夜。湯浴みを終えて部屋へ戻ろうとしたところで、モルドレッド殿下に呼び止められた。
「ジニー、寝る前に少しだけ話さない?」
「よろこんで、殿下」
殿下と肩を並べて、バルコニーへ向かった。
ヴォーティガン家のタウンハウスは王都の東端、小高い丘の上に建っている。バルコニーへ出ると、頭上には星空が広がり、その下には王都に住まう人々の灯りがどこまでも続いていた。
殿下はバルコニーの柵へ手をかけ、夜風に白金の髪を揺らしていた。
「ここに来るのは初めてだ」
その横顔をまともに見られないまま、私はそっと目を伏せた。
「私も最後に来たのはいつだったか、覚えていませんわ」
……本当は、忘れるはずがない。
私が最後にここに来たのは人質になる前夜、両親と弟と共に泊まったときのことだ。
脳裏に浮かぶのは、悔しさを押し隠していた父と母の顔。そして、両親と私を見比べながら、不安そうに私の手を握っていた弟の小さな手だった。
最後まで私の手を離そうとしなかった弟も、今では遠いヴォーティガン領で領主代行として政務に励んでいる。
そして、私は。
私は唇をきゅっと噛み、王城のほうへ視線を向けた。
城壁の上では松明の火が揺らめいていた。あの灯が十年前と同じものかどうかなんて、さすがに覚えてはいないけれど。
「ジニー」
「……はい」
モルドレッド殿下の声に、私ははっと我に返った。
顔を彼へ向けると、殿下は先ほどまでの私とは逆に、静かに城下町を見つめていた。
その視線はどこまでも穏やかで、私の訓練を見守る父の眼差しにも似ていた。
「あそこの屋台の串焼き、おいしかったよな」
殿下が指さした先には、かつて二人で歩いた通りがあり、夜更けだというのにまだ人々の姿が見えていた。
「……そうですわね。その先で喧嘩があって、止めに入りましたわね」
「ああ、酔っ払いが騒いでいたやつだ。その先の酒場だったな」
殿下と城下町を歩いていたのは、ほんの半年前の数か月ほど前のことなのに。
それなのに、次から次へと思い出話があふれてくる。
「こんな時間でも、人は働いてるんだな」
殿下が、夜景を見つめたままぽつりと呟いた。
屋台が並ぶ通りを見下ろしていると、夜の王都がまだ眠っていないことがよく分かった。
酒場の扉が開くたびに陽気な笑い声が漏れ、店先では遅くまで働く職人たちが灯りをともしていた。石畳を馬車がゆっくり通り過ぎ、パン屋の裏口からは明日の仕込みだろうか、焼く前の小麦の香りが夜風に乗って漂ってくる。
「王都は眠らない街ですもの」
「……昔はそんなこと、考えたこともなかった」
柵へ肘を預け、殿下は街を見下ろしたまま静かに続けた。
「王子ってさ、城の中にいると国のことなんて分かった気になるんだよ。地図とか、税とか、軍とか……数字ばかり見てさ」
「ええ」
「でも、こうして見るとさ」
殿下は指先で、灯りの連なる通りをゆっくりとなぞった。
「あそこにいる一人一人が、この国なんだよな。……父上や兄上が守ってきた国なんだ」
私は何も言わず、その横顔を見つめた。
夜風に揺れる白金の髪の向こうで、殿下の横顔はどこか穏やかだった。
「ジニー、寝る前に少しだけ話さない?」
「よろこんで、殿下」
殿下と肩を並べて、バルコニーへ向かった。
ヴォーティガン家のタウンハウスは王都の東端、小高い丘の上に建っている。バルコニーへ出ると、頭上には星空が広がり、その下には王都に住まう人々の灯りがどこまでも続いていた。
殿下はバルコニーの柵へ手をかけ、夜風に白金の髪を揺らしていた。
「ここに来るのは初めてだ」
その横顔をまともに見られないまま、私はそっと目を伏せた。
「私も最後に来たのはいつだったか、覚えていませんわ」
……本当は、忘れるはずがない。
私が最後にここに来たのは人質になる前夜、両親と弟と共に泊まったときのことだ。
脳裏に浮かぶのは、悔しさを押し隠していた父と母の顔。そして、両親と私を見比べながら、不安そうに私の手を握っていた弟の小さな手だった。
最後まで私の手を離そうとしなかった弟も、今では遠いヴォーティガン領で領主代行として政務に励んでいる。
そして、私は。
私は唇をきゅっと噛み、王城のほうへ視線を向けた。
城壁の上では松明の火が揺らめいていた。あの灯が十年前と同じものかどうかなんて、さすがに覚えてはいないけれど。
「ジニー」
「……はい」
モルドレッド殿下の声に、私ははっと我に返った。
顔を彼へ向けると、殿下は先ほどまでの私とは逆に、静かに城下町を見つめていた。
その視線はどこまでも穏やかで、私の訓練を見守る父の眼差しにも似ていた。
「あそこの屋台の串焼き、おいしかったよな」
殿下が指さした先には、かつて二人で歩いた通りがあり、夜更けだというのにまだ人々の姿が見えていた。
「……そうですわね。その先で喧嘩があって、止めに入りましたわね」
「ああ、酔っ払いが騒いでいたやつだ。その先の酒場だったな」
殿下と城下町を歩いていたのは、ほんの半年前の数か月ほど前のことなのに。
それなのに、次から次へと思い出話があふれてくる。
「こんな時間でも、人は働いてるんだな」
殿下が、夜景を見つめたままぽつりと呟いた。
屋台が並ぶ通りを見下ろしていると、夜の王都がまだ眠っていないことがよく分かった。
酒場の扉が開くたびに陽気な笑い声が漏れ、店先では遅くまで働く職人たちが灯りをともしていた。石畳を馬車がゆっくり通り過ぎ、パン屋の裏口からは明日の仕込みだろうか、焼く前の小麦の香りが夜風に乗って漂ってくる。
「王都は眠らない街ですもの」
「……昔はそんなこと、考えたこともなかった」
柵へ肘を預け、殿下は街を見下ろしたまま静かに続けた。
「王子ってさ、城の中にいると国のことなんて分かった気になるんだよ。地図とか、税とか、軍とか……数字ばかり見てさ」
「ええ」
「でも、こうして見るとさ」
殿下は指先で、灯りの連なる通りをゆっくりとなぞった。
「あそこにいる一人一人が、この国なんだよな。……父上や兄上が守ってきた国なんだ」
私は何も言わず、その横顔を見つめた。
夜風に揺れる白金の髪の向こうで、殿下の横顔はどこか穏やかだった。



