「兄上は、どうしてこんなことをしたんだろうな」
その声には怒りよりも、深い戸惑いのほうが滲んでいた。
「殿下」
「……いや、分かってる。明日には決着がつく」
殿下は苦笑して肩をすくめた。
「でもさ。もし俺が国王になったら、この灯り全部守らなきゃいけないんだろ?」
「そうですわね」
「……荷が重いなあ」
「今さらですの?」
思わず笑ってしまうと、殿下もつられたように小さく吹き出した。
「ジニーは本当に容赦ないな」
「辺境伯の娘ですもの」
「知ってる」
殿下はふっと息を吐き、星の瞬く夜空を見上げた。
「でもさ、もし俺が明日負けたら」
夜風に溶けるような静かな声が、ふと途切れた。
私は小さく首を傾げた。
殿下は笑って続けた。
「そのときはジニー、全力で逃げてくれ」
思わず眉をひそめた。
「嫌です」
「少しくらい考えてくれよ」
「嫌です」
私は冷えた柵へ手を置き、灯りの広がる街を見下ろした。
「逃げるくらいなら、私は死ぬまで殿下の隣で剣を振り続けますわ」
「それはそれで困る」
「なぜですの?」
「君が死んだら、俺が困る」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「殿下」
「ん?」
「私、結構しぶといですわよ」
「知ってる」
殿下は笑った。
「君、人質十年やってたんだもんな」
「ええ」
夜の王都を見つめながら、私は静かに息を吸い込んだ。
「だから、もう逃げません」
十年前の私は、父と母に守られながら、この街を遠くから眺めることしかできなかった。
けれど、今は違う。
この灯りの下で生きる人々の姿を、私はもうはっきりと見ている。
「殿下」
「ん?」
「明日、勝ちましょう」
「……そうだな」
殿下は静かに頷いた。
秋の夜風は涼しく、息を吸うたびに体の奥までひんやりと冷えていくようだった。
乾かしたばかりの髪が、夜風にさらわれてふわりと広がる。
ふと殿下が黙り込み、夜空を見上げた。
つられて見上げた空には、降ってきそうなくらい無数の星が瞬いていた。
「ついに明日だからなあ」
「そうですわねえ」
決戦前夜だというのに、気の利いた慰めの言葉は何ひとつ浮かばなかった。
ぼんやりと星空を見上げていると、そっと伸びてきた手が私の手へ重なった。
「明日うまくいったら、母上のティアラを君に贈りたいな」
「そういうの、“フラグ”って言うらしいですよ、殿下」
以前、王都を散策していたときに、若い女性たちの間で流行っている小説を教えてもらったのだ。
そこに、そんなことが書いてあった。
「今の俺は、殿下じゃなくて逆賊だからさ」
「がんばって返り咲いてくださいな。私を逆賊の妻にするおつもりですか?」
「それは嫌だな。……いっちょやってやろうかな」
重なった手が、強く握られた。
私も同じように握り返した。
「ええ、兄上にぶちかましてやりましょう」
目を合わせて笑う。
夜風は冷たさを増していくのに、寄り添う肩だけは驚くほど温かかった。
十年前には見えなかった人々の営みが、今ははっきりと私の瞳に映っている。隣に立つのも、両親ではない。私が支えたいと願った殿方だった。
私はもう、人質令嬢ではない。
その声には怒りよりも、深い戸惑いのほうが滲んでいた。
「殿下」
「……いや、分かってる。明日には決着がつく」
殿下は苦笑して肩をすくめた。
「でもさ。もし俺が国王になったら、この灯り全部守らなきゃいけないんだろ?」
「そうですわね」
「……荷が重いなあ」
「今さらですの?」
思わず笑ってしまうと、殿下もつられたように小さく吹き出した。
「ジニーは本当に容赦ないな」
「辺境伯の娘ですもの」
「知ってる」
殿下はふっと息を吐き、星の瞬く夜空を見上げた。
「でもさ、もし俺が明日負けたら」
夜風に溶けるような静かな声が、ふと途切れた。
私は小さく首を傾げた。
殿下は笑って続けた。
「そのときはジニー、全力で逃げてくれ」
思わず眉をひそめた。
「嫌です」
「少しくらい考えてくれよ」
「嫌です」
私は冷えた柵へ手を置き、灯りの広がる街を見下ろした。
「逃げるくらいなら、私は死ぬまで殿下の隣で剣を振り続けますわ」
「それはそれで困る」
「なぜですの?」
「君が死んだら、俺が困る」
あまりにも真剣な顔で言うものだから、思わず吹き出してしまった。
「殿下」
「ん?」
「私、結構しぶといですわよ」
「知ってる」
殿下は笑った。
「君、人質十年やってたんだもんな」
「ええ」
夜の王都を見つめながら、私は静かに息を吸い込んだ。
「だから、もう逃げません」
十年前の私は、父と母に守られながら、この街を遠くから眺めることしかできなかった。
けれど、今は違う。
この灯りの下で生きる人々の姿を、私はもうはっきりと見ている。
「殿下」
「ん?」
「明日、勝ちましょう」
「……そうだな」
殿下は静かに頷いた。
秋の夜風は涼しく、息を吸うたびに体の奥までひんやりと冷えていくようだった。
乾かしたばかりの髪が、夜風にさらわれてふわりと広がる。
ふと殿下が黙り込み、夜空を見上げた。
つられて見上げた空には、降ってきそうなくらい無数の星が瞬いていた。
「ついに明日だからなあ」
「そうですわねえ」
決戦前夜だというのに、気の利いた慰めの言葉は何ひとつ浮かばなかった。
ぼんやりと星空を見上げていると、そっと伸びてきた手が私の手へ重なった。
「明日うまくいったら、母上のティアラを君に贈りたいな」
「そういうの、“フラグ”って言うらしいですよ、殿下」
以前、王都を散策していたときに、若い女性たちの間で流行っている小説を教えてもらったのだ。
そこに、そんなことが書いてあった。
「今の俺は、殿下じゃなくて逆賊だからさ」
「がんばって返り咲いてくださいな。私を逆賊の妻にするおつもりですか?」
「それは嫌だな。……いっちょやってやろうかな」
重なった手が、強く握られた。
私も同じように握り返した。
「ええ、兄上にぶちかましてやりましょう」
目を合わせて笑う。
夜風は冷たさを増していくのに、寄り添う肩だけは驚くほど温かかった。
十年前には見えなかった人々の営みが、今ははっきりと私の瞳に映っている。隣に立つのも、両親ではない。私が支えたいと願った殿方だった。
私はもう、人質令嬢ではない。



