは気球から落ちたようだけれど、やはり、キズはひとつもついていない。
だけど、やはり最後に出した、ぼくの絵の影響は大きかったみたいだ。
オディロンは眼帯をしている右目を強くおさえながら、ぼくの胸ぐらにつかみかかってきた。
「くそう。宇野さくらを逃がしたじゃないか! キサマのせいで!」
「いや、ぼくは彼女を守れといわれているからねえ」
「いい子ぶるやつが、ワガハイはいちばんきらいなのだ。キサマ、さっき何をした?」
「気球や巨人に大きな目がついていたので、朝日を浴びてもらいました。さくらさんを守るためです。きみの行動は、ずいぶん乱暴でしたから」
「絵の話をしているんだ。キサマ、睡蓮の画家ではないのか」
「ぼくの描くものは睡蓮だけではないってことです」
「キサマの絵など知らん。ワガハイは孤高の芸術家なのだから」
オディロンは、つまらなさそうにくちびるをとがらせた。
「はあ、そうですか。さっきの光は、ぼくが描いた『印象・日の出』という絵です。港に浮かぶ船、そして淡い赤で描いた太陽。光にあふれた一枚です。きれいだったでしょう」
さくらさんから遠ざけるため、オディロンにモクタンをふってもらったはいいものの。
人間界は久しぶりだ。ここはどこだろう。
近くにさくらさんの気配は感じるから、ひとまずは大丈夫そうだけれど。
「くそっ。ワガハイはまだまだ戦えるが、今日はひとまず退散だ。宇野さくらの神のちからはもうないからなあ」
「え、なぜですか?」
「クロード……キサマ、知らんのか! なんと厚顔無恥なやつなのだ!」
「いいからさっさと教えてください」
ヘルメス。あの自己愛の強い、ファナティック観察官め。
肝心なことをぼくに教えていないようだ。
「宇野さくらの神のちからは、まだまだ未熟なのだ。ゆえに、〝青いバラの芸術家〟の作品を一日三作品にしか、奇跡を起こせない」
奇跡。つまり、さっきのオディロンやぼくのように、絵を現実のものとすることができる。
それが、芸術の神・ミューズの最大の奇跡。
今はなぜかそのちからが、宇野さくらに宿ってしまっているのだ。
「なぜ、キサマに親切に説明せねばならんのだ!」
「いや、助かった。感謝する」
「だまれー! 今に見ていろ。我が主・ピカソは宇野さくらの神のちからを手に入れるため、キサマらに次々と刺客を送りこむだろう!」
一気に、ぼくの顔が引きつった。
そうか。敵はやはり、ピカソか。
また、今回みたいに面倒そうなやつだったら嫌だなあ。
「ふん! せいぜい、あの女のことを守ってやるんだな! ハ-ッハッハッハ!」
オディロンはぼくに背を向け、すたすたと屋上を出て行った。
屋上に、静けさがもどる。
「うーん。パブロ・ピカソか。これは強敵かも知れないなあ……」
戦いは得意じゃない。
ぼくは、のんびりと絵を描いていられればよかったのに。
ああ、面倒だ。
だが、このままさくらを放っておくわけにもいかない。
ぼくは、光の画家と呼ばれている。
ぼくが描いた絵たちに恥じないためにも、いい人でい続けなければ。
さっきの夢が忘れられなくて、わたしはまだ、なんとなく学校に残っていた。
行く当てもなく廊下を歩いていると、図画工作室にたどりついた。
あれ、カギが開いてる。ええい、入っちゃえ。
たくさんの机とイス。使ったことのない道具たちに、画用紙の山。
そして、低学年が作ったらしい作品たちがロッカーの上にならんでいる。
わたしはランドセルをおろし、机の上に置くと、壁に飾られた絵を見上げた。
パステルカラーで描かれた、きれいな睡蓮の花。
光にあふれた池に、白い花が浮かんでいる。
わたしが好きな絵。描いた人の名前は、もちろん知っている。
「クロード・モネ」
今、いおうとした名前を先にいわれ、わたしは驚いた。
ふりむくと、そこに知らない男の人が立っていた。
ショートカットのツーブロックに、ブラウンのベレー帽をかぶっている。
カッターシャツの上から、絵の具まみれにニットベストを着ている。
ベージュのチノパンに、茶色のサンダル。
見るからに図工の先生って感じだけれど、こんな人、知らない。
「この睡蓮の絵は、モネが描いた二百点以上ある睡蓮の絵のうち、一九〇五年に描かれたもののレプリカさ」
「モネさんって、二百点も描いてるんですか。睡蓮の絵を……」
「ずいぶんと、親しげに呼ぶんだね。クロード・モネのことを」
「は、はい。ファンなので、つい」
夢の中で会っただけなのに、仲がよさそうに呼ぶのはおかしいよね。
恥ずかしいことしちゃったな。
でも、あまりにもリアルな夢だったから、つい。
「私は、ツルハシ。明日から、この学校の絵本クラブを教えることになったんだ」
やっぱり先生だったんだ。
しかも、わたしが所属してる絵本クラブの先生だったなんて。
わたしの通う小学校には、科学実験クラブや遺跡発掘クラブなど、個性的なクラブ活動が多いんだ。
だから、学校の先生だけでなく、地域のボランティアで先生をしてくれている人が大勢いる。
ツルハシさんもそのひとりだったみだい。
「わたし、絵本クラブなんです。明日から、よろしくおねがいします!」
元気にあいさつしたつもりだったんだけど、なぜかツルハシさんは悲しそうにまゆをハの字にさげた。
「この絵が好きなの?」
「はい、きれいですよね」
「さっきもいったが、これは本物の絵じゃなく、レプリカ。ニセモノだ。本物は、外国で三十四億円の値段がついたそうだよ」
「お、億!」
芸術ってすごい。そんな買い物、わたしは一生しなさそう。
コンビニのアイスの三百円で、ずっと悩んでる人間なんだもん。
そもそも、三十億が入る財布って、どのくらいの大きさなのかな?
「きみ、名前は?」
「宇野さくらといいます!」
「そうか。きみだったのか」
ツルハシ先生の目が、ひやりとわたしを射抜く。
ぞわり。わたし、また何かいっちゃったのかな。
「これから、よろしく。絵本クラブ、楽しみにしているよ」
あれ。怒らせたかな、と思ったけれど、今は笑顔だ。
何だったんだろう。
「は、はい。わたしも楽しみにしてます」
「宇野さん」
ツルハシ先生に、ジッと見つめられ、わたしの心臓がドキンと高鳴る。
「もっと、色んな経験をするといいよ」
それはまるで、音楽のようにわたしの耳にすっと入ってきた。
「色んな経験?」
「うん。本を読んだり、あと、美術館に行ったり」
「美術館ですか。モネさんの絵、飾ってあるかなあ」
「もちろん。モネだけじゃなく、たくさんの画家の絵があると思う。それじゃあ、また明日。絵本クラブでね」
ツルハシ先生はそのまま、ふりかえることなく教室を出て行った。
「なんだか、ミステリアスな先生だなあ」
でも、とても絵にくわしそうな先生だった。
あの夢を見たせいかな。
もっと絵のことを知りたいと思っていたから、すごい偶然。
ツルハシ先生に、絵のことをたくさん教えてもらいたいな。
わたしは、明日の絵本クラブで描く物語を考えながら、ランドセルを背負った。
クロード・モネ。
オディロン・ルドン。
夢で出会ったふたりのことを思い出すと、胸がドキドキした。
もう一度見たいな。
ハラハラしたけれど、わくわくもする夢だった。
もう一度、夢でモネさんに会えたらいいのに。
そんな妄想をしていたら、いつのまにか家に着いていた。
そういえば、お母さん、今日はお仕事で少し遅くなるっていってたっけ。
お父さんは、いつも夜の九時半ごろに帰ってくる。
家はシーンと静まり返っている。ひとりの家は、いつもさみしい。
リビングのソファにランドセルをおろすと、自分もそこにドカッと沈みこんだ。
「はあ、また会いたいな」
「ほう、誰にですか?」
わたしは、ソファでのけぞった。
聞き覚えのある声、安心するような優しい口調。
そして、頭にのせられた、大きな手。
「おかえりなさい、さくらさん」
ぽんぽんと頭をなでられる。
同じだ。今日見た夢と。
もしかしてわたし、また夢を見ているのかな。
「く、クロード・モネ、さん!」
「覚えてくれていましたか。嬉しいですよ」
嬉しくて、嬉しくて、わたしはなんといっていいのか、わからなかった。
また会えてうれしいです。あれは夢じゃなくて現実だったんですか。これは、夢じゃないですよね。
いいたいことがありすぎて、口をぱくぱくさせていると、モネさんが「そうそう」と思い出したようにいった。
「さくらさん。レディがあのように、はしたなく座るのはいただけませんな。淑女のたしなみは、まだ勉強中でしょう。ぼくがレッスンしてさしあげましょう」
「はいっ?」
「さあ、立って」
「ほあっ?」
無理やり立たされる、わたし。
「さあ、スカートにしわがよらないように、そろえて。足もひざを合わせて、スマートに。そのまま、優雅に腰をおろして。そうそう……」
とすん。ソファにゆっくりと沈んでいく、わたし。
何が起こっているのかわからないけれど、こんなに上品にソファに座ったのは、人生初だよ。
「美しさは、内面からあらわれるもの。心を健やかに、清く正しく。それが、人柄にも、絵にも表れるのです」
うわあ。モネさんってけっこう口うるさい系男子なのかな。
優しい紳士だと思ってたのに。夢が壊れていくう。
「さて。これから、ぼくはきみをよからぬものから守らなければならない。そのためにも、きみには、守られるものとしての礼儀や作法を知ってもらわなければいけない。まずは、ぼくから離れないこと。そして……」
「いやいや、それって夢の話の続き? わたし、何が起こってるのかさっぱりわからなかったよ。なのに、礼儀や作法とかいわれても困るんだけど!」
あの時は、わけもわからず逃げてただけ。
ルドンくんから狙われていることだけはわかったけれど、何で狙われているのかは、はっきりとはわからなかった。
「神のちからってなんなの?」
「覚えていましたか。よろしい。説明いたしましょう」
モネさんは、ていねいにわかりやすく、これまでのことを教えてくれた。
目の前にいるモネさんが、わたしの知っている睡蓮の画家、クロード・モネで間違いないこと。
実は、天国のタマシイで、わたしにしかそのすがたは見えないこと。
そして、ミューズさまのちからがなぜかわたしに宿っていて、それを狙って、ルドンくんがおそってきたこと。
「つまり、ミューズさまから青いバラをもらった芸術家は、わたしに宿っている神のちからで、自分の作品を本物にして、あやつれるようになるってこと?」
「その通り。さくらさんは賢い子ですね」
にこにこと、わたしの頭をなでてくれる、モネさん。
嬉しいけれど、今は喜んでいるばあいじゃない。
これ、まだ夢なんじゃないんだよね。現実、なんだよね。
わたし、これから神のちからをねらう芸術家たちに、おそわれるかもしれないってこと?
