シトラスの魔法が解けるまで

​私はわざと足取りをゆっくりにして、彼の真横を通った。
誰かに話しかけるふりをして、彼の座席のすぐ後ろで立ち止まってみる。
席移動が激しい今なら、私がここにいても誰も不自然には思わない。
​(……近い)
​ほんの数秒。
私の肩と、彼の肩が触れそうな距離。
車内の喧騒に紛れて、あの懐かしいシトラスの香りが、ふわっと私の鼻を掠めた。
彼は私が隣にいることに気づいているのか、いないのか。
ただ、少しだけ彼が動いた拍子に、制服の袖が私の腕に一瞬だけ触れた。
​「……っ」
​私はそれだけで胸がいっぱいになって、逃げるように自分の号車へと戻った。
一言も交わさなかった。目も合わなかった。
でも、新幹線の揺れの中で共有したあの数分間は、私にとってどんなお土産よりも価値のあるものだった。
​『意味なんてなくていい。
ただ隣にいたいという、わがままな願い。
PV520。
物語の終わりを知っている未来の私が、今の私を抱きしめたくなるような。
そんな、最高に臆病で最高に勇敢な、新幹線の中のラストランだった。』