「さくらさんはまだ未熟なので、一日三作品にしか、奇跡は起こせないそうですよ。そのへんは助かりました。無限に奇跡を起こされたら、収拾がつかないですから。悪いことに使われたら、大変なことになります。そういう危険な絵も、たくさんありますからね」
「そうなんだ……」
わたしの話なのに、まるで別の人の話みたい。
自分に神のちからが宿っていて、そのせいで狙われているなんて。
「不安そうですね」
「いや、まあ。こんなの初めてだし」
するとモネさんは、きゅ、とわたしの両手をにぎってきた。
ドキン、と心臓が飛びはねる。
「ななななな、なにッ?」
「くもった顔は似合いませんよ。笑ってください」
「ううう、うん。ありがとう……」
ふふふ、フランス紳士、おそるべし。
胸が破裂しそうなほどに、ドキドキしてる。
心臓がいくつあっても足りないよ。
不安だったのが、一気に吹き飛んじゃった。
まるで、モネさんの絵みたい。やっぱり、描いた人に似るのかな。
「あのね」
「はい」
急に、伝えたくなった。
だってまさか、絵を描いた人に会えるなんて、思ってもみなかったから。
「モネさんの睡蓮の絵が、ずっと好きなんだ。あの絵を見ると心がすーって、きれいに洗われていくようで。ちょっと嫌なことがあっても、すぐに立ち直れたの。だから、わたしも絵を描いてみたいなって思って、絵本クラブに入ったんだ。でも、本物のモネさんに会えるなんて夢にも思わなかった。会えて、すごく、すごく嬉しいよ!」
モネさんは驚いた顔をして、少し黙ったあと、長い息を吐いた。
そして、わたしの手をにぎる力を、少しだけ強めた。
「さくらさん」
「はい」
「絵を描きはじめて、何百年たった今でも、自分の絵をほめられるというのは、嬉しいものですね」
わたしを見つめるモネさんの瞳は、睡蓮が浮かぶ池のように透きとおっている。
おだやかな水面を凪ぐように、モネさんがほほえんだ。
「きみのその思い、決して裏切ることはできない。きみが愛する、ぼくの睡蓮のためにも」
絵本クラブの日。
グループで机を四つあわせ、わたしはもくもくと絵を描いていた。
「これが、さくらさんの絵ですか。愛らしいタッチですね」
モネさんが、話しかけてきた。
「そう? ありがとう」
「ええ。このネズミも、なかなかアジがあります」
「ウサギだよ」
「おや、なんと」
「絵がヘタで悪かったわね」
「ヘタならうまくなればいいんですよ」
「練習してるもん。がんばってるもん」
「レディに対して、とんだ失礼を。これは失敬」
モネさんは、そそくさとうしろに下がって、消えてしまった。
もちろん、わたしたちはちょくせつ会話しているわけではないよ。
心のなかで会話しているんだ。
モネさんは、タマシイだから他のみんなには見えない。
声に出してしゃべったら、わたし、おかしな目で見られちゃうもんね。
天国では、心のなかで会話をするのは、当たり前のことなんだってさ。
やってみたら、なぜかわたしにもできちゃったの。
これも、神のちからなのかもね。
黒板の前には、ツルハシ先生が立っている。
ぱち、と先生と目が合った。
はずかしくなって、あわてて目をそらしてしまう。
絵本作りに集中しようと、色えんぴつを手にとった。
その時、ぽんぽんと誰かに肩をたたかれた。モネさんかな。
ふりかえると、ツルハシ先生がいた。シーッと、くちびるに指をあてている。
そして、一冊の本を手渡してきた。何だろう、この本。
本を受け取り、「これは何ですか」と聞こうとしたけれど、先生はさっさと黒板のほうへともどって行ってしまった。
黄色の表紙に、金色のタイトル。
英語だから、なんという意味のタイトルなのかは、わからない。のタイトルだった。
アップルとか、ハローなら知ってるけど、これはさすがに無理。
パラパラとめくってみると、色んな絵が載っていた。
このひまわりの絵、なんだかすごい迫力があるなあ。
あっ。もしかして、これって。
ツルハシ先生がいってた「たくさん、経験しろ」ってやつなのかな。
でも、いきなり英語の本を渡されても、どうしたらいいのかわからないぞ。
学校から帰ってきたわたしは、ランドセルからツルハシ先生から渡された本を取りだした。
とにかく分厚くて、重たかった。肩がちぎれるかと思ったよ。
「さくらさん、この本は?」
わたしの持っている、黄色の本をのぞきこんでくる、モネさん。
タマシイだけだから、足音もないし、気配もない。
これだけだと、なんだかわたし、幽霊にとりつかれているみたい?
「今日、ツルハシ先生にこれを渡されたの」
「ツルハシって、誰ですか?」
「絵本クラブの先生だよ」
本の表紙を見せると、モネさんは嬉しそうに「ああ」と声をあげた。
「オランダの画家。フィンセント・ファン・ゴッホの画集ですよ。二十世紀の美術に大きな影響をあたえた、すごい画家なんですよ。フィンセントが描いた『ひまわり』は、世界的にも有名な絵なんです」
「あの、ひまわりの絵がそうなんだ」
学校でパラパラとページをめくっていたときに見た、ひまわりの絵。
たしかに、すごい迫力だった。ただの花の絵じゃないってかんじ。
「ぼくも天国図書館で、よくフィンセントの画集を見ましたよ。ひまわりや小麦畑、糸杉などのモチーフをよく描いていたみたいですね」
「モチーフって?」
「フランス語では、題材や動機という意味で使われます。美術的にいうと、〝絵でいいたいこと〟ですかね」
「モネさんの絵とは、ぜんぜん違うフンイキ」
「花は、見る人、描く人によって、まったく姿を変えますから」
なんだか、むずかしい話になってきた。
花は、花じゃないのかな。
目で見ても、画面越しに見ても、図鑑で見ても、花はかたちを変えないけれど。
「どういうこと?」
モネさんは「そうですねえ」とアゴに手を添えながら、教えてくれる。
「さくらさんはこのひまわりの絵、ぼくの睡蓮と、どこが違うと思いますか?」
どこがって、ぜんぜん違うよ。
「モネさんの花は、明るくってやわらかいフンイキ。優しいかんじもするし、花がきらきらしてる。このひまわりの絵は、力強くて、パワーにあふれてる。絵具も、ギュギュって塗られていて、色が目に飛びこんでくる感じがあるよ」
「その通り」
「え? 正解?」
「いいえ。でも、正解ですよ」
どういうこと?
「絵を見た感想は、人それぞれ。別の人に、今の質問と同じことを問えば、まったく違う回答が返ってくるかもしれません。花だけじゃなく、人も風景も動物も、描く人によってすがたを変える。そういうことですよ」
そういうか。やっと、意味がわかったよ。
たしかに、友達に「面白いよ」と貸したマンガも「うーん。イマイチだった」って返ってくるときもあるよね。
わたしは「そっかあ」って、ざんねんな気持ちになったこともあるけれど、感じ方は人それぞれ。
花は見る人によって、すがたを変える。
そういえば、ルドンくんも、モネさんとは、ぜんぜん違う絵の世界観だったな。
「色んな絵があるんだ……」
ニョキリ。絵のなかのひまわりのクキが、一瞬、伸びたような気がした。
「ん?」
わたしは目をまばたきしたり、こすったりしてみる。
今、なんか絵がヘンな気がしたけど。
「気のせい?」
とたん、景色がぐるんと一回転。
次の瞬間には、わたしはまた違う場所にいた。
わたしは、うんざりとばかりに「もー」と鳴いた。
「また、ルドンくんの絵のなかに入ったの?」
あたりを見渡すけれど、ルドンくんが描く絵とは、なんだか違うフンイキ。
黄色の絵の具が塗り重ねられたような、風変わりな景色。
ギンナン色の地面が、地平線のかなたまで続いている。
「これは、岩……いや、花びんですね」
後ろで、モネさんがいった。
ふり返ると、クリーム色と黄色のバイカラーがおしゃれな大きな花びんがそびえ立っていた。
ウネウネとうねっているひまわりが、何本も生けられている。
そのなかに、ちょこんと青いバラが一本、混じっていた。
「この絵には、青いバラは生けられていないはずですが」
「ひまわりってことは、もしかしてこの世界って……」
「ええ。ここは間違いなく、フィンセントが描いた絵のなかのようですね」
「どうしてまた、絵のなかに入っちゃったんだろう?」
「どうやら、さくらさんが〝芸術家の作品を目にし、特別な感情をもったとき、その作品に奇跡が起こる〟ようですね。だから、彼らはさくらさんにやたらと絵を見せてくるのでしょう。オディロンのときも、昇降口に絵が飾ってあったでしょう」
そういえば、昇降口の絵を見たとき、「こんなところに絵なんか飾ってあったかな」って思ったんだっけ。
ルドンくんは、わたしに神の奇跡を起こさせるために、あそこに絵を飾ったんだ。
ルドンくんの絵を見たときも、ゴッホさんの絵を見たとき、たしかに色んな感情がわきあがったよ。でも……。
「号泣するほど感動したわけでもないのに、こんなすごい奇跡が起こっちゃうなんてえ」
奇跡のムダづかいじゃない?
「絵を見て、感動するというのは、それだけ素晴らしいことなのですよ? きみが愛する、ぼくの絵のように」
わたしの胸が、きゅんと高鳴る。
フランス紳士って、こういうことを平気でいうのかな。
心臓がいくつあっても、足りないよ。
「わ、わたしも、練習すれば、誰かを感動させられるような絵を描けるのかなあ」
「ぼくといっしょに練習しましょう」
「いいの?」
「もちろん」
ふわりと、あたたかな笑顔を浮かべるモネさん。
それは、モネさんの絵から感じた、光のようなぬくもりで。
こんな先生に絵を教えてもらえるなら百人力だと思った。
モネさんは、鮮やかな青のジャケットのふところから、ヒラハケを取りだした。
「さくらさん。ぼくに、ちからを貸してくださいませんか?」
「うん」
それを、空中でシュっと横にふる。
すると、描いた線がきらきらと輝き、光の線となる。
そこから、一羽の黒い鳥が、翼を広げて飛び出してきた。
カラスに似ているが、おなかの辺りは白い。
広げた翼は、扇子みたいにきれいだ。
「ぼくが若いころに描いた代表作の一つ『かささぎ』です。雪におおわれた田舎の冬景色を描きました。ノルマンディー海岸のエルタトで描いたものですよ」
ノルマンディーもエルタトもよくわからないけれど、モネさんが描いたものなら、見てみたいな。
あとで、画集で探してみよう。
かささぎが、モネさんの肩にふわりと停まった。
「スズメ目カラス科。鳥類のなかでも大きな脳を持ち、そしてほ乳類以外で初めて、鏡に映るすがたを〝自分〟だと理解した鳥です。とても賢いんですよ」
カササギは、空に届きそうな大きさの花ビンをジーッと見つめている。
「このかささぎはね。特別なんですよ。さまざまな絵の具のにおいを教えこんであります」
モネさんは、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「それって、どういうこと?」
「フィンセントの絵は、絵の具をたくさん使う描き方をします。なかでも、この二種類のホワイトを多く使っているようですね」
モネさんが出した二本の絵の具のチューブには、ジンクホワイトとシルバーホワイトと書かれている。
「この絵の具のにおいが一番集中しているところ。そこに、彼はいます。何しろ、画家は一日中、絵の具といっしょにいるのですから」
かささぎは大きな翼を広げると、ばささっと飛び立った。
あっというまに黒い点になったかと思うと、ある場所でぐるぐると回り出す。
「かささぎが、彼を見つけたようだね」
「うん!」
わたしたちは、かささぎが飛び回っているところへと急いだ。
かささぎのとこへ追いつくと、そこにも花びんがあって、うねうねとしたひまわりが咲いていた。
かささぎが、カチカチと鳴きながら、ひまわりのなかで暴れてる。
「ワアーーーッ! やめろお! なにするんだよう!」
大変だよ。誰かが、かささぎに襲われているみたい。
花びんの後ろから、男の子が飛びだして来た。
はちみつ色の天然パーマをふり乱し、涙目になっている。
新緑色の作業服に重ねた、ガーデニングエプロンには、たくさんの絵筆や絵の具が入れられている。
けれど、かささぎに追いかけられているからか、そこかしこに、ぽろぽろと絵の具や絵筆を落としてしまっているみたい。
「おい、お前の鳥なんだろ! どうにかしろお!」
ゴッホさんが、必死で叫ぶ。
「おかしいですね。ぼくのかささぎは、とても賢いので、誰かを突くなんてことはしないはずですが」
ゴッホさんは、おすもうさんにハリ手でもされたかのようなリアクションで、ゴロゴロと地面を転がっている。
しかし、かささぎはゴッホさんの近くを飛んでいるだけで、攻撃しているようには見えない。
「かささぎ、ゴッホさんに何かしたのかな。ケガをしているようには見えないけど」
「面倒くさそうな人かもしれませんねえ」
モネさんはおだやかにそういうと、かささぎを指笛で呼びもどした。
「ありがとう。もどりたまえ」
そっと、ヒラハケで体をなぜると、かささぎのすがたは霧のように消えてしまった。
ゴッホさんが涙でぐしょぐしょの顔を、袖でぐいぐいとぬぐっている。
かささぎがいなくなって、安心したのかな。よかった。
黒のショートブーツをはいているからか、よろよろと歩きにくそうにしている、ゴッホさん。
すると、モネさんがいつのも調子で演説をはじめた。
「フィンセント。ヒールは男女問わず、美意識の象徴といわれるものです。ヒールの練習は、人知れずするもの。ゆえに、そのようなすがたは人前で見せるものではありません」
「モネさんってば、そんなふうにいわなくても……ゴッホさんの絵のこと、ほめてたじゃん」
「ぼくは美しいものは、手ばなしで称賛します。みにくいものには、伸びしろもこみで、厳しく。それが優しさというもの」
そういうものなのかな。
いっていることはわからなくもないけれど。
ゴッホさん、モネさんのいいたいこと、わかってくれたかな。
「許さない……」
「え?」
ゴッホさんが、ものすごい顔で、わたしたちをにらんでいる。
これは、怒ってる……よね。
ゴッホさんは、目じりに涙をじんわりとため、低い声で叫んだ。
「よくも、よくもよくもよくも! ぼくに! 怖い思いをさせたなあーっ!」
「え、そこを怒ってるの?」
ついツッコんじゃったけれど、ゴッホさんの耳には届いていないみたい。
「宇野さくら! ピカソさまにお前を連れて来いといわれていたけれど、もうそんなことどうでもいいっ!」
ゴッホさんが人差し指で、空を指した。
すると、花びんのひまわりたちが、いっせいにピンッと、姿勢を正す。
ひまわりの花が、まるで扇風機のように、ぎゅるぎゅると回りだした。
「やっつけてやる! あんたたち、みんなっ!」
いきおいよく回っていたひまわりの花びらが一枚はずれ、わたし目がけて、ビュンっと飛んできた。
わたしは反射的に、ぎゅ、と目をつむる。
キインッ、という何かをはじき返した音が、耳に響いた。
おそるおそる目を開けると、モネさんがヒラハケで花びらを打ち落としてくれていた。
「フィンセント特製の、絵の具で塗り固めた、鉛製のひまわりですね。フィンセントの絵は、その描き方により、厚みがあり、かたくて丈夫。攻撃力もばつぐんです」
「のんきに解説してるばあいじゃないよ!」
「油絵の具ってのはねえ、手につくとなかなか落ちないんですよ。それぐらい強力だ。ああ、さくらさんも、パレットを放置したままにしたことくらいあるでしょう? 固まった絵の具はとてもかたい。フィンセントはそれを芸術にまで昇華した天才なんです」
「ねえー! モネさん! 二枚目の花びらが飛んできた!」
弾丸のように発射された花びらは、ドスドスッと地面に突き刺さっていく。
「ううーん、これは足でも撃ちぬかれた大変だ」
「冷静に、怖いこといわないで!」
「おや、失敬」
ひまわりは四方八方へ、どかどかと花びらを撃ち、黄色い物騒な花道を地面に作ると、一気に静かになった。
花びらを撃ちおえたのだ。
はあ。からだに穴が開かなくて、本当によかった。
「宇野さくらっ」
ゴッホさんは、すっかり泣き止んだようだけれど、まゆ毛はあいかわらず、ハの字になっている。
エプロンの左ポケットをもぞもぞと探りながら、キッとわたしを見すえる。
「きみの奇跡、もっとぼくに見せて」
ゴッホさんがポケットから取りだしたのは、青色の絵の具だった。
早撃ちのガンマンのように、ピンッとチューブのフタを外す。
すると、チューブの口から、噴水のように絵の具が噴き出した。
絵の具の噴水。
それは、黄色の世界をいきおいよく流れ、青は一本の川となった。
じょじょに水量を増し、わたしたちの元へと流れてきている。
「宇野さくら。ぼくには、きみの奇跡が必要だ。フィンセント・ファン・ゴッホとして、ぼくというタマシイのまま、人間界に永遠に、ぼくの新作を届けるために……」
ゴッホさんが、ぶつぶつと何かをつぶやいているけれど、よく聞こえない。
それよりも、ゴッホさん。
もしかして、わたしたちをおぼれさせようとしてる?
「あの川は、フィンセントの作品である『ローヌ川の星月夜』でしょう」
ゴッホさんはぶつぶつと何かをつぶやきながら、川の行くすえを見つめている。
ざばざばと、川が近づいてきている。
モネさんはわたしの肩を抱いて、ヒラハケをかまえた。
「『ローヌ川の星月夜』は、タイトルのとおり、フランスのローヌ川の夜景を描いた作品です。鮮やかな街灯を映し出したローヌ川。そして、コバルトブルーの夜空にまたたく、北斗七星」
「コバルトブルー?」
ゴッホさんが、低くうめく。
「ぼくの青には、ひとつとして、おなじ青はない」
エプロンからあふれだしそうなほどの絵の具を、ゴッホさんは両手でつかんだ。
チューブには、アクアマリン、ラピスラズリ、ターコイズブルー。
インディゴ、シアン、サックスブルー。
わたしの知らないような青の絵の具をばらばらと川に流した。
ゴッホさんの絵の、そびえ立つようなキャンバスの厚みを思い出す。
絵の具の層が、川となって、わたしたちに襲いかかってくる。
モネさんが、わたしに聞こえるか聞こえないかほどの声でいった。
「まずいことになりましたねえ……」
「モネさん! そんなことより、ゴッホさんの川が!」
「おや。さくらさん。聞こえていましたか。ぼくの弱音が」
わたしたちに絵の具の川が、おおいかぶさってくる。
モネさんが、ヒラハケでゴッホさんの青をなでつけた。
一瞬、川は真っ二つになったけれど、それでも勢いは止まらない。
このまま続けてたら、モネさんが疲れて、二人とも溺れちゃう!
「フィンセントとぼくでは、相性が悪すぎますね」
「どうして?」
「思いの強さですよ。ぼくは、天国でのんびり絵を描き続けられればいい。順番が来ればモネのタマシイを捨て、新しいタマシイで人生を歩みなおしてもいいと思っています。しかし、フィンセントは違う」
モネさんは長い息をつき、気だるそうに腕を組んだ。
「彼は、フィンセント・ファン・ゴッホであることに執着しています。だからこそ、この世界をかたちづくるパワーが違う。このままでは、ぼくはあなたを守ることができず、負けてしまうでしょう」
「そ、そんな……」
モネさんの細いあごを、汗がつたっていく。
ヒラハケをにぎる手にも、ちからがこもらなくなっているみたい。
ゴッホさんのパワーに押されてるんだ。
わたしに、できること……ないのかな。
「フィンセント。炎の画家と呼ばれる絵画への思いはすばらしいですが……今回ばかりはその情熱が、腹立たしい――」
とたん、ゴッホさんの青い絵の具が、わたしたちに降り注ぐ。
モネさんが押し負けたんだ。
わたしのからだに、モネさんがおおいかぶさる。
一気に視界が青色に染まる。
息が苦しい。まるで、海のなかにいるみたい。冷たくで、こごえそう。
モネさんが、わたしのからだを抱きしめてくれてる。
でも、さっきの絵の具の勢いで、意識を失ってしまっているみたい。
このままじゃ、わたしたち……。
モネさんのヒラハケが、青色のなかでたゆたっている。
わたしはそれへと手を伸ばし、握った。
モネさんのマネをして、横にふる。
しかし、何も出てこない。やっぱり、モネさんじゃないとダメなんだ。
さらに、わたしは思い出す。
神の奇跡をもう三つ、使ってしまっていることに。
ゴッホさんの『ひまわり』に、『ローヌ川の星月夜』。そして、モネさんの『かささぎ』。
今日はもう、ミューズさまのちからは使えない。
そんな、このままわたしたち、沈んでいくしかないの?
せっかく平凡なわたしに、神さまのちからが宿ったのに、肝心なときに使えないなんて。
せっかく美術館に、モネさんの絵を見に行こうとしていたのに。
そうだよ。諦めない。
わたしのちからは未熟だから、三つしか使えないんだっていってた。
じゃあ今、四つ目を使えるようになればいい!
わたし……モネさんと約束したんだ。
モネさんといっしょに、絵の練習をするって。
だから、お願い。モネさんのヒラハケ、ちからを貸して!
わたしは思いっきり、ヒラハケをふった。
きらり、と光の粒が、わたしの目の前を落ちていく。
出た。ヒラハケで描いた一線から、たくさんの光が!
そこから、大きな木の舟がザブウンッ、とあらわれた。
舟はわたしたちを乗せ、絵の具の海の上へと連れて行ってくれた。
「た、助かった……」
絵の具まみれのからだもそのままに、わたしは酸素を思いっきり吸った。
そうだ。モネさんッ!
舟に横たわっているモネさんを見ると、ちょうど薄く目を開けかけているところだった。
よかった。意識が戻ったんだ。
「モネさん。大丈夫?」
「ここは……」
「舟の上ですよ。モネさんのヒラハケから出てきたんです」
「ぼくの……?」
からだを起こそうとするモネさんを、あわてて支える。
きょろきょろと舟のなかを観察し、モネさんはフッと笑った。
「まさか、四つ目の奇跡を起こしたんですか。さくらさん」
「た、たぶん……?」
「これは、ぼくの作品『舟遊び』ですね。ぼくのヒラハケで、自分で奇跡を起こしてしまうとは。きみの願いのちからも、フィンセントに引けを取らない」
モネさんがわたしの頭に手を乗せてくれた。
がんばって、奇跡を起こしてよかった。
モネさんに守ってばかりのわたしのままじゃ、いられないもんね。
「このまま、フィンセントのもとへと向かいましょう」
「もう大丈夫なの?」
「ええ。きみの奇跡のおかげでね」
真っ青な絵の具の海に、巨大な黄色い花びんがぷかぷかと浮かんでいる。
それはあまりにも目立っていて、ゴッホさんの居場所はここですよ、と教えてくれているようなものだった。
うーん。ゴッホさんのセンスは個性的できらびやかだからなあ。
ゴッホさんは花びんのふちに立っていた。
わたしたちのすがたをとらえると、ニヤリと笑い、エプロンの右ポケットに手を入れた。
「さっき、ピカソさまから連絡があったよ。〝まずは宇野さくらにまとわりつく、光の画家を消しされ〟とね」
ポケットから引きぬかれたゴッホさんの手には、大きめのナイフがにぎられていた。
ナイフがきらりと光り、わたしは思わず叫んだ。
「じゅ、銃刀法違反!」
「あれは、キャンバススクレイパーです。キャンパスやパレットをキズつけずに、表面だけをそぎ落としたりするときに使うナイフですよ」
「なあんだ、絵の道具なのか」
そんなの武器にならないよー、と思ったけれど、この人たちには関係ないんだった。
画家の武器は、画材道具。
モネさんはヒラハケ、ルドンくんはモクタン、そしてゴッホさんはさっきの絵の具に、キャンバスクレイパー。
攻撃力なんて、いらない。
この人たちは、思いのちからで戦っている。
モネさんが、ヒラハケをにぎりしめた。
「星月夜よ、落ちろ!」
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを振り下ろした。
すると、頭上でちかちかと光っていた星たちが、べろりとはがれた。
ピンクや、グリーンの星が、キャンバスクレイパーによって、そぎ落とされたのだ。
「ふふ、落ちろ……落ちろ……クロード・モネの上に、星よ落ちろお!」
どぼおん!
青い絵の具の海に、星が落ちた。
黄色い光の輪っかを作り、海底へと沈んでいく。
「落ちろ、落ちろ、落ちろ」
ゴッホさんが、キャンパスクレイパーを振り下ろすたび、星が落ちる。
「モネさん。舟を出しましょう。早く逃げないと」
「さくらさん!」
どぼおん!
星じゃない。これは、わたしが海に落ちた音。
モネさんに背中を押されたのだ。
海のなかを、いくつものカラフルな星が、落ちていってるのが見えた。
いけない。モネさんに、なにかあったんだろう!
わたしは急いで、海面にあがる。
海面にあがり、さっきまで乗っていた舟を見て、わたしは声が出なくなる。
『舟遊び』はぼろぼろになっていた。
星がぶつかり、大きな穴が開いている。
あのまま、舟に乗っていたら、わたしにぶつかっていたんだろう。
モネさんが助けてくれたんだ。
「も、モネさんは……?」
舟は空っぽだ。誰も乗っていない……。
あふれてくる涙をこらえる。
もぐって、モネさんを探そう。
大きく息を吸いこんだ。
「もう、クロード・モネはいない」
ゴッホさんが花びんのふちに座り、得意げにキャンバススクレイパーをくるくる回している。
「どういうこと」
「この世界は、ぼくの世界なんだよ」
「だから、何」
「あれ。あんた、知らないの? じゃあ、モネのやつも知らなかったのかな。〝長い時間、他の芸術家の作品のなかにい続けると、相手の作品の一部になってしまう〟ってこと」
何それ。そんな話、知らない。
モネさんも、知らなかったって……うそでしょ。
涙が、じわじわとあふれていく。
モネさんはもう、いないってこと?
「宇野さくら。あんたはもちろん、これには当てはまらない。あんたのちからで成立する奇跡なんだから」
ゴッホさんが、ひまわりのクキをわたしに伸ばしてくる。
「さあ、つかまって。ピカソのもとへ、連れていってあげるよ」
「いや、行かない」
「うわ、ナマイキなやつだなあ。さっさというとおりにしてくれる? 星を落とされたいの?」
ゴッホさんは面倒くさそうに、くちびるととがらせている。
モネさんなら、こんな態度、ぜったいにしないのに。
わたしはあふれてくる涙をぬぐいもせず、仕方なく、ゴッホさんのひまわりのクキをつかんだ。
すると、ゴッホさんは嬉しそうに、両手を上げた。
「ふふふ。やったー! 宇野さくらを捕まえたぞ。この、ぼくが!」
わたしは無心で、ゆらゆらとゆれている青色の水面をながめた。
ゴッホさんが、キャンバスクレイパーを一振りすると、『ひまわり』の世界がどろりと溶けていく。
ころん。
何かが、はいているクツのつま先に当たった。
ドングリのような、黒い種が落ちている。
「なんだろう、これ」
すると、種がかたかたと振動しだす。
まるで生きているみたいに、ぴょーんと飛びあがり、ゴッホさんの頭にぽこんと当たった。
「ウワーーー! いたいーーーッ!」
ゴッホさんが、大げさにのけぞり、悲鳴をあげた。
ちょこっと、当たったぐらいなんだけどなあ……。
「クロード・モネ! まさか、絵になっていないのかッ?」
「え?」
「宇野さくらのそばに、睡蓮の種を落としているなんて! 往生際の悪いやつ!」
「今、何ていったのっ?」
わたしは嬉しくて、その場で飛びあがった。
モネさんが、生きてる!
これが、睡蓮の種なら、間違いなくモネさんのものだよ。
だって、睡蓮といったら、モネさんだもん。
「ふん。こんな種、今すぐ踏みつぶしてやる!」
ゴッホさんが足を上げ、種に狙いをさだめた。
「だめ!」
わたしはゴッホさんを止めようと、身を乗り出す。
その時、睡蓮の種から青い芽がいきおいよく飛びだした。
すぐに大きな葉が広がって、あっというまにピンクの花が咲く。
見たことのないほどのスピードで、成長していく睡蓮。
みるみるうちに通常の大きさを超え、むくむくと巨大化していく。
わたしと同じくらいの身長になったとき、パカッと花びらが開いた。
「え?」
バクリ。
え? わたし、睡蓮の花に食べられちゃったんだけど。
暗い花のなか。
外でゴッホさんが、ギャーギャーと何かをいっている。
「モネさん、どこ?」
睡蓮の花が、フワッと開いた。
ここ、わたしの部屋だ。
ゴッホさんが、ひまわりの世界を消したから、戻ってきたんだ。
でも、モネさんはやっぱりいない。
睡蓮の花が、霧のように消えていく。ぽとん、と黒い種が落ちてきた。
モネさんが睡蓮の花で、わたしを守ってくれたんだ。
その後のわたしは、何も手がつかないまま、ずっとその種を見つめていた。
授業が終わると、すぐにランドセルを背負った。
「さくら。いっしょに帰ろう」
「今日はごめん。また誘って!」
通学路にそって、一直線に家へと帰る。
お風呂に入り、家族と夕ごはんを食べて、歯をみがくと、すぐにベッドに入り、目を閉じた。
ゴッホさんの『ひまわり』の世界から戻ったわたしは、なるべく目を開けないように過ごしていた。
お母さんに「何してるの?」なんて聞かれたから、「目の良くなるトレーニングだって」なんていってごまかした。
だって、またどこかにゴッホさんたちの絵がはられているかもしれないでしょ。
絵のなかに入っても、もうモネさんはいない。
あの睡蓮の種は、お守りに入れて、つねに首からさげてる。
わたしはベッドのなかで、それをギュとにぎりしめた。
モネさん。もう会えないの? いっしょに絵を描くっていったのに。
また、じんわりと涙がにじんできた。
神のちからがあっても、肝心な時に役に立たないんじゃ、奇跡でもなんでもない。
モネさんを助けられる方法、ないのかな。
『さくら』
「え?」
ぱあああ。
光だ。モネさんの光とは、比べ物にならないほどの、まぶしい光。
さっきの声がしたほうから、降り注いでくる。
手で作ったひさしのわずかなすき間からのぞくと、人影が立っている。
「だれ?」
『芸術の神、ミューズですー』
光が強すぎて、顔もすがたもまったく見えない。
ミューズさまって、わたしに神のちからをよこした人だよね。
神さまのわりに、なんだか軽そうな口調だけど、本当にミューズさまなのかな。
『さくらっち。まさか、あてぃしのこと、疑ってる?』
「え、いや」
『マジだから。マジのミューズだから』
「は、はあ」
女神さまと話してるのに、友達と話してるみたいなテンションで、なんだか調子がくるうなあ。
「あの、なんでここに?」
『さくらっちと話したいなーと思ってさ! てか、さくらっちに渡した、あてぃしのちからのことだけどー』
「あ。そうだ。なんで、わたしなんかにミューズさまのちからを?」
『なんかとか、よくなーい。さくらっちは十分、すごいよ。自力で、四つの奇跡を起こしたじゃん! 自信持ちなって!』
きらきらした光を背負いながら、ミューズさまはほがらかに褒めてくれる。
なんか、イメージしてた女神さまとだいぶ違う。
距離の近い女神さまだなあ。
めちゃくちゃ光がまぶしいけれど。両手で目をほとんど隠しながら、話してるよ。
『んでね。まあ、順を追って説明すんね。さくらっちは、モネっちから、天国が少子化のせいで、生まれ変わりの順番待ちがあふれかえっていることは、聞いたと思うんだけど』
「はい。聞きました」
『ぶっちゃけいうと、さくらっちにあてぃしのちからをあげた理由は、モネっちと仲よくなれそうだったから! だって、さくらっちって、モネっちの大ファンじゃーん?』
わたしはコントみたいに、その場にズッコけそうになった。
「そ、そんな理由?」
『うん。だって、あてぃし。すげー困ってんだよ。ピカソちゃんには。あ、ピカソちゃん、知ってるよね? パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ』
何、今の、早口言葉?
『ピカソちゃんって、すげー名前、長いよね』
あれ、名前だったんだ。
『これまでにもっとも多く芸術作品を作り、ギネスブックに登録されている、〝二十世紀最大の画家〟といわれている画家。それが、ピカソちゃんね』
「ピカソさんに困ってるっていうのは……?」
『あてぃし、今、牢屋に閉じこめられてんだよねー。ピカソちゃんのせいで』
「ええ?」
『今、ここにいるのはまあ、人間界でいうリモート通話みたいな感じかな』
女神さまが牢屋にいれられるなんてこと、あるのっ?
『ピカソちゃんは、まったく生まれ変われない現状に怒ってるんだよ。平和な天国では刺激が少なくて、いい作品が作れないってさ』
「でも、待っていれば、必ず順番は来るんだし……」
『ピカソちゃんはねえ。普通に生まれ変わろうとしているんじゃないんだよ。〝自分に生まれ変わろうとして〟んのさ』
自分にって、そんなことできるの?
『そんなことはできないよ。神さまはみんなに平等だからさ。でも、ピカソちゃんは聞かなかった。自分に生まれ変わらなければ、制作を続けられないっていってね』
天国にいっても、まだ作品を生み出し続けているなんて。
さすが、二十世紀最大の画家だよ。
『ふーん。あてぃしが才能を授けたから、すごい作品を作れたっていうのに、えらそうすぎない? しかも、自力で生まれ変わろうとして、あてぃしのちからを奪おうとしてくるしさ!』
えー! それはさすがに、やりすぎなんじゃ。
「それで、ピカソさんはどうなったの?」
『なぜかあてぃしが、天国の牢屋に閉じこめられた』
「いや、本当になんでっ?」
『マジでムカついてさあ。こんなやつに芸術の神の一番大事なちからをやってたまるか、って思ってね。んで、人間界でモネっちの絵にうっとりしてた、さくらっちのほうへ、放り投げたんだよ。そしたら、お偉い神さまがたが怒っちゃって……』
それが理由っ?
『今までも、自分の趣味で芸術家たちに才能をあげてて、さんざん怒られてたんだけどね。今回ばかりは軽率すぎ、って神さまたちの火山大爆発。この牢屋のなかでは、このぐらいしかちからは使えないのさー。むりやり、人間界につなげてるんだよ。いつ、この会話が途切れるかもわからないから、急がないと』
ミューズさまは、ぷりぷり怒っているけれど。
つまりはわたし、完全なるとばっちりってことだよね。
いや、わかってたけれど。
『経緯は以上かな。つまり、ピカソちゃんは自分自身に生まれ変わるちからを手に入れるために、さくらっちを狙ってるんだ。ゴッホちゃんやルドンちゃんも、ピカソちゃんの意見に同意して、従ってるって感じだよ。でも、ピカソちゃんたちをそのままにしておくわけにはいかないんだ。神のちからをむりやり奪い取って使うってのは、天界の法律違反だからね』
ミューズさまは、真剣な口調でいう。
『下手したら、この世から芸術というものが消えてなくなるかもしれないよ』
「そんな!」
それって、図工の時間がなくなるとか、そういうことだよね。
美術館もなくだろうし、絵本クラブも……。
絵だけが芸術じゃない。演劇や、ダンス、彫刻に、写真。
色々なものが、この世界からなくなっちゃうっ?
「このこと、ピカソさんは?」
『知ってるけどさ、あてぃしのいうことは、信じてくれないんだよ。何か、信用ないんだよねえ。あてぃしの何が悪いんだよー』
ミューズさまの影が、手を後ろに組んで、伸びをしているのが見える。
わたしは首からさげている、お守りをにぎりしめた。
「あの、ミューズさま。モネさんが……もう、助けられないんですか?」
『モネっちはね、その睡蓮の種のなかにいるよ』
わたしのお守りを指さし、ミューズさまは続けた。
『まだ助けられる。急がないといけないけれど』
「どうすればいいんですかっ?」
『モネっちは、ゴッホちゃんの絵に取りこまれて、動けなくなってる。助けるには、ゴッホちゃんが持っている絵の具の青がいるよ。それを、種に塗って中和させればいいのさー。炎に油を注いで、燃やしつくすわけ。芸術は爆発だーってね!』
うそみたいな方法だけど、ミューズさまがいうんだから、本当なんだろうな。
いや、でも待って。
あの人、青っていっても、色んな青を持ってたよね……?
「どんな青ですか?」
『それは……』
とたん、ミューズさまの声がどんどん遠ざかる。
わたしはあせって耳を澄ますけれど、結局ミューズさまがなんといったのかは聞きとれなかった。
「うそでしょ……」
ミューズさまは、むりやり会話をつなげてるっていってた。
でもまさか、こんな重要なところで切れちゃうなんて!
「ゴッホさんの青……」
ローヌ川の星月夜には、色んな青が使われていた。
ミューズさまがいっていたのは、あのなかの青のどれかだとは思う。
いや、その前にゴッホさんから絵の具を取れるのかな。
あの人が分けてくれるはずないし。
これは、困ったぞ。
次の日の朝。
早くに登校したわたしは、図画工作室に来ていた。
睡蓮を見に来たんだ。モネさんの絵なら、見ても大丈夫だし。
ずっとそわそわして落ち着かなかった。
でも、この絵を見ると、ホッとするんだ。モネさん、本当に睡蓮が好きなんだな、って伝わるの。
モネさんの好きが、つまってる。
だからわたしは、この絵が好きなのかも。
ゴッホさんの青のこととか、どうやって絵の具を手に入れようとか、ぜんぜん決まってない。
不安でおしつぶされそう。
ひとりで、どうやってモネさんを助けよう。
そのとき、廊下から足音が聞こえてきた。
ガラッとドアが開けられた音に振り向くと、ツルハシ先生が立っていた。
でも、なんだかおかしい。
革グツで歩いている学校の先生なんて、聞いたコトがない。
「ツルハシ先生。学校の廊下を革グツで歩いちゃ、ダメなんじゃないですか?」
「いや、問題ないよ。きみ以外に、私のすがたは見えていないんだから」
「え……」
今思えば、少しヘンだったのかもしれない。
先生がわたし以外の絵本クラブの子たちと、話しているところを見たことがなかった。
絵本クラブの活動も、よく思い出すと他の先生が仕切っていた気がする。
いつも、気づいたらそばにいた、ツルハシ先生。
「あなたは、いったい……?」
頭のなかで、ごちゃごちゃになっている。
すると、ツルハシ先生は、唇のはしをつりあげた。
「本当の名をいうよ」
「え」
「はじめまして、宇野さくら。私の名前はパブロ・ピカソ。あなたのちからを、これから頂戴する者だ」
ピカソさんの笑顔は、モネさんの笑顔とは、まったく違う種類の笑顔だった。
思いやりも、やさしさも入っていない、まるで氷のような笑顔。
ピカソさんの視線から、目が離せない。
その時、一枚の絵が視界に飛びこんできた。
それは、ポストカードだ。
白黒で、パズルのような不思議なかたちの絵。
これは、何を描いた絵なんだろう。わたしには、それすらわからない。
むずかしい。それに、なんだか暗い雰囲気の絵だった。少し、怖い。
ハッ、と考えを止めた。
ピカソさんが、目を細めて、わたしにその絵を見せてきている。
「いけない。わたし、絵を……!」
時、すでに遅し。世界がぐるん、と入れかわる。
図画工作室から、あの青いバラが咲く、絵の世界へ。
わたしは黒の地面に、足をついた。
ツルハシ先生。いや、ピカソさんが青いバラのそばで、わたしを見おろしている。
「この絵は『ゲルニカ』。戦いを描いた絵だよ。怖い、と感じたようだね。さくら」
パチパチと、拍手をするピカソさん。
「なんで、そんなことを」
「これでまた、ぼくの絵は生き続ける。ぼくの絵を見た人が増えるたびに、ぼくの絵はその人のなかで生き続ける。すてきなことじゃないか。ところで……」
流れる冷水のような声で、ピカソさんはいった。
「モネの睡蓮は、いつ咲くのかな?」
わたしは首にぶらさげたお守りに触れる。
「モネを、元のすがたに戻そうとしているだろう」
「それは……」
「さくら。きみは、これがほしいんじゃないかな」
ピカソさんが、右手をそっと開く。
手のひらの上に転がる、絵の具のチューブ。
「それって、まさか」
「フィンセントの、青の絵の具だ」
「でも、ほしい青は……」
「これだよ。フィンセントが、最愛の弟に子どもが生まれたことを祝して送った、大切な絵『花咲くアーモンドの木の枝』に使われたターコイズブルー」
そうか。わたしは勝手に『ローヌ川の星月夜』に使われた青だと思いこんでいたけれど、そうじゃなかったんだ。
ゴッホさんにとっても大切な一枚に使われた、思い出の青。
それが、カギだったんだ。
でもまさか、ピカソさんがゴッホさんの絵の具をくれるなんて、思ってもみなかった。
ミューズさまの話を聞いたあとだったから、よけいに。
実はいい人だったんだ。
わたしは、嬉しさでいっぱいになった。
「ありがとうございます。ピカソさん」
絵の具を受け取ろうと、手を伸ばす。
すると、ピカソさんの手がにぎりこまれ、絵の具が取れなくなった。
え? どういうこと?
「絵の具。ほしいんだろう」
「は、はい」
「じゃあ、きみのミューズのちからと交換しよう」
一気に、ピカソさんへの信頼が崩れていく。
そういうつもりだったんだ。
一瞬でも信じたわたしが、ばかだった。
「いや」
「交換すれば、モネは助かるんだろう」
「そうだけど……」
「宇野さくら。きみに、神のちからなど、宝の持ちぐされだろう」
そんなこと、わかってる。
わたしが持っていたって、何の役にも立たないちからだよ。
「でも、やっちゃいけないことに使われるよりは、ましでしょ」
「きみが勝手に決めつけるのか? 私にとっては、とても大事なことだ」
ピカソさんのいうとおりだ。
わたしは、わたしの信じることをいっているだけ。
それは、ピカソさんも同じ。
ピカソさんは、絵が好きでしょうがないんだよね。
人間の寿命だけでは、描き切れないものが、たくさんあったんだよ。
だから、生まれ変わっても、自分でいたい。
だけど……。
「この世から、芸術がなくなっちゃうんだよ! それでもいいの?」
「きみも、ミューズのたわごとを信じるのか」
ドスッ、ドスッ。
地面に何かが、突き刺さる。
見ると、地面にグッサリと、ナイフが一本立っている。
「パレットナイフ。パレットのそうじや、キャンバスの下塗りなどに使う。美しい画材道具だ」
ピカソさんの手に、新たなナイフがかまえられた。
「これはペンチングナイフ。フラットな面で、描いたところを残さず塗り……」
ピカソさんはそのナイフを横にふる。
そのダンスのような動きは、次の行動がまるで予測できなかった。
「エッジのきいたところで、線もひける」
ズドドドドッ。
ペンチングナイフは次々と、ダーツのように地面に突き刺さっていく。
「ちょっと、聞いてました? わたしの話!」
「聞いていたよ」
「じゃあ、もうわかったでしょ? こんなことは止めてください」
「信じられないんだ」
手に持っていたナイフを、ピカソさんはバラバラと地面に落とした。
「自分が、こんなふうになってしまったのが」
ピカソさんは、ぽつぽつとしゃべりはじめる。
「天国は、とても美しい。天国へ来た当初の私は、スケッチの毎日だった。人間界にいたころよりも、多くの風景を描いた……」
ピカソさん。生きていたころも、毎日絵を描いていたんだもんね。
ギネスブックにも載るほどに。
「絵を描いて絵を描いて、わたしは待ちつづけた。生まれ変われるときを。しかし、まったくそんな話はこない。聞けば、人間界では少子化で、天国では多くのタマシイが生まれかわる時を順番待ちしているというじゃあないか」
ピカソさんは、くやしそうに手をにぎりしめてる。
声もぶるぶると震えていた。
「もう天国の風景は描きつくした。私はもっと、違う絵が描きたいんだ。心の底からにじみでるような、深い思いを。美しいだけの天国では、そういう絵は描けないんだ。心が穏やかなままでは、すべての人の心をうつようなものは永遠に描けないんだ!」
大粒の涙をこぼしながら、ピカソさんは絵の具を持っていないほうの手で、わたしのほほをつつみこんだ。
「さくら。きみは、私のことを理解してくれるよね……?」
平凡なわたしでは、ピカソさんのいっていることは、わからないよ。
でも、そんなことはいえない。
わたしが考えていることは、ふたつだけ。
芸術を救うこと。そして、モネさんを助けること。
「さあ、さくら。この絵の具と引き換えに、ミューズのちからをよこすんだ」
「ごめんなさい。いやです」
わたしは、こっそりと隠し持っていたものを、取りだした。
「さくら。それは……!」
ピカソさんが、目を見開く。
わたしはキャンバススクレイパーをにぎりしめ、ゲルニカのまっ黒の地面をガッと削いだ。
ピカソさんは、明らかに動揺してる。
まさか、わたしがこんなことをするなんて、思ってもみなかったんだと思う。
図画工作室に入ったとき、ふと目に入ったんだ。
まさかと思って、持って来ておいてよかった。
ピカソさんが、パレットナイフをかまえた。
何か、他の絵を出そうとしてるんだ。
「そんなこと、させないっ!」
わたしはモネさんのヒラハケを出し、一線を描いた。
「お願い! 出て!」
輝く光の線。そこから、一羽のかささぎが飛び出し、ピカソさんにおそいかかった。
ピカソさんの手から、ターコイズブルーのチューブがこぼれ落ちた。
わたしはそれを拾いあげ、お守りとともに強くにぎりしめた。
「モネさん!」
お守りぶくろが、光る。
なかに入っていた睡蓮のタネを取りだし、ターコイズブルーの絵の具をたらした。
すると、一気に芽が出た。
それは、どんどん大きくなり、巨大化する。
ふっくらとしたつぼみが、ぱかりと咲いていく。
咲いた睡蓮の真ん中で、男の人が眠っていた。
真っ白な白髪に、雪のような長いまつ毛。
鮮やかな、目に優しくなじむ、青いジャケット。
コンパスのようなすらりと伸びた足に、上品な革グツ。
今まさにファッション誌からぬけ出して来たような、紳士。
「モネさん!」
わたしが呼ぶと、その人はゆっくりと目を覚ました。
「ああ、さくらさん……?」
モネさんは、ねむけまなこを猫のように細めた。
そのとたん、一気に色んな感情がわきあがってくる。
モネさんがいなくて、とっても不安だったし、とってもさみしかった。
少しのあいだのはずなのに、とても長く離れていたみたいで。
わたしは、モネさんの胸に飛びこんで、ぎゅうと抱きつく。
「もー! ひとりで大変だったんだからね!」
「すみません……。助けてくださって、ありがとうございます。さくらさん」
「どういたしまして!」
にじんだ涙をモネさんにぬぐわれる。
さっそく、フランス紳士ムーブをされて、わたしの顔は真っ赤になっちゃった。
「油断したよ。作戦、失敗か」
ピカソさんが、くやしそうにくちびるを噛みしめている。
「でも、まだまだゲルニカの世界は生きている。ここは私の世界だ。削ぎ落された部分も修復されている。ゲルニカと戦え、クロード。宇野さくらを守りながらね。また睡蓮の種にならないよう、せいぜいがんばるがいいさ」
「ふん。さくらさんは成長している。神の奇跡も三つ以上起こせるようになっているようだしね。そろそろ、悪だくみはおしまいの時間なんじゃないのかな、パブロ?」
優雅にあごに手を添え、ピカソさんを見下すようにいう、モネさん。
なんだか、いつもの優しいモネさんとフンイキが違う。
寝起きだからかな。
「モネ。今の嫌味は、光の画家にふさわしくなかったのではないかな」
「……何だって」
「さくらが戸惑っているよ。訂正したほうがいいんじゃないのかな」
モネさんが、不安そうにわたしを見つめている。
どうしたんだろう。
「私は二十世紀最大の画家として、いつだってファンの期待に応えてきた。死してなお、作品を作り続けている。これからも、止まることはないだろう。さくらはきみのファンなんだろう。光の画家として、ファンの期待には応えるものだ。そうだろう、クロード」
ピカソさんの言葉に、モネさんが戸惑っているのがわかる。
モネさんが、苦しそうだ。
「さくら。きみは、クロードをどういう画家だと思っている? あふれる光が美しく、見るものの心をあたため、華やがせる。心が落ちこんでいても、クロードの絵を見ると、励まされる。そんな絵を描く画家だと思っているんじゃないかな?」
「え、それは……」
もちろん、そう思っていた。
図画工作室で見るモネさんの睡蓮は、これまで見たどんな絵のなかでも一番に好きだよ。
「だが、きみが信じるクロードは、生まれ変わろうとしている。クロード・モネを捨て、新たな人生を歩んでもいいと思っているんだ。きみが好きな画家は、きみが好きな絵を捨てようとしているんだ。許していいのかな?」
ピカソさんは、甘くねっとりとした砂糖菓子のような声で、わたしに問いかける。
モネさんは、無表情だった。
何を考えているのか、わからない。
でも、わたしの答えは決まっていた。
「わたしは、モネさんの絵が好きだよ。光じゃなくても」
すると、ピカソさんは不満げに息をついた。
「クロードは光の画家だ。絵には決して、黒色を使わない。自分から、闇を一切排除する徹底ぶり。それほどに光に固執した。自分で自分を光で縛っていったんだ。フランス紳士? 大変面白い冗談だ。本当の彼は、自分のことしか考えていないわがままで傲慢な男さ」
モネさんを見あげると、諦めたような顔をして、笑っていた。
「わがままで傲慢。その通りです。本当のぼくは、フランス紳士なんかじゃない。光という肩書きにとらわれた、哀れな画家です。さくらさんを守るだなんて、かっこうをつけておいて、結局あなたに助けられている。情けない男ですよ」
「情けなくなんかない!」
わたしが叫ぶと、モネさんが目を丸くする。
「モネさん。忘れてないよね?」
「え?」
「あー! 忘れてる! わたしと絵を練習するって、いってくれたじゃん」
「あ……」
モネさんの目に、きらりと光るものが見えた。
わたしは、「ふふっ」と口もとをおさえる。
「モネさんがどんな人かなんて、関係ない。だって、モネさんの絵に描かれているのは、モネさんの心だもん。わたし、好きだから、わかっちゃうんだ!」
すると、わたしの頭に、ポンと大きな手が乗せられた。
「こんなに優しい評論家は、初めてです。ぼくの専属にしたいくらいですよ」
「評論なんてしたっけ、わたし……」
ぽんぽんと頭をなでられる。
すると、ぴこんとアイデアがひらめいた。
ピカソさんが、つまらなさそうに何かを考えている。
たぶん、わたしからどうやってミューズさまのちからを奪おうかと思っているんだ。
「ピカソさん」
「……なんだ」
にらむような目つきで、顔をあげるピカソさん。
「さっき、人間界じゃないと、いい絵は描けないっていってたよね」
ピカソさんは、しぶい顔で、だまっている。
「あのさ、だったらいっそのこと天国に帰らなければいいんじゃないの?」
「は?」
「人間界に住めばいいんだよ」
すごくいいアイデアじゃない? はっきりいって、ノーベル賞もの!
わたしは真剣にそう思ったんだけど、ピカソさんに「はあ」と重苦しいため息をつかれちゃった。
「宇野さくら。それを人間界では幽霊というんだ」
「あっ」
「観察官のヘルメスに、すぐに連れもどされてしまうだろうな」
「そんなの、ヘルメスさんとかいう人に説明してさ。納得してもらえばいいんだよ」
ピカソさんは、かたくなに首をふる。
「そもそも、わたしはもう罪をおかしたタマシイだ。ミューズに不敬を働き、きみを襲った。わたしには、道は一本しかない。きみから、神のちからを奪い、目的を果たす」
「一本なんかじゃないよ!」
わたしは、まっすぐにピカソさんを見つめた。
「いっしょに謝りに行くよ」
「ばかな」
あざ笑うかのようなピカソさんに、モネさんが続いた。
「さくら、それは無茶です」
「なんで? わたし、本気だよ!」
「謝って許されるのは、子どものあいだだけなのです。ぼくたちは、もうおとなだ。謝って許されるほど、神という存在は、甘いものではないのです」
モネさんはそういうけれど、わたしはかまわずピカソさんの手をにぎった。
「絵を描きたいんでしょ! 本気じゃないのっ?」
ピカソさんは、わたしの手を振りほどかなかった。
そして、小さな声でつぶやいた。
「どうなっても、知らないぞ」
わたしは、大きくうなずいた。
「仕方ありません。ぼくも行きます。きみを守るのが、役目ですから」
モネさんが、わたしのもう片方の手を取った。
これで、ぜったい大丈夫。
だってわたしは、未熟だから使えないっていわれていた、四つ目の奇跡を起こしたんだもん。
以前のわたしよりも、成長しているんだよ。
自分を、みんなを信じよう。そうすれば、道は開けるよ。
でも、ひとつ重大なことをことを忘れていたみたい。
「どうやって、ミューズさまのところへ行けばいいんだろう?」
すると、モネさんが「ぷっ」と吹き出した。
「さくらさん。あなたが持っているちからは、どんなちからでしたっけ」
「奇跡のちから?」
「そう。天国へ行くことぐらい、なんの造作もありませんよ」
モネさんはきれいなウインクをして、ほほえんだ。
天国への行きかたは、本当に簡単だった。
「ミューズさま。天国に連れて行ってください」
そうつぶやくだけで、一瞬でわたしの視界は、見たこともないような美しい花畑が広がった。
花びらが舞い、金色の蝶がひらひらと飛んでいる。
ぬけるような青空には、大きな虹がかかり、遠くに真っ白な神殿がいくつか建っていた。
「ここが、天国。ミューズさまがわたしの声を聞いて、ここに連れてきてくれたんだ」
つぶやくようにいうと、隣に立っていたモネさんが「ええ」と返してくれた。
「さくらさんとミューズさまは、神のちからでつながっていますから」
後ろには、ピカソさんもいる。
どこかつまらなさそうに、天国の風景をながめている。
「やはり、ここはわたしの居場所じゃない」
誰にいうでもなく、ピカソさんはそういった。
「ミューズさまはどこにいるんだろう」
「牢屋ですね。天界裁判所の地下です」
モネさんが案内してくれる。
せっかく天国に来たのに、まさかまっさきに牢屋に行くなんてね。
ミューズさま、やっと直接会える。
いったい、どんな人なんだろう。
天国の牢屋の前で、白いパーカーを着た小がらな男の人が厳しい顔をして立っていた。
この人が、ヘルメスさんというかたらしい。
「モネ。いったい、なんの事態ですか。これは」
「ミューズさまに面会の機会を頂きたいのです。パブロ・ピカソのほうから話があるそうなので」
「ピカソッ?」
わたしたちの後ろに立っているピカソさんを確認して、ヘルメスさんは一気にきびしい顔になる。
「そんなことを許すはずがないでしょう。観察官として、この場ですぐ捕らさせていただきます」
ポケットから、スマホのようなものを取りだして(天国にもあるんだ)、どこかに連絡する気だ。
「ま、待ってください。わたし、ピカソさんにあることを提案したんです。そうしたら、きちんと話を聞いてくれました。まずはミューズさまのところへ行かせてください」
「宇野さくら! 人間のような下位互換の存在で、このおれに口をきこうなど……はじめにひざをつき、こうべを垂れ、ヘルメスさま話を聞いて下さい、と確認してから放しはじめ……」
ドカーンッ
突然の爆音。ヘルメスさんがしゃべり終わらないうちに、奥の牢屋はこっぱみじんに吹っ飛んでいた。
ヘルメスさんは、ぽかーんと口を開けながら、ゆっくりと後ろを振り返る。
舞いあがった砂ぼこりのなか、うっすらとした影が浮かびあがった。
そこから、身長がすらりと高い、女の人が現れる。
ウェーブがかった金色の長い髪、緑色のひとみ。
ニコニコとした笑顔を浮かべ、真っ白なワンピースに、カラフルな宝石がついた黄金のアクセサリーをたくさんつけている。
まさか、この人がミューズさまっ!
あの時は、ほとんどが光でよく見えなかったけれど、実際に見てみたら、びっくり。
なんてきれいな人なんだろう。
この人が、芸術の神・ミューズさまなんだ。
「ヘルメース。さくらっちに対して、ひどいんじゃないのお?」
ミューズさまがヘルメスさんの顔をのぞきこむ。
すると、ヘルメスさまは熟したトマトみたいに顔を真っ赤にして、「あ、いえ、あの」ともごもごいっている。
ヘルメスさん。ミューズさまに弱いんだ。
「さくらっち。ごめんねえ。うちの観察官がつまんないやつでー」
「あ、いえ。そんなそんな」
モネさんとピカソさんから、神さまはそんなに甘くないっていってたから、覚悟はしてたんだ。
だから、ヘルメスさんのいったことなんて、気にしてないよ。
すると、顔をてかてかにしながら、ヘルメスさんが叫んだ。
「みゅ、ミューズさま! 牢屋から勝手に出ては、異端者として、天界裁判にかけられてしまいますぞ!」
「え! さ、裁判っ?」
テレビや動画とかでしか聞かないような、その重々しい響き。
そうか。牢屋から勝手に出たってことは、脱獄したってことになっちゃうのか。
「ミューズさま。戻ったほうがいいんじゃ」
「でももう、あてぃしのちからで、牢屋なんて粉々だよ。本当は、こんな牢屋に入れられたって、すぐに出られたんだけどね。今日まで大人しく入っててあげたんだから、感謝してほしいよ」
あいかわらず、フリーダムな女神さまなんだな……。
「あてぃしのことは心配しないで。それよりも、ピカソちゃんを連れてきてくれて、ありがとね。さくらっち、モネっち」
とってもきれいな、ミューズさまのほほえみ。
ピカソさんが、ミューズさまの前に進み出て、ひざまずいた。
あの、ピカソさんが。
「宇野さくらにいわれ、気づかされました。だから、お許しをいただきたく、ここに参上しました」
ミューズさまは、じっくりとピカソさんの言葉に耳を傾けている。
わたしは心臓がバクバクいいっぱなしだ。
モネさんは黙って、ヘルメスさんは不服そうにしながら、目の前のゆくえを見届けようとしていた。
「もう、私を私のまま、生まれ変わらせろとはいいません。私を幽霊として、人間界にいさせてください」
ミューズさまの目が、わずかに見開かれた。
そして、ヘルメスさんの「はああっ?」という叫びが、地下に響き渡る。
「なんと不敬な! 天国にいさせてもらった身分の分際で、幽霊になりたいなどとっ。せっかく生まれ変わらせてもらえるというのに!」
「大量の順番待ちをさせている観察官側の言い分など、聞く耳もたん。私は、女神ミューズと話がしたいんだ」
ピカソさんの早口に、ヘルメスさんの勢いがおとろえた。
「女神ミューズ。数々の無礼、申し訳なかった。しかし、私には私なりの主張があった。私は、私自身の芸術を愛している。私は私でい続けられる方法があるのなら、そちらを取る。それがどんな方法であってもだ」
ピカソさんは、熱い視線でミューズさまを見あげている。
芸術のことがほとんどわからないわたしでも、ピカソさんの思い、伝わってくる。
「ミューズさま。この男は、ルドンやゴッホまでたぶらかし、おのれの欲望を満たそうとしました。宇野さくらやモネまで危険にさらし、のうのうとこんなことをいっているのですよ。許されますか? いいや、許されない! 今すぐ、天界裁判の開廷を!」
ヘルメスさんの主張に、わたしはあせった。
たしかに、モネさんは大変な目にあったよ。
タマシイが消えそうになりかけた。
でも、わたしは大変な目にあったけど、許さないなんて思わない。
ピカソさんのことを危険な人だなんて、思わない。
「見てください」
わたしは、ピカソさんの手をつかんだ。
そして、ミューズさまの前に突き出す。
「絵が、好きで好きで仕方ない。そんな手です」
絵の具のまみれの手。
洗っても洗っても、汚れてるんだ。
昨日、ついた絵の具が取り切れないうちに、また絵の具がつくんだよね。
いつかに、油絵の具って、かなりがっつり洗わないと落ちないって、ゴッホさんがいってたのを覚えてる。
「ピカソさんのこと、わたしは許します」
「宇野さくら、人間ごときの許しなど、この男を許す理由にはならん。この男を裁くのは、神だ。なぜならこの男が犯したのは神をも恐れぬ不敬罪だか……」
ポンッ ポンッ ポンッ
突然、ヘルメスさんのからだが、カラフルな花に埋もれていく。
アネモネ、コスモス、チューリップ。
ヒマワリ、ザクロ、アマリリス。
ポンッ ポンッ ポンッ
音が鳴るたび、ヘルメスさんはふわりふわり、と花の海へと沈んでいく。
「ミューズさまっ? 何をなさるのですか!」
「ちょっと、うるさすぎー。ピカソちゃんの話が聞こえないから、そこで眠っててくれる?」
「ばかなっ。おれの意見を聞き流すというのですか!」
「だってさあ」
ミューズさまが、ひまわりのような華やかさで、にっこりと笑う。
「あてぃしがちからを与えて、りっぱな芸術家にしたピカソちゃんを、ヘルメスがいじめてるんだもん。親として、許しておけないよねえ」
「そんな……!」
ポポポンッ
ヘルメスさんのすがたは、花に隠れて、完全に見えなくなってしまった。
わたしたちのなかに、おかしな花のオブジェが生まれた。
「ヘルメスは、花の香りにつつまれて、いい夢を見ているはずだよ。心配しないでね。それよりも、さくらっち。すごいじゃん! あのヘルメスにたんかを切っちゃってさ。あてぃし、まるで天界裁判を見ているようだったよお」
「いや、そんな、大げさなっ」
すると、モネさんも、わたしの肩にそっと手を置いた。
「すてきでしたよ。さくらさん」
モネさんにいわれると、今度はわたしが、トマトみたいな顔になっちゃうよ。
わたし、ただただ必死で、あんなこといっちゃったけど。
ピカソさんは……どう思ったかな。よけいなお世話しちゃってたかな。
はた、とピカソさんと目が合うと、ぷいっと視線をそらされちゃった。
や、やっぱりおせっかいだったのかな、と思ったら、
「きみのおかげで、いけ好かない観察官が花のオブジェになった。その……」
そっぽを向いたまま、ピカソさんは照れたようにいう。
「宇野さくら。さすが、神に選ばれるだけの人間だ。あらためて、称賛するよ」
なんだか、よくわからないけれど、褒められたっぽい。
喜んでいい、んだよね……?
「さくらっちってば、ピカソちゃんといい感じじゃん」
このこの、とミューズさまにひじで突かれる、わたし。
あいかわらず、距離が近い女神さまだなあ。
「ピカソちゃん」
ミューズさまの表情が、ふっ、と落ち着く。
細めた目に金色のまつ毛がおりて、薄いくちびるにほほえみが生まれる。
ああ、やっぱりこのかたは女神さまなんだなあ。
「自分のカラのなかにこもってこそ、面白い芸術は生まれてくる。〝芸術は日々の生活のほこりを、タマシイから洗い流してくれる〟。ピカソちゃん、これはきみの言葉だったよね」
ピカソさんは、「はい」とうなずいた。
ミューズさまが自分の胸の前で、両手をきゅ、とこすりあわせた。
そして、ゆっくりと花咲くように手を開いていく。
すると、青いバラの花束がぶわりと現れた。
そのなかの一本を、ミューズさまはピカソさんに差し出した。
「ピカソちゃん。そして、ルドンちゃん、ゴッホちゃん。天国にいる、すべての芸術家たちにもう一度、このバラを授けるよ。あてぃしからの、愛のしるしに。自由な芸術をこれからも創造できるよう、願いをこめて」
「ミューズさま、それじゃあ……」
ピカソさんが、ゆっくりとそれを受け取る。
目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「うん。ピカソちゃん、人間界でのタマシイ活動、応援してるよ。観察官たちには、あてぃしのほうから、うまいこといっておくからさー。ルドンちゃんも、ゴッホちゃんにも、伝えるといいよ」
「ありがとうございます……」
祈るように青いバラを掲げ、ピカソさんはミューズさまに頭をさげた。
「お礼は、宇野さくらっちにね。この子のおかげで、きみは芸術を続けられるんだよ。あてぃしが選んだ女の子だよ! さっすが、芸術の女神・ミューズ!」
ふふん、と鼻高々にミューズさまはいった。
ピカソさんは苦笑しながらも、わたしに向き合った。
「そうだな。改めて、きみのことを称賛させてくれ。宇野さくら。きみはすばらしい」
何度もいわれると照れるなあ。
すると、モネさんがわたしとピカソさんのあいだに入ってきた。
「さあ、これから忙しくなりますよ。さくらさん」
「え。どうして?」
「パブロたちに、いろいろ教えないといけないからですよ。幽霊としてのルールをね」
「そんなものあるの?」
「幽霊のことを、見えるものもいるのですよ?」
「あ!」
「さくらさんは、〝幽霊となって創作活動を続ければいい〟と、パブロに提案しました。ならば、最後まで責任を持たねばなりません。芸術の神のちからを持つもの、人間として」
その後、わたしはモネさんといっしょに天国図書館にいた。
お城のような図書館は、天井まで吹き抜けになっている。
階段が壁にそうようにぐるりと回り、上に向かってどこまでも続いていくようだ。
壁や通路の本棚にはびっしりと、本がつまっている。
わたしが見ても、なんて書かれているのかはわからない本がほとんどだ。
階段を登り、二階まできたところで、日本語の本も見つけた。
ええと、『ももたろう』。子ども向けの本みたいだ。
「さくらさん。その本が気になりますか?」
モネさんが、かがんで本の背表紙に指をかけた。
「え、ううん。そういうわけじゃないんだけど」
「おや、そうですか」
本棚から手を引くモネさんの後ろで、ぎゃあぎゃあと誰かがさわいでいる。
「幽霊になるなんて、フィンセントにはムリだろう。 キサマは、臆病者だからなあ」
「オディロンこそ、他の幽霊を見てビビるんじゃないのお?」
「ちょっとふたりとも、なにケンカして……」
ふわり。図書館の窓から、ピンク色の花びらが舞いこんでくる。
そういえば、図書館の庭にも桜が咲いていたっけ。
人間界といっしょで、天国の景色も春めいていたな。
花びらは、わたしたちのあいだに、ひらり、ひらりと飛んできて。
わたしの肩に、ちょん、と乗った。
これは、桜の花びら?
「宇野さくら、そこを動くな!」
「え?」
ルドンさんが、そばにあったスケッチブックと鉛筆を手に取った。
「いいアングルに、いいシチュエーションだ! これは絵になる!」
ゴッホさんの目の色が変わっている。
手には、ルドンさんと同じ。スケッチブック、そして、鉛筆。
「「動くなよ!」」
この二人のモデルなんて、無理だよ。
こだわり強そうだし……。
それに、二人とも。
今から、予定あるんだけど。
外で、ピカソさんが待ってるんだけど……。
「今ですよ」
モネさんが、耳打ちをしてきた。
「二人の視線がスケッチブックに向いているうちに、出ましょう。パブロに叱ってもらえばいいですよ」
「そ、そうだね」
わたしとモネさんは、コッソリと二人の前から逃げ出した。
階段を降りている途中、画集が並んだ棚を見つけた。
「ヨハネス・フェルメール、葛飾北斎、東洲斎写楽、アンディ・ウォーホル……」
モネさんたち以外にも、いろんな芸術家さんがいるんだなあ。当然だけど。
いつか、会えたりしないかな。
その一冊を手に取る。
『クロード・モネ』
「ふふ」
モネさんが笑う。
「さくらさん。その画家が気になりますか?」
「うん。かささぎも、印象・日の出も、きちんと見たことがなかったし……」
本人のいる前で、作品集を開くことができるだなんて、なんだか贅沢。
ぱら、とページをめくろうとした時、
「宇野さくら! どこに行ったあ!」
「モデルが……ぼくのモデルがいなくなった……!」
あらら、まずい。
わたしは、モネさんの画集を持って走り出した。
これからの未来のことを考えながら、今ある景色のなかへと飛びこむように。
わくわくする気持ちで、キャンバスをいろどるように。
おわり



